火垂るの墓(1988)のレビュー・感想・評価
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肉体を手放しても死ねないほどの清太の後悔、本能的な欲求と清い理性の葛藤を克明に描いた傑作
節子の気持ちよりも食欲を優先した瞬間を後悔して死にきれないでいる清太の回想物語として描かれる映像は、この構成でなければ伝わらない人間の太い欲と清い理性の物語であり、その主題で隅々までよく練られた素晴らしい作品です。映画前半でサクマドロップを節子にあげようとしてひとつも手を付けなかった清太は、戦争の困窮の中でじわじわと食欲の虜になっていく。節子を喜ばせたいと思う理性的な兄としての人間の心が、生物としての人間の食欲に抗えなくなっていく太い自分に蝕まれていく過程がどうしようもなく描かれていて、戦争映画としての鑑賞ももちろんあるが、戦争という舞台装置で浮き彫りにされる理性と欲の葛藤が真の主題のように思える。清く太い「清太」と対照的な「節子」という名前もよく練られていて多くの感情的な評価よりもわかりやすく技巧的な作品であると思う。
白米のために、節子が大事に思う母の形見の着物を売ってしまった肉体世界の清太を、あの世に行ききれずに見つめる清太が見つめて激しく首を振る。自分が守りたかったのは節子の心で、妹思いの兄でありたかったのに、食欲に翻弄されてそれを見失う自分を、肉体を手放した今なら客観的にわかる、その後悔が伝わってきて終始苦しい。肉体を手放した清太と同じようにお腹が減らない。
最後のシーン、なぜ清太はこちらを(鑑賞者としての私たちを)見るのか、まだ生きてる肉体を持っている私たちは、生きている故の欲求に抗えない、抗えずに、理想や清いありたい自分を損なって生きていることに気づかない。気づいてというメッセージというよりは、ほら、気づいても抗えないだろう、の諦めの視線に私には見えた。見つけたドロップを自分で食べるという選択肢を思いもつかずに節子に与えた清太が、清太が生きたかった自分であり、膝の上で眠る節子の傍らでドロップ缶が光り輝くのは、清太の心情そのものなのである。
「清太はおばさんのところから逃げた、働けばよかったのに」という論調が一部あるが、節子には父も母もおらず、父も母もいるあの家庭にいることが、節子の元気をどれほど奪うか、「持たざること」を強調するのは、いつでも「持つことができている者」との比較であり、母の不在を強調するあの家から出た清太は節子の心をより活かすためにとった行動であるということをもっと想像してほしいと思う。私がシングルマザー時代に、父のいる家庭が多いフードコートで一人待たせてしまった息子が寂しさのあまり泣いていて、その時のことを思いました。
ようやく鑑賞する気になれました。
今まで、この映画をみることを避けてきました。何故かというと、「感動ポルノ」というか、あからさまな「お涙頂戴映画」に感じて、見ると辛い気分にしかならないと思っていたからです。しかし、某氏の解説を聞き、それを確かめるために評論家気分で俯瞰視点から見るように努めれば、それほど辛い気持ちにならずに済むのではないか。そう思い立ち、ようやく見ることを決心しました。
で、見終わった後の感想ですが、やはり、見ていて辛い映画でしかなかったです。やはり、二人が気の毒ですね。子供ながらの愚かしさ、意地っ張りは判るし、それを上手く導いてあげられる大人の存在が無いのは非常に悲しむべき事だった。でも、そんな人の存在は希であり、そんな人との出逢いは奇跡であり、自分のことで精一杯だった当時の人々の事情を思えば、「悲しいけど、仕方ない」というのがギリギリ精一杯な理解です。
ただ、どうして清太にもっともっと生きるために卑屈に頭を下げさせなかったのか。もう少し上手く生きることを選択させることが出来なかったのかと思う。軍人の気の強い息子だからと、その設定を加えた時点で、そんな選択肢をつぶされてしまった様にも見えるけど。そして、そんな卑屈な生き方をさせると主人公達は惨めで醜くなってしまう。ならば美しいまま死なせてはどうか。美しいまま永遠に神戸の街を見おろす亡霊にしてしまってはどうか、というこの映画の趣向が良いところでもあり、この映画の悪徳、タチの悪いところでもあったと思う。そんな「悪いところ」があるからこそ、「感動ポルノ」ではない、渋みのある映画として鑑賞できたのだと、私は感じました。
だから、ちょっと満点を付けるのは厳しいけど、非常に良い映画だったと思います。最初にお話しした某氏の解説の中に「禁じられた遊び」という映画のことも触れられていましたが、確かにその映画と共通する点も多く、影響されて「高畑勲版」を作ったのではないかとも感じられ、十分にそれと居並ぶ名作であると思います。
街も、人の心も荒廃していくのが戦争
Netflixでの配信をきっかけに数年ぶりに見たが、いつ見てもこんなに痛切で胸をえぐられるような鑑賞体験は他にはない。
冒頭の清太が餓死する寸前のシーン。身体に力が入らないというリアリティが絵でこの上なく見事に表現されている。
劇映画にはできない、アニメにしかできないリアリティはここにあると思う。餓死のリアルだ。生身の役者がどれだけ肉体改造をしてもたどり着けない死が間近に迫った肉体のリアルがこの作品には描かれている。それは後半の節子の死のシーンも同様だ。
本作は戦争の物理的な恐ろしさも描くが、人の心の荒廃も描かれている。戦争で窮乏すればだれもが心に余裕がなくなり、子供を助ける気持ちすら失っていく。誰もが明日を生きることで精いっぱいなのだから、それもまた個人を責めるべきことではないのだが、そのように街も心も荒廃させるのが戦争なのだろう。この作品はいつの時代も見られるべき作品だと改めて思った。
史上最高の恐怖
小さい頃に何度かテレビで観たと思うが、最近はほとんど放送されてい...
小さい頃に何度かテレビで観たと思うが、最近はほとんど放送されていなかったように思い、金ローでの放送を久しぶりに観た。
大人になって観ると、捉え方に変化があるのがわかった。単純に清太と節子が可哀想、おばさんが冷たい、という記憶しかなかったが、今回観ると、おばさんの言い分にも頷ける点が大いにある…
さほど交流のなかった子ども2人を預かり、世話をしていた。2人の亡くなった母親の着物も無断で売ることはしなかったし、食事を別にした初日、2人が洗わずに放置した食器や鍋を洗ってくれたりもしていた。
2人は叔母の家を出て行くとき、お礼も言わずに去っていったのも、以前は気づかなかったが薄情だなぁ…と感じた。
ただ、あの時代がそうさせたんだなと思う。
節子がだんだん衰弱していく姿に涙がポロポロ落ち、最後、荼毘に伏すときに無数のホタルが飛ぶシーンは涙がどんどん流れた。が、一緒に見ていた子どもは反応が薄かった。
毎年、戦争を語り合う意味とは
人は、夏になると冬の寒さを忘れ、冬は夏の暑さを忘れてしまうそんな生きものだと思います。半年も経つと人は、過去の過ちをも忘れてしまいがちです。(怒りや恨みはなぜかずっとおぼえています。私も人の事は言えません)
そんな人類には、やはり一年に一度は忙しい中にも立ち止まり、戦中や戦後を語り継ぎ考える時期を共有するのは必要なのだと私も思うのです。
この映画を観るようにつらいことかもしれませんが。
そして、
『正義』というものは、その人のその時の立場や事情で、表にも裏にもなってしまいます。でも、『大切なもの』は変わらず普遍に存在し、どんな人種間でも共有出来るものだと私は思います。お互いの正義を戦わせるのではなく、大切なものの議論を聞きたいと、今平和を願い感じています(独裁者には届かないでしょうか...)
余談ですが、
私の祖父は、戦争の事を一切語りませんでした。本心を言うと、祖父にどんな事でもいいから語って欲しかったと今は思っています。
父は、中一で終戦を迎え、それまで殴られたり蹴られたりしていた教師が急に優しくなり教科書を塗りつぶすよう指導した時は、今まで信じ込まされたものが違っていたのかと、ものすごく憤りを感じたそうです。そして、北海道の片田舎である父の街にもアメリカ軍が来ると聞き、「ギブ・ミー・チョコレート」と言うとお菓子をくれると耳にし、言ったら本当にくれた嬉しかったと言っていました。その時が父の人生で初めて自由を感じた瞬間だったのかもしれません。料理の出来ない父が、学生の頃から唯一手鍋で炒って煮詰めて作っていたのがHERSHEY‘Sのココアでした。濃厚で本当に美味しかったのですが、もしかしたらあの時のチョコレートがHERSHEY’Sだったのかもしれません。
戦後、坂口安吾が『堕落論』の中で、戦時中日本人はある意味究極の精神性を持っていた、でも人間なのだから堕落してもいい。でも堕落しても「正しく」堕落するのだ。と言ったように、戦後の混乱や貧困の中でも日本人として恥じない精神が、生き抜いた方々の(祖父や父の)根底にあって今があると感じ、私自身一年に一度でも、亡くなられた方々の無念を悼み、また感謝したいと思います...
※すみませんどなたかコメントをいただきましたが、読ませていただく前に操作を誤り、消えてしまいました!申し訳ありませんでした!
戦地に行った兵隊だけじゃなく日本に残された人たちの苦悩
当時購入の映画パンフレットは「となりのトトロ」だけだったが…
今年は戦後80年ということもあってか、
随分とこの映画のことがTVで採り上げられ、
終いには映画そのものがTV放映されたので、
35年以上も前の劇場鑑賞作品を再鑑賞した。
しかし、手元に残る当時のパンフレットは、
同時上映だった「となりのトトロ」のみ。
多分に、当時は「…トトロ」の印象の方が
上廻っていたのだろう。
しかし、今回は「…トトロ」との比較検証
は出来ないけれども、
少なくとも、この「火垂るの墓」は
名作以外の何ものでもないことを
改めて認識させられる鑑賞となった。
この先の辛すぎる兄妹の生き様を予感させる
冒頭のドロップ缶を印象的に使うシーンから
妹の荼毘まで、
全編、涙無しでは観てはいられなかったし、
空襲の最中、窃盗を働く兄の姿は切なく、
逆に心を締め付けられるような思いだった。
自らの生活に汲々とする時代とはいえ、
二人に食料を提供する人が誰かいないのかと
鑑賞を続ける中で頭をよぎるのは、
身近な人の不幸には手を差し伸べるつもりは
当然ながらあるものの、
果たして自分だったら、こんな状況の中で、
身ず知らず人に手を差し伸べることが
出来ただろうかとの自問。
それが幽霊の兄が我々観客に視線を向ける
ラストシーンの意味なのだろうとも思った。
今回のTV放映に先立つ事前情報では、
高畑勲監督は、
“この作品は反戦映画ではない”と語った
とのことだったが、この作品が描くのは、
非常時に懸命に生きた兄妹の凄絶な生き様
ではあるものの、それは、
明らかに戦争がもたらした結果なので、
私には、“単なる”反戦映画ではない
とのニュアンスだったのだろうと理解した
のだが、監督の真意はどうだったのだろう。
さて、日本には、加害者視点での太平洋戦争
を描く作品を阻む勢力が強く存在していて、
なかなかそんな観点での映画は生まれにくい
環境があり、この作品も、
被害者視点での範疇に留まるものの、
同じアニメ作品「この世界の片隅に」と共に、
戦時下に懸命に生きた人々を描いて
心打たれる反戦映画の名作として、
我々の心に残っていくのではないだろうか。
たかが14歳、されど14歳。命への責務。
贖罪すべきこともあったかもしれないが、それでも少年は逃げなかった。
今なら中学2か3年生。家族なんて放って、自分のことに集中して、学業・趣味・友情・将来に思いを馳せ、没頭し、悩み、もしくは謳歌する年代。
反面、この映画で描かれているのは、国民学校初等科を11歳で卒業してすぐに働いていた子も多かった時代。16歳の特攻隊員・ひめゆり部隊員もいた。今よりは、”子ども”ではなく、自分のことは自分でと”半人前~一人前”の力が要求された時代。
高畑氏はこの時代を生きた。
だから、焼夷弾のシーンなど、他に類を見ない迫力のあるシーンとなっていると聞く。
悲惨さばかりではなく、笑いのある日常の両方の描写が、この映画の価値を高めているとも聞く。
けれど、当事者だからこそ暗黙の了解として描かなかったのか、わざと清太と節子の生活を際立たせるために描かなかったのか、意外に周りの人々の”生活”が描かれていない。『この世界の片隅に』他、この時代を扱った映画を見て、イメージしないとわからない部分も多い。
将校の家族として比較的良い環境で暮らしていた清太と節子。
そんな家族にも、その日暮らしの人にも、区別なく降り注ぐ焼夷弾。
戦争孤児となり、親戚の家を頼る二人。
確かに叔母はきついのかもしれない。将校家族の利益にあずかろうという姑息な気持ちもあったかもしれないが、それなりに面倒は見てくれていた。
終戦間際。食料等は配給制になる。頼ってきた孤児の分も出るの? 出たとしても、日に日に少なくなる。そんな中で家族に食べさせなきゃいけない主婦。日々のやりくりだけで頭痛いだろう。
それなのに、勤労奉仕もせずに好き勝手している清太。皆が滅私奉公を強いられ、拒否すれば特高に目をつけられた時代。隣組等で相互扶助/相互監視されていた時代。叔母としたらご近所の手前肩身が狭かったのではなかろうか。
もっと悲劇的な扱いを受けた人もいるという話もたくさんある。皆逼迫していた。
叔母だって余裕がなかっただろう。
反対に、大金を持っていること、将校の息子であることで、清太に驕りはなかったか?
終戦。
今までの価値観がすべてひっくり返った時代。大人も子どもも、皆混乱して、生きていくのが精一杯だった時代。
買い出し。闇市。絢爛豪華な花嫁衣装が米一合もしくは数本のサツマイモに化けた話を聞く。そんな中で、現在でも野菜高騰時にキャベツ等が畑から盗まれたニュースが記憶に新しいが、この頃だって闇市で売るための泥棒も多かった。盗みの実行者は戦争孤児たちが多かった。清太一人なら見逃してもくれるだろうが、おじさんには闇市のための盗みかはわかるまい。
頭を下げて分けてもらったら、節子を脇に置きながら手伝ったら、違う展開になったかもしれない。
後から、清太がこうすれば~、というのはたやすい。
でも、戦争がなければ、彼は両親と学校教育の庇護のもとで、必要な対人関係も学べたはずだ。
否、どうなんだろう。清太が親や学校から受けてきた教育は、”人の上に立つ者”としてのプライドではなかったか。こんな混乱・境遇に身を置くことは想定していなかった。
子どもが生きるために必要な力って何?学歴?勉強?特技?お金を稼ぐ力?
”社会性”という言葉一つとっても難しい。清太だって、以前の生活の中での”社会性”は身に着けていたのだから。
周りに合わせるだけでは心が死ぬが、一人では生きていけない。
自分の力だけでやれると思う独善。
周りの状況を見ない・聞かない傲慢。
何より自分の力量を客観視する力。何ができて、何ができないか。どういう力を借りなければいけないのか。借りっぱなしにならないためにはどうすればいいのか。
これは、日本の終戦前後の話だが、世界には、現代にも、こんな子どもたちはたくさんいる。
日常生活にも通じる。自分の首を絞めるようなチョイスが多い人っている(私か)。
「サポートを受けなさい」というのはたやすい。でも、サポートのネットワークから漏れる人って、サポートが提供するものと、自分のこうありたいのギャップが埋まらない人。”自分のこうありたい”を変えることって、結構難しい。
自分の想い・気持ちを大切にして、他との交流に拒否的・回避的になり、閉じた世界で生きる。
-清太であり、現代の若者に多いし、”孤独死”という言葉も頭をよぎる。
反対に、この映画では明確には描かれていないが、他の映画で表現されているように、周りに同調して同じ行動・思想しか認められなくなるのも恐ろしい。
-この時代の「お国のため、天皇陛下のために」という思想への強要であり、実は、いじめやパワハラが深刻になる構造に関与する。KYという言葉も”同調”しなければという思いに裏付けられている。
この、現代にも通じる二つの在り方を並べることで、第三のあり方に思いを馳せる映画なんじゃないか、なんて思う。
そして、
この原作は、野坂昭如氏の、妹さんへの贖罪・レクイエムと聞く。
誰かの命・人生を背負うことに重荷を感じるなんて、大人でもあり得ること。
「疎ましく思う」「投げ出したかった」なんて、誰でも一瞬頭をよぎる。
それでも目の前の存在を放り出すことができなくて、やるべきことをやるの繰り返し。
「もっとこうしてやりたいのにできない」と自分で自分を責めている人にとったら、映画鑑賞者の私達には愛おしい節子の表情・仕草・行動も、できない自分を責めているようで、嫌悪の対象となるだろう。
でも、捨てて逃げることもせず、頼る人もいないのに、野坂氏も清太も頑張った。
今の世、ネグレクトや遺棄する大人だっているのに。(せめて遺棄するなら福祉に相談するか赤ちゃんポストにしてくれ)
不幸にして、時代があんなだったから、節子(野坂さんの妹さん)は亡くなってしまったけれど、貴方のせいじゃない。それだけははっきり言える。今に置き換えれば、14歳の子どもが負う責任ではない。
単なる戦争犠牲者の悲話ではない。
この社会で生きようとした子どもを描いた映画。
人の助けを必要とする小さきものを守るために自分がどう動くのかとか、社会との接点・人との関わり方とか、アイデンティティとか、心の底の深い気持ちを揺さぶられる。
だから、映画としては、どこをとっても一級品だけれども、鑑賞するのがしんどい。
この映画から、何を読み取る・感じ取るかは個人の自由だと思う。
ただ、「こうあるべき」と言うのはいかがなものか。
それって、戦中の思想と一緒。あの頃だって、非国民を非難していた軍国の母は、時代に刷り込まれた「こうあるべき」を周りに押し付けていたのだから。今戦争している地域・宗教だって、己の「こうあるべき」を立証するために戦いを仕掛けているのが建て前なのだから。
いろいろな考え方・感じ方・生き方をお互い認め合えたらいいなと思う。
ただ悲しいだけの映画ではない
泣くしかないのだが…
作家野坂昭如氏の小説をジブリがアニメ化した作品
何度見たか知れぬほど見てきた。
泣きたいときにDVDを借りてくる知人までいる。
そして、やはり何度見ても泣けてしまう。
毎年お盆の時期にこの作品が地上波で流れる。
今回は、その残酷な場面をカットされた地上波を録画したものを見た。
冒頭のセイタのナレーション
彼自身が死んだことをまず述べている。
つまりこの物語は、死んだ直後のセイタが自らの人生を回想する形式となっている。
基本的に悲しい物語だが、その悲しさの背後にあるのは、セイタの余りにも無知でコミュニケーション能力のなさが見えてくる。
セイタの思考 妹セツコを守らなければならないという強い意思
彼は空襲と焼夷弾という隠れ蓑を使って窃盗を繰り返していた。
そして空襲がなくなったことで、いよいよ生活が困窮してくる。
このカットされた場面には、セイタは母から預金通帳を受取っている。
しかしセイタは、その通帳に記載されている数字を、どうしたら現金化できるのかを知らないし、誰かに聞こうともしなかった。
少し裕福な家系でのセイタの日常は、こんな常識的なことさえ知らずにいたのだろう。
セイタは純粋で必死で生きているように見えるが、非常に隔離された世界で生きているようにも感じる。
終戦を知らなかったこと
だから空襲が来なくなったということ
そして誰かから聞いたのか、やっと預金通帳のお金を引き出すことができた。
しかし、時すでに遅く、セツコが逝ってしまう。
冒頭 駅の構内で死んだセイタは、佐久間式ドロップ缶の中から飛び出してきたセツコと一緒に電車に乗る。
その同じ電車の違う次元には、かつて二人で疎開した姿が映る。
何故セイタは二人になってからのことを回想しなければならなかったのだろう?
そこに感じる一抹の想い。
「もしかしたら、セツコを死なせたのは僕の所為なのかもしれない」
死んだセイタは、セツコと共に、もう一度自分の行動や選択を検証したかったのかもしれない。
戦争は、起きてしまえば国民はどうすることもできないまま、政府に従うほかない。
空襲されれば逃げるしかない。
幼い子供などを守りつつ、できるだけたくさんの物品を持って逃げるしかない。
母がけがをした知らせと母の姿
ウジの湧いた母の身体 火葬
セツコに言えなかったこと。
最初から最後まで出てくる蛍は、死の暗示だろうか。
そしてあまりにも無知で無力なセイタは、当時の野坂氏自身を表現したのだろうか?
原因は戦争に間違いないが、自らを人々から隔離するようにしてしまったことで、得られる情報も途絶え、生きる術さえ消していったのではないのか。
盗めば袋叩きにされることは、「はだしのゲン」にも描かれていた。
電車に乗りながら霊となった二人は、もう一度この出来事を振り返る。
そして最後は、高層ビルの立ち並ぶ現代日本の姿を見ていた。
野坂氏は、このあまりにも無知で無力なセイタという人物の失敗を、再び繰り返してはならないと言っているのかもしれない。
セイタの一人称で語られる物語
霊となってもまだ再開できない父と母
このことは、セイタの未熟を示しているのだろうか。
無知でコミュニケーション下手
預金には二人で生きていくに十分なお金があるにもかかわらず、その使い方を知らず、その事さえ人に聞けない。
少し憶えたズルい生き方を繰り返すしかない。
このことが招いた「死」
父と母が残したものが使用されないまま死んでしまう。
この不幸
か弱き者が辿ってしまう道を、この映画を見た人には辿って欲しくはない。
それがこの作品の言いたかったことかもしれない。
今でも佐久間式ドロップを見ると
凄い映画
最初に劇場で見た時は、トトロと同時上映でした。トトロで心が暖かくなったあとにこの映画を見ました。
当時は完全入れ替えではなかったかと思うので、順番が逆だった方もいると思います。
逆の方が救われたかもしれません。
ちなみに節子はトトロに出てくるサツキと同い年だそうです。
当時の彼氏と一緒に見て、私は号泣してしばらく席から立つことができず、彼氏はお涙頂戴が嫌いな人だったので、かなり不機嫌になっていました。
しかし、その後何度も見てかなり感じ方が変わってきて、今はあの頃2人ともきちんと解釈出来ていなかったのだと思っています。
今見ると、可哀想というよりむしろ恐ろしいです。清太(の幽霊)は冒頭とラストの2度、こちら(観客)をまっすぐに見ます。その視線をまっすぐ見返すことがかなり苦しいです。
清太は自分がどこで間違ったのか、その答えが見つからないまま永遠に煉獄に閉じ込められて、空襲の日から自分が死ぬまでの時間を繰り返し、成仏できないでいる。
これは単純な反戦映画ではありません。
もう二度と見たくないと言っている方にはもう一度見てほしい。高畑監督が全編にちりばめた作品の意図を感じてほしいです。
私も多分まだ全然わかっていないところがあると思いますので、この先も時折繰り返して鑑賞しようと思います。
一人きりの戦争
辛すぎて暫くは見れない
20年ぶりに『火垂るの墓』を観た。
結末は記憶に焼き付いていて、苦しいラストが来るのは分かっていたのに、清太と節子が徐々にやつれていき、目から正気が失われていく様子はやはり辛抱たまらなかった。
幼い頃に観たときは、西宮のおばさんに怒りを覚えた。
「子どもに冷たくするなんて最低!」と単純に憤ったのを覚えている。
しかし、大人になった今観直すと見方が変わった。
清太の不器用さが目立つ。
父が海軍将校で比較的裕福な家庭に育ったこともあり、世の中が苦しい中でどう立ち振る舞えばいいのか分からず、プライドが邪魔をする。ただ、清太はまだ14歳。その年齢で「正しい生き方」を選ぶのはあまりに難しい。親戚のおばさんに邪険にされれば、距離を取りたくなるのも当然だろう。
西宮のおばさんについても、今は少し違って見えた。
もちろん嫌味な言い方や行動をする冷たい大人ではあるが、顔も知らなかった遠い親戚の子を突然預かり、限られた食料を分け与え、生活を共にすることになったのも事実。清太が学校に行くでもなく、働くでもなく、プライドに縛られていたことに苛立ちを感じるのも、理解できなくはない。
そして節子。わずか4歳。ほとんど赤ちゃんのような存在だ。辛い状況の中でも日々の暮らしに小さな楽しみを見つける姿は、本当に可愛らしい。けれど、最初は頻繁に泣き喚いていた節子が、栄養失調もあり次第に体力もなくなり、泣くことすらできなくなり、声を失っていくのが何よりも胸を締めつけた。
結論として、この作品が突きつけるのは「戦争は絶対に繰り返してはならない」という一点に尽きる。
幸せを奪い、未来を奪う戦争は二度と起こしてはいけない。
過去から学び、平和を紡ぎ続けること。命をかけて私たちを守ってくれた人々に感謝と敬意を捧げ、その想いに報いるように、平和な未来を築いていきたいと強く思った。
もう二度と見たくない
伝える責任
この映画は当時、話題となっていた"となりのトトロ"を海の見える田舎町の映画館にひとりで観に行った時に同時上映で鑑賞した作品。その映画館は今はもう無い。
先に"となりのトトロ"を観てその後この作品であった為、映画館を出た時には非常に暗い気持ちで帰ったのを強烈に憶えている。そう余りにも強烈過ぎてトトロの楽しさは全て吹っ飛びそれこそくら〜い暗澹たる気持ちを引き摺った帰路であった。
観て良かったとは思わない作品である。しかし我々日本人は必ず観なければならない映画のひとつであると思う。この作品と"この世界の片隅に"は隔年の8月に是非地上波で繰り返し放送して欲しい。そして子供達へ伝えていかなければならない。わずか80年前になにがあったかを…。。
授業で学ぶ事も大事だがアニメーションで観る事により、より一層子供達へ伝わる筈だ。と言うより伝えて行かなければならない責任が我々大人にはある。
【追記】2025.9.12
この作品の対極にあるのが、やなせたかし氏の"アンパンマン"である。両原作者共に戦争を経験しそれぞれの作品を創るに至った。戦争とは何ぞや⁇正義とは⁇生きるとは⁇……を観る者に問うている。
"となりのトトロ"との同時上映時のチラシのタイトルバックには… 『忘れものを、届けにきました。』 とあります。。
戦争は残酷
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