劇場公開日 1988年4月16日

「泣くしかないのだが…」火垂るの墓(1988) R41さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0 泣くしかないのだが…

2025年8月23日
PCから投稿
鑑賞方法:TV地上波

作家野坂昭如氏の小説をジブリがアニメ化した作品
何度見たか知れぬほど見てきた。
泣きたいときにDVDを借りてくる知人までいる。
そして、やはり何度見ても泣けてしまう。
毎年お盆の時期にこの作品が地上波で流れる。
今回は、その残酷な場面をカットされた地上波を録画したものを見た。
冒頭のセイタのナレーション
彼自身が死んだことをまず述べている。
つまりこの物語は、死んだ直後のセイタが自らの人生を回想する形式となっている。
基本的に悲しい物語だが、その悲しさの背後にあるのは、セイタの余りにも無知でコミュニケーション能力のなさが見えてくる。
セイタの思考 妹セツコを守らなければならないという強い意思
彼は空襲と焼夷弾という隠れ蓑を使って窃盗を繰り返していた。
そして空襲がなくなったことで、いよいよ生活が困窮してくる。
このカットされた場面には、セイタは母から預金通帳を受取っている。
しかしセイタは、その通帳に記載されている数字を、どうしたら現金化できるのかを知らないし、誰かに聞こうともしなかった。
少し裕福な家系でのセイタの日常は、こんな常識的なことさえ知らずにいたのだろう。
セイタは純粋で必死で生きているように見えるが、非常に隔離された世界で生きているようにも感じる。
終戦を知らなかったこと
だから空襲が来なくなったということ
そして誰かから聞いたのか、やっと預金通帳のお金を引き出すことができた。
しかし、時すでに遅く、セツコが逝ってしまう。
冒頭 駅の構内で死んだセイタは、佐久間式ドロップ缶の中から飛び出してきたセツコと一緒に電車に乗る。
その同じ電車の違う次元には、かつて二人で疎開した姿が映る。
何故セイタは二人になってからのことを回想しなければならなかったのだろう?
そこに感じる一抹の想い。
「もしかしたら、セツコを死なせたのは僕の所為なのかもしれない」
死んだセイタは、セツコと共に、もう一度自分の行動や選択を検証したかったのかもしれない。
戦争は、起きてしまえば国民はどうすることもできないまま、政府に従うほかない。
空襲されれば逃げるしかない。
幼い子供などを守りつつ、できるだけたくさんの物品を持って逃げるしかない。
母がけがをした知らせと母の姿
ウジの湧いた母の身体 火葬
セツコに言えなかったこと。
最初から最後まで出てくる蛍は、死の暗示だろうか。
そしてあまりにも無知で無力なセイタは、当時の野坂氏自身を表現したのだろうか?
原因は戦争に間違いないが、自らを人々から隔離するようにしてしまったことで、得られる情報も途絶え、生きる術さえ消していったのではないのか。
盗めば袋叩きにされることは、「はだしのゲン」にも描かれていた。
電車に乗りながら霊となった二人は、もう一度この出来事を振り返る。
そして最後は、高層ビルの立ち並ぶ現代日本の姿を見ていた。
野坂氏は、このあまりにも無知で無力なセイタという人物の失敗を、再び繰り返してはならないと言っているのかもしれない。
セイタの一人称で語られる物語
霊となってもまだ再開できない父と母
このことは、セイタの未熟を示しているのだろうか。
無知でコミュニケーション下手
預金には二人で生きていくに十分なお金があるにもかかわらず、その使い方を知らず、その事さえ人に聞けない。
少し憶えたズルい生き方を繰り返すしかない。
このことが招いた「死」
父と母が残したものが使用されないまま死んでしまう。
この不幸
か弱き者が辿ってしまう道を、この映画を見た人には辿って欲しくはない。
それがこの作品の言いたかったことかもしれない。

R41