火垂るの墓(1988)のレビュー・感想・評価
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ようやく鑑賞する気になれました。
今まで、この映画をみることを避けてきました。何故かというと、「感動ポルノ」というか、あからさまな「お涙頂戴映画」に感じて、見ると辛い気分にしかならないと思っていたからです。しかし、某氏の解説を聞き、それを確かめるために評論家気分で俯瞰視点から見るように努めれば、それほど辛い気持ちにならずに済むのではないか。そう思い立ち、ようやく見ることを決心しました。
で、見終わった後の感想ですが、やはり、見ていて辛い映画でしかなかったです。やはり、二人が気の毒ですね。子供ながらの愚かしさ、意地っ張りは判るし、それを上手く導いてあげられる大人の存在が無いのは非常に悲しむべき事だった。でも、そんな人の存在は希であり、そんな人との出逢いは奇跡であり、自分のことで精一杯だった当時の人々の事情を思えば、「悲しいけど、仕方ない」というのがギリギリ精一杯な理解です。
ただ、どうして清太にもっともっと生きるために卑屈に頭を下げさせなかったのか。もう少し上手く生きることを選択させることが出来なかったのかと思う。軍人の気の強い息子だからと、その設定を加えた時点で、そんな選択肢をつぶされてしまった様にも見えるけど。そして、そんな卑屈な生き方をさせると主人公達は惨めで醜くなってしまう。ならば美しいまま死なせてはどうか。美しいまま永遠に神戸の街を見おろす亡霊にしてしまってはどうか、というこの映画の趣向が良いところでもあり、この映画の悪徳、タチの悪いところでもあったと思う。そんな「悪いところ」があるからこそ、「感動ポルノ」ではない、渋みのある映画として鑑賞できたのだと、私は感じました。
だから、ちょっと満点を付けるのは厳しいけど、非常に良い映画だったと思います。最初にお話しした某氏の解説の中に「禁じられた遊び」という映画のことも触れられていましたが、確かにその映画と共通する点も多く、影響されて「高畑勲版」を作ったのではないかとも感じられ、十分にそれと居並ぶ名作であると思います。
心に残る(トラウマ)
今でも記憶に強烈に残り、決して忘れられないトラウマになった映画です。
それは、戦争体験者が語る、「二度と思い出したくない」という思いに近いものかもしれません。映画なのに、心の深い場所にトラウマを残す。傑作には違いないのですが、おすすめはしません。
アメリカのどこかの小学校で、『プライベート・ライアン』を見せる罰と言うものがあると聞きましたが、それは戦争を軽んじるような言動をしたり、元軍人をリスペクトしないことに対する不敬罪に当たるようです。
確かに、子供にはきつい罰でしょうが、いい映画なのでいつかは見せたい一本です。かたや、『火垂るの墓』はと言えば…
これが戦争。と、如実に語る作品で、理屈抜きに、戦争は最大の災厄だと思い知らされます。子供には『キャプテン・アメリカ』を見せときゃいい、っていう時代は、いつまで続くのでしょうか。
全ては守るため
幼い頃観た時はトラウマ級に怖くて、誰かが戦争に巻き込まれるなど絶対にあってはならないことだと強く心に刷り込まれた。
子供にも物心つくかつかないかから戦争について話してきてはいるが、戦争体験者の方のお話を伺う機会の前に、家族からではなく戦争を客観的に描いたアニメから見せてみることにした。
トトロのさつき同様に、14歳という大人に甘えて良い年齢なはずの清太が母の死を抱え、4歳の妹が子供らしく生きられる環境のために必死になる。
元々は父親が海軍で、社会的立場に伴う暮らしをできていた家族が、空襲がきっかけで母と家を失い、一気に社会から疎外された存在としてなんとか命を繋ぐ日々になる。
焼け出されたら頼ることになっていた西宮のおばさんの家も、軍事のためにお勤めと学校に行く夫と娘を配給で賄うことに必死で、育ち盛りの14歳男子とまだまだ幼く手がかかる4歳女児を満たす余裕はない。
焼け出された家の庭に避難前に埋めておいた、亡き母の漬けた梅干しや干しにしん、着物など、清太は母との想い出や母の喪失もこもった心境で差し出すが、元々一般家庭のおばさんからすると、「あるところにはあるのね」と物資の足しとしてしか見られない。
それでも、母の着物で替えた白米は清太のものとして大部分を分けてくれたりと、精一杯してくれてはいるのだが、夫と娘には具入りの味噌汁、清太と節子には具なしの汁のみと、食卓でもあからさまに変化をつけてくる。
居場所を提供してくれるだけでも、充分ありがたいのだが、飢えた清太は大人と子供の中間で、おばさんに甘え続ける心苦しさもあることから、清太と節子での生活の自立を試みる。
大人からすると、生きてこそだから命のためになんとかおばさんのところで辛抱するのが節子の命を守る結果に繋がるとわかるのだが、14歳の清太の甘えたくない甘えられないと思ってしまった境遇も心境もよくわかる。そして節子も、空襲さえなければ途中まではゆとりのある暮らしだったことが発言の端々からわかり、そこもおばさんの心を逆撫でしてしまう。
堤防の横穴に母の遺した7,000円を少しずつ切り崩し生活用品を集めて2人暮らしを始める兄妹。電灯がなくホタルで照らし、カエルも食べ物に見えてくる。中学入学式の時に母が着ていた着物を替えて得たお米が底をつくと、周りの畑から農作物を盗んだり、空襲時に空き巣に入り足しにする生業に手を染めていく清太。
東京の知り合いの住所がわかればよいものの、わからず、西宮のおばさんを離れては、もう頼る大人がいないのだ。
戦争孤児はたくさん生じていたと思うが、戦時中のみんなが横穴暮らしのようなひもじい中でも最も原始的な生活をしていたわけでは決してない。
作中通りかかる子供達も、同じ地域の戦争経験者なわけだが、清太と節子が留守中の横穴を見てかける言葉から見てとれるように、身寄りがなく他人しかいない世界で子供達だけで暮らすことになってしまったせいで、節子の衰弱はすすみ、清太も命を落とした。
亡き節子の亡骸を燃やすために大量の炭を買い込み運ぶ清太が通りかかる横で、横穴を見下ろせる高台に聳え立つ大きな家に、疎開からおしゃれをして豊かなおうちのお嬢さん達が帰ってきて蓄音機を回す。
聞こえてくる音楽を耳に、いぐさの箱に詰めた節子に火を放ち、燃えていく節子の横で寝そべり空を見つめる清太。
母を失いそれを節子には悟られないよう1人抱え込んでいたが、その努力虚しく西宮のおばさんは幼い節子に母は亡くなったと吹き込んでいた。その上で毎晩母求めて泣く節子をどうにかしろと清太に心ない言葉がけをしていた。知るとなお、西宮のおばさんのところに身を置かずに、優しい空間で節子を守りたかった清太の気持ちはよくわかる。
横穴で回想される節子の、戦時中でも子供らしく動き回る幼児らしい仕草がより一層、清太の決断が正解でも不正解でもあったことを物語る。
食べ物がなくなって、母の遺した貯金7,000円のうち、4,000円を既に使った状態で3,000円を下ろしてきた段階で、清太と節子の命のカウントダウンは始まってしまっているのだが、でも、じゃあ氷屋さんの削りかすをすすったあの時、氷を買った立派なおうちに衰弱した節子と駆け込んでいたらどうにかなったのか?
一時的に凌げても他人にずっとは甘えられない。
病院に連れていくも滋養としか言われなかったが、何か手立てはあったのか?
清太も、大人が守ってくれなければ成り立たない子供である理不尽さに戻ってくる。
自分だけなら隣町で学校に行けば良いが、隣町に戻って配給は得られても住居がない。
節子のお世話は誰がする?
清太は温かく育っているから尚更、西宮のおばさんの元で節子を任せようとは思えないだろう。
堂々巡りに陥る。
節子に滋養をつけるために節子を待たせるしかなく、食材を買い込んできても火を通すためには節子を待たせるしかなく、待たされた節子に残された命はもう僅かだった。あと1日早ければなんとかなったのか?
食べれる体力があるうちに、文句を言わず、わずかでも食べられる暮らしに感謝して食べておけばもしかしたら守れた命なのかもしれない。
2人とも、終戦の8月15日段階では生きていた。
米軍の直接的な攻撃で命を落としたわけではない。
にも関わらず、栄養失調と、母も妹も父も亡くし、頼れる大人もおらず、心の拠り所もなく、生きる意味や気力を無くして、未来ある子供が命を落とした。
劇的な死因がないことがより残酷な戦争のしわ寄せという仕打ちである。
清太の経験した、悲しみ、悔しさ、みじめさ全て、三宮で清太の遺体から駅員が抜き取って投げた、節子の亡骸を詰めたドロップ缶ひとつで片付けられてしまう。
作中ざかざかと溜まりゆくホタルの残骸のように、戦争で兵士だけでなく民間人にも火が垂れ降り、名前があり人生を確かに生きていた人間がざかざかと虫けらのように一瞬で亡くなっていった。亡くなったらもう、清太の母、節子、清太のように、虫けら同様ただの気味の悪いゴミ扱い。
火垂るの墓はそのような、ホタルの墓のように、虫けらやゴミのように片付けられてしまった幾多の命を辿り弔う作品だ。
そのやるせなさが苦しいにも関わらず、大人になって観ると思ってしまう。もしもあのまま生き抜けていたとしても、戦後変わりゆく日本の中で、清太は社会的に除け者のような疎外感を感じながら、ただ命だけある惨めな生活に苛まれていただろうということ。もし自分ならと考えれば、悔しくも、亡き家族のもとに召されて良かったのかもしれないと考えてしまう。
作品にもそんな自分にも、久々に観たら、全身の寒気がずっと止まらない。
現実の酷さ惨さ虚しさを幼い節子には悟らせまいと頑張った清太は、途中や結果や最期がどうであろうと、立派だ。
心が痛む
初めて観たのは20歳のとき。涙が止まらぬままエンディング。
その後、テレビで何度か放映されているがだんだん直視できない。
かわいそうで辛くて余韻がすごい。
けれどしっかりと受け止めて観るべき実話。
兄妹、辛かったね。一生懸命がんばったね。
そんな軽い言葉ではとうてい表現できないけれど心の底から思う。
視聴率って大事?戦後79年経っても大衆迎合するんですか?
過去数回鑑賞
夏がくれば思い出す不朽の名作
アニメで名作が数多くあれど映画.comオールタイムベストがここまでしっくりくる作品を他にあげることはできない
実写映画の存在は知っているがテレビドラマや舞台の存在は知らなかった
松嶋菜々子主演のテレビドラマはきっと忘れていたのだろう
完全にアナザーストーリーだし
観てみたい気もする
舞台は終戦間近から直後の兵庫県神戸市&西宮市
父も母も妹も主人公も死んでしまい家族全滅
上半身がミイラのようになってしまった母と栄養失調で死にそうな節子
投げつけられたドロップ缶の中から出てきた節子の遺骨
それが強烈に印象に残る
昭和20年9月21日夜ぼくは死んだ
冒頭ここから始まる
リアルを追求する高畑だがリアルを超えたリアルなら死者の立場からの回想に辿り着くのか
僕は毎回ここでいきなり涙が溢れてしまう
散歩のあとに餌を与えようとすると大量な涎を垂らす飼い犬のように
まさしく条件反射まさしくパブロフの犬
ラピュタに比べると金曜ロードショーで放送されなくなって久しい
人間とはポジティブなものよりネガティブななものにすぐ食いつくが飽きるのも早いようだ
権利の問題もあるのだろうがそんなものは話し合いで乗り越えられるし毎年8月後半頃にETVで放送すればいいのにな
日本国から億単位の多額の補助金を貰っておきながら尖閣諸島を中共の領土だと海外に宣伝するくらいなら容易に出来るだろう
この作品は動画配信もされていない
来月からNetflixで配信されるらしいがアメリカ限定で日本は対象外
残念である
DVDを借りるか買う他ない状況
清太は我慢するべきだった
我慢していれば清太も節子も死なずにすんだという意見がいつからか覚えてないがネットで目立ち始めた
大元はなにかと言えば清太の声を担当した辰巳努の発言のようだ
彼を批判する気はないが僕は考えが違う
清太は軍人の息子だし自尊心を傷つけられることが何よりも耐えられなかったのだろう
自尊心が低い人には清太の心情は理解できないのかもしれない
そんなわけで清太のあの行動について批判する気にはなれない
誇り高い少年が野菜泥棒とは辻褄が合わないじゃないかとクレームがありそうだが人間とは矛盾に満ち不合理な存在なのだ
この年になってみると西宮のおばさんの立場も理解はできる
あの頃の自分ではない
この作品に対し「戦争の悲惨さがー」とか「戦争反対」とかそういうありふれた感想を述べる彼方系のレビュアーには抵抗がある
原作者の野坂昭如はどちらかというとそっちの方のようだが
僕としては過酷な環境に置かれた人間がどのように生きてどのように死んだのかという人間ドラマを描いたのだろうと初見からそう捉えていた
どうやら高畑監督も実際そんな感じらしい
そういえば手塚治虫も自作についてそのような発言をしていた気がする
高畑監督曰くやがて西宮のおばさんが正しく清太が悪いという意見が大勢になると
またしても全体主義の恐ろしい世の中になると予想した
ヤフコメだけみてとっても実際にそうなりつつある
今更ながら高畑勲はただ単にアニメ監督としてだけでなく人間的にも素晴らしい人だったんだな感銘する次第だ
声の配役
兄の清太に辰巳努
妹の節子に白石綾乃
心臓が弱く薬を飲んでいる清太と節子の母に志乃原良子
西宮の親戚の叔母さんに山口朱美
清太にアメリカン・ニューシネマ的反骨精神を見た
高畑勲監督は優れた観察眼により人の所作を描写していき、キャラクター達に生き生きとした生命感を与えていきます。そしてそれとは別にとても冷めた視点も持ち合わせており、それらを作品の中に同居させるのです。
本作でももちろんですが、それは「平成狸合戦ぽんぽこ」や「かぐや姫の物語」でも見ることが出来ます。
節子のあどけない愛らしさに観客の心を作品に惹き込んでおいて、その惨い最期を見せつけてくる事もそうですが、高畑勲監督は本作を観客がただ気持ちよく泣いて終わるだけの映画にはしませんでした。
映画の冒頭、清太が駅で息を引き取る間際のシーンにおいて、行き交う人々の中から「もうすぐ米軍が来るのに恥やで…」という声が聞こえてきます。
見れば清太の他にも柱に寄りかかりうな垂れている複数の人の姿が確認できます。(清太の元に無言で握り飯を置いて行ってくれる人の姿もあります)
この物語は清太を主人公としていますが、駅の柱に寄りかかる人が複数いる事からも、戦時下において特別な話では無い事が暗に示唆されます。
駅員も冷めており、デッキブラシで突いて清太が既に事切れているのを発見しても「またか…」と遺体を片すこともせず、他の少年の状態を確認しても特に救助するでなく、清太の遺品のサクマ式ドロップ缶を駅構外へ放ります。
空襲後のシーンでは、「自分の家だけ燃え残ったら逆に肩身が狭い。焼けてサッパリした」という様な事を話す者もあれば、倒れた遺体を覗き込んで自分の身内では無い事を呑気な調子で報告している者もあります。
清太の母親も空襲によって全身火傷を負い、翌日には亡くなり、遺体に蛆が湧きます。母親の遺体はその他の遺体と一緒に山積みにされ、まとめて火葬されてしまうのです。
その後清太は骨壺を抱えていますが、そんな状態で火葬された遺骨なんてどこの誰の者とも分かりません。(しかし清太は横穴へ移った時もその骨壺を大切に持ってきているのです。)
節子を火葬するための炭をくれた叔父さんはまるで釣り上げた魚の調理法をレクチャーするように遺体の焼き方を教えてくれます。清太はそれを淡々と聞き、教わった通りに節子の遺体を焼きながら何か頬張っているのです。
これらのシーンは戦後世代としては一々衝撃的なのですが、当の映画の中の人々は淡々としており、大きく感情を乱す人もいません。幼い節子でさえ母を恋しがりはするものの、ほとんどの場面で抑圧的なのです。人の命が余りにも無碍に失われていく戦時下という特殊な状況でも人はそれに慣れてしまうのかと思わせる恐ろしい描写が続きます。
また清太と節子が暮らした横穴の前には池があり、対岸に立派な屋敷の屋根がチラチラ見えるカットが本編に何度かあります。そして映画の終盤にその屋敷へ3人の娘がはしゃぎながら帰ってくるのです。もんぺ ではなく スカートをヒラつかせ、蓄音機で流すのは戦時下ならご法度だった外国語の唄です。おまけにそれが「ホーム・スイート・ホーム」とかいうふざけたタイトルの唄なのです。
このお屋敷の娘たちと清太と節子の兄妹には一体どんな違いがあったというのでしょうか?何故ここまでの皮肉を入れてくるのか?正直高畑勲監督に少し意地悪な印象も受けるのです。
兄妹が西宮の叔母ちゃんの家に居候をはじめて近所でお風呂を借りた帰り道に蛍を見つけるシーンがあります。清太が捕まえた蛍を節子に渡そうとした際、節子は誤って蛍を潰してしまいます。兄妹に蛍を殺してしまった事への感傷はありません。
その後、兄妹が横穴生活をはじめた際に大量の蛍を捕まえて暗い夜の横穴の中で放ち光り輝やかせますが、翌朝蛍は全て死んでしまいます。
蛍を埋葬する節子との会話で清太は、今まで隠していた母の死を節子が既に知っていた事を知り涙します。節子は掘り起こした穴に蛍を一まとめに埋葬しますが、その様子が母の火葬シーンと重なるのです。そして一言「なんでホタルすぐシんでしまうん?」と問い掛けてきます。果たして節子は本当に蛍の死について問い掛けてきたのでしょうか?
兄妹に命を絶たれた蛍が自身の命を絶った存在の正体と何故命を絶たれなければいけなかったのかを理解できないように、兄妹も又、何故自分たちの命が絶たれなければいけないのか、そして自分たちの命を絶とうとしている戦争とはどんな存在なのか理解できていないはずです。
昨今本作についての話題の一つに主人公:清太の行動の是非に対する議論が目立つようになっています。なるほど確かに居候先の西宮の叔母さんの家での生活態度をはじめとした清太の行動には疑問が湧く個所が多々あります。
しかし清太だって戦時下でなければ両親によって保障された衣食住を享受しながら、当たり前に学校へ通っていればいい訳で、気乗りしない労働を強要される事もなければ、両親や家を映画で描かれているような形で奪われる事もなかったはずなのです。
戦争なんだから仕方ないだろうという理屈は清太だって分かっているでしょう。しかし理屈が分かる事と心情としてそれを納得できるかは別です。
もう少し大人になれば納得いかなくとも自分が生きていくためには仕方がないと割り切って行動することもできるでしょう。ですが生意気盛りの14歳です。親類に対してさえ素直にハツラツと挨拶する事に何か抵抗を覚える年頃です。
なぜ理不尽にも自分の家や家族を奪った戦争に労働という形で加担させられなければならないのか?清太は納得できなかったのではないでしょうか?
清太が始めた戦争でもなければ、清太に戦争に対するどのような責任があるというのでしょう?それは清太と同じ戦時下に生きる殆どの人々に言えると思うのですが(それでも大人にはやはり少しずつの責任があるとは思いますが)ただそういう世の中だからと仕方なしにでも戦争へ加担していくのではなく、納得できない事、理解できない事に徹底的に抗ったのが清太だったのだと思うのです。
清太は理論を持っていません。仮に持っていたとしてもそれを展開することが許されない時代において清太は議論することなく行動で、自分に戦争への加担を促してくる社会体制へ抗ったのです。私が同じ立場なら容易に社会へ迎合するでしょう。しかし願わくばその様な迎合を迫られる社会にならないようにしたいものです。
私は今回の鑑賞で清太にどこかアメリカン・ニューシネマ的なものを見ましたが、清太の行動には支持できない部分も多々あります。その最たるものはやはり幼い妹を自分の生き方の道連れにしてしまっている事です。映画のラストで現代の日本を見つめる兄妹は一体何を思うのか?清太の行動について疑問を抱く余地がある事も含めて、それらは当然意図して描かれたものではありますが、結局未だに高畑勲監督の意図するところが私には分からないのです。
中々繰り返し見る気にはなれない作品ですが、例え間違っていたとしても作品に込められた意図を自分なりに納得できるまで見返す作品だと思います。
今回はただ単純に、子供にこんな生き方や死に方をさせる世の中は嫌だなと思いました。
日本人全員が観るべき作品
火垂るの墓 評価 星4.7
となりのトトロと同時上映された本作
この作品は高畑勲監督の代表作と言っても過言ではないでしょう
火垂るの墓を観て主人公の清太がクズなどと言っている人もいるが、個人的にはそんなことはないと思う 少し共感できるところもあるが、それよりもせっちゃん(節子)が可哀想な気持ちでいっぱいです
最近は、金曜ロードショーでのジブリ映画で火垂るの墓が全く放送されないので悲しいです いつも終戦の8月15日前後くらいにやってたので地上波で観てみたいです
そして最後に本作「火垂るの墓」や「かぐや姫の物語」などの脚本、監督を務めた高畑勲監督に心からご冥福をお祈り申し上げます。
14歳は子供だ
清太がもし、意地でも親戚の家に居続けたら清太も節子も寿命を全うできたのかもしれない。
でもあの家から飛び出した清太を、我儘だとか意気地なしだとかは私は思えなかった。
清太が涙を流したのは盗みが見つかり警察に連れて行かれた後、節子が母の死を知っていたと分かった時の2回だけだったような気がする。
覚えてないシーンもあるかもしれないけど、母がむごい姿で亡くなった時には少なくとも泣いていなかった。まだたった14歳の少年が、あんな状況で泣かないのは異常だと思った。どれだけ色んな感情を諦め捨ててしまっているんだろう。それに加えて妹には辛すぎる現実から目を逸せるように気遣って、悲しみに向き合う時間すらない。心身ギリギリであろう状況になった後も、妹には決して荒れた態度を取ることはなかった。
それだけ自分の若い心を抑えた彼が、更に親戚にへつらって生きることまでは出来なかったのは責められないと思う。
充分精一杯生きて、最期まで妹の幸せを守ったように見えた。
(親戚のおばさんが悪いとも思わない。見返り無しに孤児2人を食べさせていくのはきつい。でも大人として清太をどうにか導いてほしかったとも思う)
清太は現代からタイムスリップした少年というような話が監督からあったようで、多分このように考えるのは自分が現代の若年層だからなんだろうなとは思う。
でも2人が若くして亡くなった責任を、清太が全て負わないといけないわけないだろうと思ってしまう。年相応の感情すら許されないような環境や時代が絶対におかしい。
野坂昭如の 自己告発
あまりに辛すぎると
まるで他人事のように自分のやった事を語ったりする。
極限状態での精神の安全装置が働くからだ。
昨年、NHKラジオ深夜便で「戦争童話集」の朗読がずっと続いていた。
「火垂るの墓」は野坂昭如の実体験を元にするこの戦争童話集からの一編なのだが。
自分がどんなに駄目な人間で、
妹が死ぬなりしてくれて野坂の目の前からいなくなってくれれば楽なのにと考えていた人間で、
妹はその願い通りに死んで、
面倒な足手まといの存在は消えた。
童話の中では清太も死んだことにしてしまったけれど、
死ぬべき自分はこうして生きて、嘘の童話なぞ書いている
その自分を誰がどう思おうと糾弾するためのメモ。判決文。
それが火垂るの墓の原作だ。
誰かの手によってアニメーションや、戯曲になっても
それは違うと言い続け
自分は嘘をついているのだと死ぬまで自らを呪詛し続けた野坂昭如は、
2015年12月8日に、ようやく辛い体験から済われて死んだ。
自殺をしないことが自分自身への終身刑だったのかもしれないなぁ・・
野坂が亡くなったとき、訃報を聞いてそう思った。
お疲れ様でした
合掌
やっと観た・・・ 晴太よ、他の生き方はなかったのか?
節子の死ぬシーンで号泣、嗚咽、涙腺崩壊。その後はずっと最後まで涙。
それまでは戦争の怖さも余り伝わらず、節子のかわいさとなんか回りを余り顧みない晴太の態度に「かわいそうやけれどちょっとなあ?」とどちらかというと前評判ほどではないなあと感じた。
ただ、親戚のおばさんちを出て2人で生活するようになってから少しずつ変わりはじめ悲劇に繋がっていく。
妹を思う気持ちとおばさんの冷たさや医者のものぐさの温度差がだんだんこちらもつらくなってくる。
戦争が色んなものを奪っていったことだけは伝わる。
節子の人生は何やったんや?!晴太の人生は何やったんや?!
戦争にはいっぱいいっぱい哀しい物語が存在していてこの物語もその一つにしか過ぎない。
それがわかっていても世界中のどこかで今も戦争している。
日本も防衛費を増強しようとしている。
その費用を戦争を起こらせない事につかえないのだろうか?
この映画はそんなことも思わせてくれる。
他の方のレビューを読みながらまた涙している自分がいる・・・
余談ではあるがビルマの竪琴で出てきた「埴生の宿」がなぜかこの映画でも出てきた。
火垂るって火が垂れ下がるたから、焼夷弾。
単純に見れば、関西の人々に対するディスリになる。単純ににそう言った意味ではないと思う。
このアニメはあまりに辛辣な表現を理由に、色々な解釈が生まれているようだが、間違っては駄目なのは、単純な反戦アニメではないと言う事だ。
このアニメで泣いては駄目だ。
『禁じられた遊び』と同じで、女性を助けられない男性の判断ミスだと理解べきだ。どちらの映画の男性も『傍らの女性を慰める位の手立て』しか取る事が出来ず、大事な女性を無くしてしまう。その『悔やみ』だと私は理解している。原作者、自らの妹に対する『贖罪』と言った解説があるようなので、間違いないと思う。
プライドとか差別にも負けずに狡猾に生き抜かねばならない。自己以外は自分が生き抜くためには、足手まといになる事もある。そう言った一時の感情に流されない者が生き抜く事が出来る。
私の父が東京大空襲の後、小岩から尾久の機関区へ行く為に、上野の浅草口のスロープを歩いたそうである。言うまでもなく、両側には死んでいるのか生きているのか分からない者が沢山いたそうである。勿論、何も手助けなどは出来なかったらしい。(因みに親父は14歳から仕事にありついていたそうだ)
さて、その数年前まで、親父家族は江東区(当時は城東区)南砂町で生活していたそうで、東京大空襲の時に、同級生の多くが亡くなったそうである。親父はいつも言っていた。
『小岩へ引っ越したのは正解だなぁ。親父(祖父)凄いよ』親父の口癖が『狡猾に生きろ』だった。自ら不要な問題を沢山抱えて、親父が狡猾かとうかは問題外。
親父のこのアニメに対する感想は『関西の人々は気が強いからなぁ。妹が亡くなった奴らは、この頃は沢山いた。気を落とさず生きなきゃ』だった。勿論、僕はそう見ていないが。
その時、話してくれたのが、浅草口のスロープの話である。
『たぶん、彼らも死んじまっただろうな。でも『本土決戦』なんて無くて良かったなぁ』だった。
悲しすぎて背を向けたくなる映画ではある。 そんなメッセージ性のある...
悲しすぎて背を向けたくなる映画ではある。
そんなメッセージ性のある映画を残した高畑勲はやはりすごいと思う。
嫌な大人も出てくるけど、皆生きるために必死だという時代背景。どうしようもない現実。
ずっと平和であってほしいと願うお話。
ラストの現代との対比がまた切なくなります。
戦争に
どちらかが正しいは無いのである。どちらにも正しい言い分があり、どちらにも振り返るべく誤りがあるのである。ただどちらも譲らない上層部が居るのも確かなのだ。この確かな存在の迷惑千万な意地に巻き込まれ、する必要のない苦しみを味わうのが国民と呼ばれる者たちである。この国民の中でも力の弱い存在に皺寄せがくるのは辞めていただきたいものだ。
戦争における最も弱い者を描いた唯一の傑作
戦争における、最も弱い存在を、徹底的に描いた作品。
そこで虐げられ、様々な救いの手からこぼれ落ち、犠牲となっていく者たちの戦いは、
実は現在も変わらず、同じ構造で、実在している。
戦争は終わっていないのだ。
男はやっぱり意気地が大切
映画の始めに最悪の結果が現れて、フラッシュバックでその経緯を詳しく語っていく。特に、清太くんは妹の節子ちゃんを守る責任を背負って、精一杯生きている根性に感心する。でも、節子ちゃんが亡くなる前に意識がはっきりしなくなったシーンを見たら、泣けるほど悲しかった。むしろ親戚が若い清太くんを丁寧に導いてあげればよかったのに。。。
決して、忘れてはいけないもの
子どもの頃に見た「火垂るの墓」の印象は、
お母さんが亡くなってしまって、かわいそうな兄妹って、あまり深く考えていなかったけど、
大人になってから見てみると、また違った捉え方になる。例えば、母が死んで、親戚のおばさんのところでお世話になる場面。子どもの頃は、おばさんのことを、意地悪なおばさんだ、ひどいってただ思っていた。だが、そうじゃない。この大変なときに、せいたは、自分のこと、妹のことしか考えていない。お世話になっているのだから、なんか恩返しを、力になれることはないのか…そういう考えが全く描かれていない。おばさんが怒るのも無理はないが、
せいたもまだ子どもだ。そういうお互いに助け合うっていうのを、あのおばさんも
教えてあげられたらよかったんじゃないかな。
せいたもおばさんに嫌なこと言われてしまってもいさせてもらえれば、2人は死なずにすんだのでは、、って思う。あと、お金の使い方を見ているとやっぱり子どもなんだよな。
おばちゃんも大人気ないよな。
空襲はいつ起こるかわからない、お腹いっぱい食べられない。そんな世の中では、イライラもしてしまうし、人格が変わるのだろうと思った。戦争は人を変えてしまう、恐ろしいものだと大人になってから改めて感じた。
今は、コロナの世界。戦争とは違うが、ちょっと似てるなって思う。コロナの「どこにもでかけられない、人と密になってはいけない」なんて
戦争に比べたら、余裕で乗り越えられるじゃんって思っちゃった。お腹いっぱい食べられるしね。
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