「毎年、戦争を語る意味とは」火垂るの墓(1988) AKIRAさんの映画レビュー(感想・評価)
毎年、戦争を語る意味とは
人は、夏になると冬の寒さを忘れ、冬になると夏の暑さを忘れてしまうそんな生きものだと思います。半年も経つと人は、過去の過ちをも忘れてしまいがちです。(怒りや恨みはなぜかおぼえています。私も人の事は言えません)
そんな人類には、やはり一年に一度は忙しい中にも立ち止まり、戦中や戦後を語り継ぎ考える時期を持つのは必要なのだと私も思うのです。
この映画を観るようにつらいことかもしれませんが。
そして、
『正義』というものは、その人のその時の立場や事情で、表にも裏にもなってしまいます。でも、『大切なもの』は変わらず普遍に存在し、どんな人種間でも共有出来るものだと私は思います。お互いの正義を戦わせるのではなく、大切なものの議論を聞きたいと、平和を想い今感じています(独裁者には届かないでしょうか...)
余談ですが、
私の祖父は、戦争の事を一切語りませんでした。本心を言うと、祖父にどんな事でもいいから語って欲しかったと今は思っています。
父は、中一で終戦を迎え、それまで殴られたり蹴られたりしていた教師が急ににこやかになり教科書を塗りつぶすよう指導した時は、今まで信じ込まされたものが違っていたのかと、ものすごく憤りを感じたそうです。そして、北海道の片田舎である父の街にもアメリカ軍が来ると聞き、「ギブ・ミー・チョコレート」と言うとお菓子をくれると耳にし、言ったら本当にくれた嬉しかったと言っていました。その時が父の人生で初めて自由を感じた瞬間だったのでしょう。料理の出来ない父が、学生の頃から唯一手鍋で炒って煮詰めて作っていたのがHERSHEY‘Sのココアでした。濃厚で本当に美味しかったのですが、もしかしたらあの時のチョコレートがHERSHEY’Sだったのかもしれません。
戦後、坂口安吾が『堕落論』の中で、人間なのだから混乱の中で堕落してもいい。でも堕落しても「正しく」堕落するのだ、と言ったように、日本人として恥じない精神が、戦後を生き抜いた方々の(祖父にも)根底にあり今があると感じ、感謝しています。