「戦争未亡人を演じる高峰秀子の素晴らしさ、そして緻密な成瀬演出が見事」乱れる Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
戦争未亡人を演じる高峰秀子の素晴らしさ、そして緻密な成瀬演出が見事
成瀬巳喜男監督59歳の時に演出した純然たるメロドラマ。主演高峰秀子演じる戦争未亡人の揺れ動く女性心理に重きを置いた脚本の狙いは、偏にこの脚本を執筆した高峰秀子の夫でもある松山善三の女優高峰の魅力や実力を余すことなく表現することにあったと思われる。そう言い切れるほど成瀬監督の演出も、男女間の恋愛感情よりヒロイン森田礼子の戦争未亡人としての境遇から芽生える女心を繊細且つ丁寧に描写している。それは義弟幸司の心理描写が弱いことを意味し、唯一の食い足りなさとして残る。この作品の初見は、まだ成瀬監督の良さを知らなかった19歳の時のテレビ視聴であった。その時の映画ノートには、(最後亡くなってしまう幸司の死因が事故なのか自殺なのかの曖昧な決着の仕方が、主人公礼子の弱い立場を救いのないところまで追い詰めてしまったのは失敗である。それまでの展開が的確で堅実なだけに、余計残念に思った。)と生意気にも書いている。今回、この観方を修正したくなったのは、戦争未亡人の設定に込められた戦後日本の女性の愛の彷徨に絞った意図を理解すると共に、11歳の年の差以上にある幸司の幼さを演じる加山雄三の好演も、その役柄の難しさが高峰の演技とのバランスを最上としていないのは、いた仕方ないと思い至った。
太平洋戦争の最中に18歳で結婚し、半年で22歳の夫が徴兵され、そのまま戦死して未亡人になった森田礼子。このような女性は戦後日本社会に沢山いたであろう。その多くは子供がいなければ実家に戻されたか、または亡き夫の兄弟と結ばざるを得ない人もいたと思う。家父長制度が根強く残る昭和30年代、女性が一人で生計を立てることが容易ではない時代に、それでも礼子は酒屋「森田屋」をひとり切り盛りし、18年も働き続け軌道に乗せ家業を立派に継いでいる。しかし、その頑張りと優秀さが仇となり、義母は頼り切りになるし、小姑の二人はやり手で控えめな性格に同じ女性として嫉妬している。問題は大学を卒業して就職したものの直ぐに仕事を辞め実家に戻るも、麻雀やパチンコ、そして酒と女とに遊び惚ける次男幸司の放蕩振り。そんな義弟を可愛がり、義母に嘘を付いてまで彼が困らないように優しく気付かっている。初めて会った7歳時の可愛い少年を見るように、あくまで亡き夫の弟として世話を焼き大事に扱っている。戦争と言う生きるか死ぬかの未来に希望が持てない状況の結婚で契りを結んだ夫を突然失ったからこそ、礼子の愛はその嫁の役目を全うすることで純粋化し、愛の代償として仕事に打ち込むことが生きる術となっていた。だから幸司から森田家の犠牲になったと言われると、それまでの自分を全否定されたように感じてしまう。
この映画のコンセプトを無視すれば、この幸司が大学卒業と同時に酒屋の家業を継ぎ、唐突に好きと告白せず、誰もが認める仕事振りを礼子に思わせるべきだった。それから仲の良さを自然と周知させて、仕事の主導権を得てから礼子に結婚を申し込めば、全く違うストーリーになっただろう。ただこの時代では、女性が男性より11歳も年上なのが現実にはありえない。世間体を気にするのが良識であったからだ。また精神年齢に開きが無ければまだ解るが、36歳の礼子は分別があり過ぎるし、幸司は25歳の男にしては考え方が幼すぎる。
しかし、この映画の良さは、恋愛を特に意識しないで生きてきた境遇と状況から突然愛の告白を受けて、どう対応してよいのか悩み苦しむ女性の乱れる心理を見事に描き切っている。成瀬監督の真骨頂の演出美であり、女優高峰秀子の演技力の素晴らしさである。脚本家松山善三の名女優愛と、高峰に全幅の信頼を寄せる成瀬監督の確信的安定感。映画中盤で退職したのを責められる幸司が義姉さんの傍にいたかったと知り、それはどんな意味と心がざわつくカット。和室の中に移動して、好きだったという幸司に振り返りながら、馬鹿な事言うもんじゃないわ、と言い冷静にそれまでの自分の半生を語る。ここで注目すべきは、薄明りの室内の光と影を絶妙に礼子の心理とシンクロさせている演出とカメラワークである。店を再興した自分に自信を持って語るところは明るく、義父が亡くなって森田屋の家庭内の苦労を語り始め(私の18年間が犠牲で無かったこと、みんなが知ってるはずじゃないの!)の台詞のカットは影になっている。そう思いたい、そう思わないとやっていけなかった礼子の心理を的確に映像化している。幸司の同情から愛に変わったんじゃないと言われても、そのまま受け止められない礼子が、ならば家を出て行きますと意を決するまでの脚本と演出と演技の集中度の高さは見事。そして鬱積した恋心を上手く処理できない幸司の難しい役を加山雄三が演じることの、何とか持ちこたえている緊張感も観ていて感じる。でもこれは日本映画に多く見られるキャスティングの特徴でもあるから、加山雄三が悪い訳ではない。
一度家を出てから改心して御用聞きの配達をするワンシーン。強い雨の中帰って来た幸司の雨合羽の襟元に自然と手が伸び、ふたりの距離が近くなって意識する礼子の戸惑。電話のベルが鳴りどちらが取るか譲り合う二人から、寝静まったあと幸司の足音に敏感になり布団から起き上がる礼子。好かれていることに息苦しさを感じてきて、ある日和服に着替えて外出するシークエンスがいい。多分夫の墓参りと予想したが、墓前でのアップショットは無く、亡き夫に何を語ったのかは描いていない。しかし、ここで重要なのは、後から追って来た幸司に語る言葉だった。(私と幸司さんとでは生きた時代が違う)と。誰もが好きなら愛して結婚も考えるのが、戦後日本の当然の価値観だろう。でも礼子は昭和3年生まれの戦前の教育を受けて、個人の言動は世間体に配慮した生活を信条として来たに違いない。片や幸司は戦前の昭和14年生まれでも丁度戦後教育の始まりに当たる世代である。東京オリンピックが開催され更なる高度成長の希望に溢れた昭和39年の時代背景に、個人商店からスーパーマーケットに変わりつつある大量消費の経済を物語の展開に巧みに組み込んで、年の差11歳の二人の埋められない隔たりを設定している。いつの時代にもあり得るメロドラマとは、そこが違う。そして、ここで言う決心をした礼子は、亡き夫に別れを告げたことが想像できる。
最後の家族会議を含めて、小姑を演じた草笛光子と白川由美の性格のきつい演技が高峰秀子の引き立て役に回り、なかでも礼子が家を出ることを知った後の草笛の演技が秀逸である。見合いを断ったエピソードが、その会話を面白くしているし、その義母役の三益愛子含めた女優4人が揃うの場面は名舞台を観ているような充足感がある。東海道本線から上野で乗り換え東北本線、そして奥羽本線の電車での長旅シーンの変化する時間と空間の映画的な表現も素晴らしい。同行する幸司が満席の為通路に立っていると、次第に客が入れ替わり座席に座るのだが、ふたりの距離が短くなっていく段階を経て、最初よそよそしかった礼子の表情に僅かながら笑みが見られる。そして上野からは同席して普段の会話を交わすふたりになっている。夜行列車が朝を迎え、幸司の寝顔を見詰めて自然と涙をこぼす高峰の演技の美しさ。その涙に同調するかのように、朝もやの大石田駅に列車は到着する。別れる区切りを一泊の温泉宿にして、想い出として残そうとした礼子は、銀山温泉バスに向かうところで初めて幸司の愛に答える。そして、銀山温泉宿でふたりの愛する思いを分かち合うが、一線を超えることはない。ここで生き別れても充分メロドラマとして成立すると思うのだが、この映画は残酷にも主人公森田玲子が愛する人を連続して失う運命をラストカットにして終わる。泣くことも叫ぶことも出来ない程に衝撃を受け動揺する礼子を演じ切った高峰秀子のアップから感じるのは、戦争未亡人の悲劇である。
こんにちは
「ターミネーター2」に共感ありがとうございます。
報告が遅れてすみません。
実は私、11月14日にどうしてもログイン出来ず、
新規登録しています。
パソコン音痴の単純だケアレスミスなのです。
元のレビューは残っているようですが、
共感していただいても、コメントも届かないのですよ。
でも心機一転、めげずに続けて行こうと思っております。
今後ともよろしくお願い致します。