「武蔵野の原風景を舞台に展開する、愛とエゴと享楽主義の恋愛悲劇」武蔵野夫人 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
武蔵野の原風景を舞台に展開する、愛とエゴと享楽主義の恋愛悲劇
武蔵野台地に歴史を持つ家柄のひとり娘秋山道子と従弟宮地勉との恋愛を、美しい背景の中で描いた個性的映画。フランス文学に傾倒する大岡昇平の自由恋愛に基づいた先鋭的な台詞が日本映画では珍しく、当時としてはベストセラー小説の映画化以上の大胆な試みを感じる。それを田中絹代、森雅之、轟夕起子、山村聡のベテラン俳優が演じる興味深さに、戦前の「路傍の石」などの名子役片山明彦の青年役が加わる。
道子は、終戦直前に両親を亡くして、宮地家をひとりで守らなければならない。夫秋山忠雄はスタンダールの研究家兼理論家で大学で講師をするインテリではあるが、妻道子へ対する愛情は確かなものではない。姦通に拘る自由論者を標榜していて、倫理に厳しい男性ではなく正義感も薄い。この夫婦に近所に住む道子の従兄大野夫妻が絡んで、場面展開はとてもいい。会話劇の舞台を観るような面白さがある。そこへ出征以来行方不明だった宮地勉が突然現れて、勉の世話をする道子と忠雄の仲がより不安定化する。道子は同居を望んだが、嫉妬に駆られた忠雄は勉を東京のアパートに紹介し離れさせる。このようなところのインテリ男の弱い精神面の嫌らしさが出ていて結構面白い。森雅之の演技も流石に良く、役柄になり切っている。
それでも学校生活や女遊びの乱れを危惧して、大野家の家庭教師として勉は武蔵野に呼び戻される。ここからドラマは進展していくのだが、道子と勉の接近は解るものの、忠雄は大野夫人富子へ近付いていくのだ。この森雅之と轟由起子の関係が、溝口監督の演出で通俗性を突き破る面白さがある。そして、映画は武蔵野の自然の風景や美しい景色を捉えていく。道子と勉が静かに歩いていくだけで、その内に秘めた思いを暗示させる映像美だった。
道子と勉の間に富子が介入したり、二人が村山貯水池に出かけて嵐に会いホテルで夜を一緒に過ごす場面など、フランス映画のような趣の溝口映画。原作の持つ自由な恋愛観が理由ではあるだろう。それでも予期しない出来事に翻弄される女と男を見詰める視点に、溝口らしい冷静で確かな演出力はあった。純粋に家を守ろうとする古風な道子と武蔵野台地と道子を愛する勉の、血縁と年齢差を越えた愛が、親族のエゴと享楽主義によって悲劇に終わるドラマ。愛が善とすれば、この善と悪は面白く彩られていた。
1978年 7月14日 フィルムセンター