武士道残酷物語のレビュー・感想・評価
全5件を表示
左翼系リベラリストの武士に対する個人的曲解。
日本の左翼系リベラリストの武士に対する個人的曲解。
明治四年 3月3日の出来事だから 廃藩置県の断行がこの年ではあるが、8月下旬の事なので、気配はあるものの、藩主自らが武士の魂のハズの髷を切って、下級武士に介護される訳が無い。同年は廃仏毀釈の年でもあるので、下層階級の民の文化にとっては、そちらの影響が大きい。
陳情に上がった農民を殿様が見せしめで処刑するが、農民が苦しんでいるのは、年貢である。中学2年生の社会で習うはずだ。
第二話は言うまでもなく、LGBTへの差別だし、その他の話も障害者などへの差別感は払拭出来ない。フーテンと言う言葉が使われるが、言うまでもなく差別用語に派生する。
最後の昭和38年の話は、オリンピック景気に湧く当時の景気動向には見えない。寧ろ、企業間談合が問題視される時代である。その理由は、昭和22年の独占禁止法の施行があり、財閥系資本主義の復活の根絶が目的だったはずだ。
歌舞伎の要素を取り入れ、忠義を描いたつもりだろうが、同時に土着の下層階級のアイデンティティまで混同してしまっている。つまり、歌舞伎は、下層階級の味わう話から発生しているので、武士道を説明出来る訳がない。
すべて女性がバカ殿からの残虐な行為を被ると言った話になっているとは思うが、バカ殿と並行して、被害者が命をつなぐご都合主義が理解出来ない。
また、本来、左翼運動の根幹は『階級闘争』のはずた。しかし、そう言った西洋的な考えの中に、仏教の『輪廻転生』を盛り込むと言った表現行為は、この時期に於いては暴挙と思える。まさか、明治3年の廃仏毀釈までのアイロニーとは思えないが。
追記 最後のカップルは我が両親と同年だ。所謂、アプレゲールの最初の世代。いわば戦前、戦中の世代にこき使われる世代であり、この後の団塊の世代にもその人口に圧倒された世代と言える。つまり、古臭くい徒弟制度が姿を消して、アメリカンな実力主義が台頭してくるのである。良い事もあれば悪い事は沢山あった。この映画は今の日本の映画の元祖のような映画だ。到底、評価できない。
悪の普遍性
本作は私は1978年に自主上映会で鑑賞していますが、当時は自主上映会が盛んで同時期に『仇討』や『切腹』なども鑑賞したり、黒澤明の作品がリバイバル上映されたりで、個人的には「日本の時代劇ってスゲェー」ってハマっていた時期でもありました。
当時の個人的な時代劇のイメージってテレビでの連続時代劇などの勧善懲悪モノとしてしか見ていなかったのでこれらの作品は衝撃的で、その中でも本作は昔から現在へと全く違った時代の中で、連綿と続く失われない精神というか文化というか考え方によって起きる悲劇が描かれていて、本当に驚かされました。
本作の場合その後見る機会に恵まれず、これも約半世紀ぶりの鑑賞となりましたが、詳細は殆ど忘れていても頭に残っている作品の印象だけは全く変わっていませんでした。
現在社会で武士道が定期的にブームになるのですが、自分の先祖が百姓・町人だったかも知れないのに「武士道がカッコイイなんてよく言えるな」っていつも思ってしまうのですが、本作を見て武家社会と今の資本主義社会の共通性を考えると、それが皮肉にも符合しているようで妙に合点がいきました。
本作の一番凄惨な悲劇である四話目の最後に残された子供が繰り返す「侍の命は侍の命ならず、主君のものなれば主君の為に死に場所を得ることを誉とする。己を殺して主君に使えることこそ忠節の始めとする。」
これが何の文章なのか分かりませんが武士道の心得だとすると、これを美学とするか主君(組織)の都合だけを考えた、マインドコントロールと捉えるか、日本人は今でもこれに苦しめられていますよね。
少し前に見た『こんにちは、母さん』のエピソードと、本作の最終話のエピソードはほぼ同じ内容と言っても良いし、最近のニュースでは“ビッグモーター”や“ジャニーズ事務所とその関連マスメディアの忖度”問題も、問題である核心は同じなんですよね。
そういう意味でも60年前に作られた本作は今見ても凄いと思いますし、今現在では黒澤・小津監督などの陰に隠れてしまっていますが、今井正監督をもっともっと再評価して欲しいと願っています。
君達は民主的な社会で自由に生きていると思っているだろうが、一皮剥けばご覧のとおりだ それが監督のメッセージです
陰鬱で圧倒的な物語で、終わってからもしばらくしびれたように何も考えられなくなりました
最後に若干の救いがなければ立ち直れないダメージを受けたままになっていたでしょう
350年に及ぶある信州の武士の家系の物語を全七話で構成しています
すべての主人公を中村錦之助 (萬屋錦之介)が演じます
特に第四話は強烈です
タイトルの武士道残酷物語そのものです
物語だけでなく映像としても強烈なのです
冒頭は現代としての昭和38年の第七話につながるアバンタイトルです
第一話(慶長15年~寛永)
堀家に召し抱えられ、やがて島原の乱の中で切腹する老武士
第二話(寛永15年)
その子供が殿に殉死する
第三話(元禄年間)
男色の殿の餌食に
第四話(天明3年)
小林正樹監督の1967年の「上意討ち 拝領妻始末」の原型のような物語
第五話(明治4年)
廃藩置県でもはや藩主でもないのに忠節を尽くす
第六話(昭和20年)
特攻隊員出撃
第七話(現代、昭和38年)
企業スパイを婚約者にさせる
自分たちではどうにもならない
そういう台詞が終盤にあります
こういう封建的な日本社会は過去のものではない
現代にまで未だに連綿と続いている
君達は民主的な社会で自由に生きていると思っているだろうが、一皮剥けばご覧のとおりだ
君達若者がそれを断ち切らなければ、さらに未来にまでこれからも続いていくであろう
それが本作のメッセージであったと思います
共産党員であった今井監督は、こうした日本の封建的な社会を若者たちが打倒して、民主的で自由な社会を打ち立てて欲しい
そのような願いで本作を撮ったのだと思います
つまり60年安保の敗北の真の原因をそこに求めたのだと思います
しかし本作公開から来年で60年も経った結果はどうでしょうか
このような残酷物語はいまだにあるようです
因襲的な地方や、古い会社や組織だけでなく、東京の超一流と言われる会社でも、本作で描かれたような残酷物語がときおりニュースになるのです
終わってはいなかったのです
また皮肉なことに、共産党や新左翼の組織であってもそうであったことです
いやむしろ強烈に本作の内容に近いことが行われてきたことを21世紀の私たちは知っています
そして共産圏の国々は本作以上の残酷物語がゴロゴロしていたことも知っているのです
なんという皮肉な結果なのでしょうか
数々の映画賞に輝くのは当然の傑作です
武士の命は、武士の命にあらず
武士の命は、武士の命にあらず、主君のためにこそある。
もっと、シュールな演出なら、もっと面白かったに違いないが、今井正監督の正攻法の演出は、息苦しさみたいなものを感じた。
会社のために自分を犠牲にするというモチーフは、面白いのですが、
今井正監督の正攻法の演出と主君のために犠牲になるひねりのないシナリオにガックシ:;
松竹ヌーベルバーグの大島渚監督とか吉田喜重監督なら、組織のために犠牲になるひねったシナリを書き、面白かったような気がします。
全5件を表示