「ポータブルDVDによる車内鑑賞レビュー」緋牡丹博徒 花札勝負 マーク・レスターさんの映画レビュー(感想・評価)
ポータブルDVDによる車内鑑賞レビュー
今作の鑑賞は
冒頭から 【 ローアングルの深遠なる世界 】 に 狂喜し、
やがて 【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】 に 驚嘆し、
後半は 【 加藤泰作品の共通項探し 】 に 興じた
充実の映画体験となりました。
今作はしょっぱなの1カット目から、容赦のない 「ローアングル」攻撃が炸裂し、
その2カット後の、映画開始早々の3カット目には
【 ローアングルによる 「3D」 効果 】 そして、
【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】
とも言うべき表現訴求のエッセンスを
感じ取ることができたのです。
線路内、2本のレールの真ん中を 緋牡丹のお竜さん が白い着物姿でこちらに歩いて来ます。
そして、その手前の踏み切りを横切りながら 盲目の少女 がフレームインしてきました。
カメラは地面に埋めたような極端なローアングルであるために、遠くにいる お竜さん の全景を捉えても、カメラ近くを横切る 盲目の少女 の姿は腰から下の足の部分しかフォローしていないのです。
全景の お竜さん と、
顔が隠された 盲目の少女。
この非日常的な構図が非常におもしろく、
また、お竜さん が奥から手前に向かって線路に沿ってやって来る
縦の運動 と、
盲目の少女 が踏み切りを右から左へと横断する
横の運動
との重なり具合がとっても興味深く、映画開始3カット目にして、ボクは早くも 映画的興奮 を得たのでした。
この映画的興奮を考察してみると
遠くに全景で捉えた お竜さん に対し、カメラ近くを歩く 盲目の少女 は画面上では大きな面積を占めてはいるものの、肝心の顔は写っていないのです。
どんな女の子なのかな? と疑問を生じさせる表現によって、 盲目の少女 の存在感を増幅させているこの演出に対して、ボクは
「遠近法」 の 誇張
を感じることができたのです。
「遠近法」 とは
近くにあるものを大きく描き、遠くのものを小さく描いて、
遠くのものと近くのものとの間にある 奥行きを表し、
立体感を表現する絵画の手法である。
と理解しておりますが、
普通のカメラ位置で撮影されたありきたりな 「縦の構図」 よりも、
今作のようにローアングルによって身体の一部を画面上に大胆に配置し、
非日常的な切り取り方をされた 「縦の構図」 の方が、
近くにいる少女の存在感が より強調され、
「遠近感」 がより一層 誇張された
と感じられたのです。
要するに、お竜さん と 盲目の少女 の客観的な実際の大きさの対比よりも、
ローアングル映像が作り出す
精神的に与える存在感の違いの方が、大きい。
と感じられたのです。
その為、二人の距離感が、実際のものよりも強調され、
より立体的な3D映像
としてボクの右脳に飛び込んできた
というわけなのです。
この表現手法をボクは
【 ローアングルによる 「3D」 効果 】
と名付け、大いに評価をしたいと思ったのです。
こんなことを感じていたら、盲目の少女 は突然、横の運動を止め、くるっと左90度曲がって、お竜さん と同じ縦の運動を開始していったのです。
それは、盲目の少女が安全地帯である踏み切りから1段踏み降ろして、危険地帯である線路内に立ち入ってしまうことを意味します。
物語を進行させる上で重要となるこの動きに対して、今作はその極端なローアングルを活用することよって見事なまでにその動作をクローズアップさせてきたのです。
そして、この素晴らしい表現手法によって、ボクは続けざまに大きな映画的興奮を獲得することになったのです。
この再びの、映画的興奮を考察しますと、
今回のローアングルは、進行方向を変える 「作用点」 となる少女の足元を直接的に映し出せるカメラ位置となっており、しかも、今作の地面スレスレの極端なローアングルによって、足元にある 1段 の 「高さ」 と 「重み」 をしっかりと目撃させることができる
稀有なカメラ位置 となっていたのです。
これによって 「安全地帯」 と 「危険地帯」 との境界線を彼女が越えてしまう切迫感を、
直感的に 視聴者に植えつけることができたのです。
通常のカメラ位置では、このような地面に接した足元での出来事はフォローし切れない領域であり、それ故、この動作を強調しようとすると、足元のアップをカットで抜くか、さもなければティルト・ダウンを施すか、場合によっては移動撮影を仕掛けることになり、当然のことながらリズム感を損なうなどして、
わざとらしい演出 になりかねないものですが、
驚くことに、今作は 「少女の登場」 から 「方向転換」、そして 「一段降り」 までを据えっ放しの1カットで表現をしてきたのです。
しかもカメラ位置が極端に低いローアングルであるために、少女の足元と、その少女の動きを気にしている お竜さん の存在さえも
同一カットに表現 することに成功していたのです。
近くのものは低い位置を捉え、
遠くのものはそれより高い位置のものを捉えやすい
このローアングルの特長を十分に
活用していたのです。
この特長を言い換えると、
先ほど 「縦の構図」 という言葉を使って、奥行きの表現について話しましたが、
今作に活用されている構図は
【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】
と表現できるのではないでしょうか。
近景、中景、遠景 が織り成す位置関係を 奥行き という一つのベクトルで統制している
「縦の構図」 に、
「高さ」 という、もう一つの方向性が加わって、
「斜め上の構図」 という
空間を多重の指標によって制御している、興味深い映画
世界が、今作においては展開されていったのです。
一概には言い切れませんが、
「近景は下部、中景は中部、遠景は上部」
を重点エリアとする
斜め上に向かっていくラインを意識させる 「斜め上の構図」 の世界観に強く興味を引かれたのでした。
盲目の少女の登場、そして方向転換と一段降り。 この一連のたった9秒の出来事ではあったのですが、この映像は今作を鑑賞していく上で表現上のキーとなる
【 ローアングルによる 「3D」 効果 】 と
【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】 の
萌芽を感じ取ることのできた、開始早々3カット目で見つけた
わかりやすいサンプル映像となっていたのです。
そしてこの2つのローアングル世界は様々な場面で活用され、このサンプルよりもその表現効果を増大させているカットに遭遇していくことになるのですが、その度ごとに語っていくと
【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】 と
【 加藤泰作品の共通項探し 】
について書くスペースが無くなってしまうので
うづうづする気持ちを抑えながら、先を急ぐことにします。
先を急ごうと思いつつ、素晴らしいカットに遭遇してしまうと、どうしても思いを巡らさないわけにはいかなくてしまいました。
「珠玉の9秒」の 1分45秒後、善玉たる西乃丸一家 への お竜さん の「仁義」のシーンにおいて、素晴らしいシークエンスは再び展開されていきました。
実は、このシークエンスをキッカケとして、ボクは今作に漂っている、ある種の 奥床しさ を感じ始めたのです。
普通の監督なら、「仁義」という見せ場はドーンと正面から全身ショットを撮りたいところなのでしょうが、今作の監督である加藤泰監督は全く違っていました。
彼は仁義を切る お竜さん を ちょっと離れた隣の土間から横位置で、大きな暖簾ごしに見ていたのです。
暖簾がめくれると お竜さんの顔が現れて、閉じると顔だけ見えない。
この表現方法に触れて、不思議な言葉の組み合わせになりますが、何とも
“ 奥床しい 仁義 ” として受け留めていったのです。
次の2カット目は お竜さんの顔が映し出されるはず、と思いきや、今度は お竜さん の反対側にカメラが回り込んで相変わらずの、ちょっと距離感を保つ横位置カットとなっていきました。
3カット目こそは お竜さん のアップだろうと思ったこのカットは その仁義 を真摯に聞き入る 受け人 の姿を正面に据えてきたのです。
しっかりと前を向き、正座で両手こぶしを床についた誠意ある態度で お竜さん の口上を請けたまわっているのです。
制限文字数で語りきれず、完成版はこちらまで
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