「古さへの信頼」プーサン 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
古さへの信頼
日本映画をけなすことが、けっこうある。
ぜんたいとして嫌いと言えるかもしれない。
わたしならずとも、人様のベストムービーをざくっと見渡して、日本映画を挙げている人なんて、数えるほどしかいない。
だから、単純に見積もって、日本映画は日本人に好かれていないのではないか──と思う。
今更感のある話だが、多かれ少なかれ、わたしたちは「西洋かぶれ」ではなかろうか。
なぜ日本映画が好かれていないのか。
ひとことでいうと「出来が悪いから」であろうと思う。
昔から、なぜ日本映画界は、低レベル映画を連発しておきながら、偉そうなんだろう、と思ってきた。
この暗幕の背景にあるのは、どこかあるいはだれかには評価されているらしい──という不透明な情報網であろうと思う。
権威機関が絶賛を掲げていると「へえ、そうなのか」ということになり「おれには合わなかったけれど、どこか/だれかには誉められているのか」ということになる。
むろん興行はあからさまであっても、クリエイターの権勢は保たれる──ことになる。
じっさいすべて虚構だと思う。
絶賛している「海外」なんて存在しないし、ひとりとして彗星のごとくあらわれていない。嘘とまでは言えない、本当ではないことを、針小棒大に喧伝している。
日本には何年もカメ止め以外に何もないことは庶民がよく知っている。
日本映画の実態とは、そんなものではなかろうか。──と思っている。
が、とうぜん優れた日本映画もあり、優れた日本映画監督もいる。
それなのに旬報や御用マスコミがじっさいにはレベルの低い映画を実力以上に持ち上げてしまうため、わずかな好感を、嫌感が凌駕してしまうという話、である。
今は紙媒体の機関誌を見ないが、かつてはスクリーンやロードショーといった、写真の多い雑誌を眺めた。
旬報も読んだが、何が書いてあるのかさっぱり解らなかった。今でも旬報系ライターのレビューは何が書いてあるのかさっぱり解らない。
庶民の娯楽であるはずの映画に、旧弊な権威を発し続けている人たち──だと個人的には思っている。
もうひとつ大きな理由は、日本に住む日本人だから、であろうと思う。日常、向き合っている社会と同じものを、わざわざ映画で見たくはない──という気持ちがはたらく。
そうではない人もいるだろうが、個人的に、それは大きい。
とりわけ人の醜悪があらわれるものを、一日の終わりに、見たいとは思わない。そういう映画を積極的に見たい気分のときもある。が、現実の厄介ごとを背負っているとき、ドラマでも映画でも、日本はぜんぜん見たくない──と思っている待機帯は長い。
さらに、もうひとつ理由として、日本映画が持っている俺様感がある。いつ頃からか解らないが、日本映画が、それを撮影している人たちの気配をにじませるようになった。所謂どやで、画の端々から「おれのつくった映画すげえだろ」の主張をしてくる。
さいきんバイオレンスの雄という言い方がよくある。誰が「雄」に仕立てたのか知らないが、その呼称はまるで「おれは粗暴な人間なんだぜ」と言っているように聞こえる。
監督が、映画製作を通じて、他者を威嚇している──ように思える。
いったい何がしたいんだろうか。
日本の映画監督の多くが、暴力を撮れる=すげえこと、というBullyの三段論法から、ぜんぜん卒業できない永遠のジャイアンのように思える。
これらのどやは他国の映画には見ない気配で、なるほど、その意味では独自性かもしれないが、個人的には無理である。
作り手の功名心が見えてしまう創作を、どうやって楽しめというんだろうか。
これらが複合に重なり、日本人は日本映画が嫌いになった──と個人的には思っている。
が、古い日本映画は、厭世を刺激しない。
古い日本映画は比較的出来が良く、日常を反映しておらず、どやがないからだ。
この映画はwikiで見たらコマ漫画の映画だそうである。大昔の漫画だが、横山泰三にもプーサンの響きにも、なんとなく耳憶えがある。
その戯画的軽調が、浮き世をさらに乖離させる。どこでもない世界のように見える。
に加えて、越路吹雪の顔立ちは、東洋人臭さがないのに、バタ臭いわけでもない。妖しさを抜いたローレンバコールに見えなくもない。サバサバが性質から面に出た感じで、とても垢抜けている。カン子って響きもいい。また、八千草薫は描いた人が動いているようでもあった。
嶋田久作にたいして伊藤雄之助の再来と言われたのを聞いたことがあるが、いくらなんでもそれは誉めすぎである。もっとも上背と顔貌でそう言われたのだと思うが、ここに出てくる伊藤雄之助、小林桂樹、藤原釜足、加東大介らは黒澤組でもあるが、かれらのシンギュラリティというか、俳優濃度というか、なんといったらいいのか解らないが、格を現代の俳優に充てるのは無理があるのではなかろうか。
たんに年をくって懐古趣味になっただけかもしれないが、それを言うならわたしは100歳くらいでなければならず、そういう同時代性の話でなく、たとえば高倉健の黄色いハンカチを阿部寛でやればどうか、それはそれで楽しいが、別物ではあるだろう──という話である。
喜劇にしているが事実上はシビアな時代背景がある。安保と重なった血のメーデー事件の翌年製作で、暴動のリアル映像の挿入もあった。主人公野呂も拘置されるが、それらが飄々と描かれ、漫画らしく、生きるも死ぬも諧謔のなかにあって沈殿しない。
野呂とカン子が銀座で見る舞台は女が極小ビキニでくねくね踊るものだが、セクシーというよりは滑稽である。劇場の看板には「桃源の美女たち」とある。そのあとふたりでラーメンを食べる。
初デートでそんな扇情的なものを見るふたりと、そんなものが日中の劇場で上演されている時代性と、ラーメンまで奢らせちゃ悪いわと遠慮するカン子は、総じて古き良きと言えるのではないだろうか。今はザギンでシースーでも腐る時代である。
市川崑といえばわたしの世代認識としては犬神家や我輩は猫だが、その美的感覚はこの映画には見えず、あまり詳しくないが木下恵介や川島雄三のような軽妙だったと思う。
コンプライアンスはないが人情はある。
自助と逞しい時代性が絵から伝わってきた。