麦秋のレビュー・感想・評価
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登場人物を饒舌に語る「映さない」演出。
◯作品全体
小津安二郎監督の「紀子三部作」と呼ばれる『晩春』、『東京物語』、そして本作『麦秋』では、どれも家族の変化や在り方にスポットを当てた作品になっている。今までごく当たり前のように同じ屋根の下で過ごしてきた家族でありながら、周りの環境や年齢によって変化を強いられる。「昭和の日本社会」という大きなくくりで見れば、さも当然のことのように語られるけれど、個々人にしてみれば時には強く拒絶したくなるような変化だ。その拒絶したくなる変化について繊細に掬い上げたのが「紀子三部作」だと捉えているけれど、『麦秋』での掬い上げ方は他の2つの作品と少し違って見えた。
その一番の理由は「映さない」演出だ。『麦秋』では色々な「映さない」ものがある。一番わかりやすいのは紀子の夫候補として登場する「真鍋」という男だ。真鍋は作中で写真としてのみ登場し、実際の姿は一切映さない。写真も非常に不鮮明で、まったくといって良いほど顔は映されていない。紀子の夫候補となれば紀子自身の眼で判断をしたり、交流を深める中で嫁入りの判断をするのだろうと思っていたが、そういったシーンはまったくなかった。終盤に紀子が真鍋を覗き見るシーンも、忍び足の紀子を映しただけで真鍋を見た紀子を映さずに終わってしまった。
演出意図としては、観客の一番の関心事を映さない、という画面を引き付けるギミックとしての理由もありそうだけれど、一番は紀子の心の中に真鍋という男は一度も存在しなかったことを強調したいのだと思う。作中でも紀子が真鍋との結婚について前向きな発言をしているが、紀子が真鍋のことで心を揺さぶられるシーンはまったくない。真鍋を映さないことで紀子の本心を語るような演出だったと思う。
「映さない」ことで巣立ちや成長も表現していた。巣立ちのモチーフとして印象的だったのは周吉が飼っていた鳥。作品序盤からエスタブリッシュメントカットとしても使われていた鳥かごと鳥だが、終盤に進むにつれて画面に映される頻度が少なくなっていく。鳥かごの中の鳥、というもの自体が不動の場所で変わらず生活する紀子と重なるが、それが映されなくなることで、謙吉への嫁入りを決めた「飛び立つ紀子」を自然と演出していた。これが例えば鳥かごから飛び立つ鳥を画面にいれていたとすれば、それはもう野暮だろう。少しずつフェードアウトするように「映さない」をすることで、飛び立つ紀子を静かに見守る演出となっていた。
その他、康一夫婦の子ども2人も迷子の日を境に映されなくなる。序盤では二人が遊ぶ姿を長めに映していたけれど、迷子の日以降は子供部屋も閉ざされ、再び登場するのはラストの集合写真だ。康一がおもちゃでなくパンを買ってきたときの「本当のことを言わないずるさ」を知って、一つ大人になるという出来事だったのかもしれない。さらに言ってしまえば親や親族がいない中で街を歩くという「迷子」そのものが成長とほぼ同義だろう。ただここで巧いな、と感じたのは駅で見つかって帰ってきた二人を映さなかったことだ。成長した二人を「映さない」ことで、二人の成長の幅に伸びしろを作っていたのだと思う。この二人の成長は「歳を重ねて大人になる」ということをポジティブに感じ取れるが、紀子にとっての「歳を重ねて大人になる」は決してそうではない。後半に加速する紀子の物語へ向けた滑走路のような役割だったと思う。
こうした「映さない」演出の根底には、周吉と妻・志げのシーンにあった「空へ飛んでいく風船」のカットがあるのだと思う。紀子の縁談が出てきたとき、外で昼飯を食べる二人は「これで紀子も嫁に行けばさみしくなる」と話す。そして見上げると誰かが手を放してしまった風船が空をとんでいる。周吉たちから見れば離れていく風船は、その行き先や結末を見ることはできない。子どもたちが成長していき手元から離れていく寂しさと、子どもたちのこれからを見届けられない切なさの表現として「映さない」を使っていたのだと、感じた。
嫁いでいった紀子の姿も作中では映されない。『麦秋』の主人公である紀子の晴れ姿を映さないことで、紀子を見続けてきた観客にも周吉たちと同じような寂寥感をもたらそうとしているのかもしれない。個人的にはその寂寥感と共に、エンドロール後も続く間宮家の人たちの「これから」にエールを送りたくなって、気持ちが暖かくなるラストだった。
◯カメラワークとか
・数カットしかないけど、カメラが動くだけでビビる。海辺のクレーンショットは坂を登っていることが強調されているようで、かっこよかった。空と坂しかないシンプルな構図が美しくもある。
・鳥かごの演出として、東京の街があった。東京の街はそのすべてがオフィスの窓から見た景色。両端をビルが埋め尽くし、すごく狭い空が映る。一方で鎌倉の景色は田園と空によって拓けた印象。小津安二郎の他作品(例えば『お茶漬けの味』とか)だと東京が狭い空間とは描いていないし、小津の作風ではなくて紀子の心象風景だと思う。
◯その他
・大人になってから再会する旧友との会話とか、距離感の表現が巧いなあと感じた。あのころは近い感性だった友人たちが結婚し、子どもを持ったことで違う人間のように見えてしまうような感覚とか。アヤとの会話劇はほんと良かった。演劇的な作った関係性に見えない。秋田へ行くことになって前フリもなく方言を使い始めて学生時代の同級生の話に持っていくところとか、めちゃくちゃ良い。
古き良き日本の原風景
この映画を一言で言えば、家族愛の物語だ。今の価値観や結婚観からかなり乖離しているし、また、下記の気になった点でも挙げている通りいろいろと問題もあるのだが、古き良き日本の家族愛を感じられる小津安二郎の傑作のひとつに違いない。
個人的には原節子はそれほど好きな女優ではないのだが、この映画に限っては、役柄のせいもあるが結構気にいっている。家族愛の他にも、原節子と淡島千景の友達関係が実にいい感じだ。
笠智衆が兄役で、東山千栄子が母親役であるが、この2年後の「東京物語」では東山千栄子と笠智衆は夫婦になっている。そう考えると、この映画の父親役もいい味を出していたが、笠智衆でもよかったかもしれない。
食べるシーン多い小津作品の中でもこの映画は際立って多く、食べるシーンだけでも喜怒哀楽が伝わってきて、見ているだけで癒される。
<気になった点>
・耳の聞こえない人や同性愛に対する差別的発言
・歳の離れた人と結婚するのをかわいそうと言っている
・結婚していない女性への偏見
・子供たちの態度が生意気(小津の映画には多い)
・金持ちと結婚することが理想と思っている
・原節子の結婚について、両親より兄の方が真剣に心配している(どちらも心配しているが、比較の程度で、両親はやや傍観者的な感じだった)
・子供たちが行方不明になっているとき、他の家族は必死に探しているのに、父親はのんきに囲碁をしていて良いのか
・ショートケーキが900円とは、今の物価がで換算したら1万円以上ではないか(もしかしたら2万円位?)また、ホールなので、一家全員で食べられるはずなのに、なぜ子供たちにあげなかったのか?
・ヘップバーンのブロマイドを集めていると言う話が出てくるが、彼女が日本で人気が出るのこの映画公開の後の「ローマの休日」以降のはず。しかも彼女たちが学生の頃だったら10年前の話であるので、オードリー・ヘップバーンならまだデビューしていない、と言う事はキャサリン・ヘップバーンのことか?
・個人的には小津作品の音楽はあまり印象に残らないのだが、この映画に関しては冒頭と最後のほうに流れるオルゴールがすごく印象に残った。家族団欒の雰囲気を盛り上げるには良いのかもしれないが、ちょっとメルヘンチックぽく感じた。心地よいが。
会話による説明省略の妙と解けない謎
会話を中心とし余分な説明を排除した脚本は、粋とは思った。有名なローアングルの独特な構図は、あまり好きにはなれなかった。こちらに向かって俳優が話しかけてくる構図も、違和感を感じてしまった。
兄と弟絡みのやりとりはユーモア混じりで、まあ楽しめた。高名ではあるが原節子にはあまり魅力は感じず。一方、嫁役の三宅邦子さんは良い女優さんと思った。結婚する相手の母親役の杉村春子さんは、気持ちの浮き沈みが体全体で表現されていて、流石と思わされた。
小津映画の解読力が十分でないためかもしれないが、幾つかの謎が自分に残った。
まず、最初に海浜を歩く犬の意味は?原節子演ずる紀子は、子持ちの矢部医師と、どういう気持ちの動きで結婚する気になったのか、それが画像上で表現されてるか?その結婚決定に、戦死したらしい紀子兄への思いは、どう関係しているのか?
矢部医師は何故、紀子が自分のところに嫁に来てくれることを知っても、嬉しそうで無かったのか?紀子が矢部と結婚することに決めたことを、なぜ、誰も祝福しようとしないのか?
紀子は縁談相手を覗き見て、どう思ったのか?その気持ちと、見た後のお茶漬けのご飯おかわりは、どう関係しているのか?
移ろいゆく季節(とき)の中で
紀子三部作第2作。
Blu-ray(デジタル修復版)で2回目の鑑賞。
「小津調」の確立された様式美の中で、日常を丁寧に淡々と描写していくことによって、くっきりと浮かび上がって来る、普遍的な人間の営みと想い。全ての小津映画に共通する点ではありますが、他の作品たちと同様に、本作の豊かな人情の機微も静かに心に染み入って来ました。
娘の結婚が物語の中心に据えられているのは前作「晩春」と似通っていました。ですが同作では、父親と娘の関係性を描いていたのに対し、本作では娘の結婚に揺れ動く大家族の姿を描いていたところに違いがありました。
変化しないものなど、この世には無い。全ては時と共に移ろい行く定めの中にある。紀子の友人たちも結婚して、友情よりもそれぞれの家庭が優先されるようになる。
一緒に住んでいる家族だって、紀子の結婚問題で若干の不協和音が走ってしまったし、紀子が結婚して夫がいる秋田へ行くことになったのを契機に、別々に暮らすことになりました。
同じ関係は永遠に続かない。だがそれは、悲しいことではない。はじめは寂しいかもしれないが、その変化は新しい幸福への第一歩なのだと思いました。それを象徴するように、見事に実った麦畑が映し出されるラストシーンが印象的でした。
※修正(2022/01/05)
『もののあはれ』の一歩先
一見地味な物語ですが、そこには人間の心の変遷や営みが豊かに描かれており、偉大なる傑作でした。さすが現在でも語り継がれる巨匠・小津安二郎。
本作は結婚の話ではありますが、次男の喪失を家族が乗り越える話でもあると感じました。間宮家は一見平穏そうであり、実際に平穏に暮らしているのですが、戦争で次男を失うという、非常にヘヴィな傷を抱えています。不在である次男を語る場面になると、映画のトーンがグッと重苦しくなります。戦死通告が来ていないから、母親は受け入れられていないし、父親も「戻ってこない!」という口調からは無理に突き放しているようにも見えます。
そんな中、末子・紀子の結婚話が勃発します。あまり結婚についてポジティブな言及をしない、勧められた相手の写真をシカトしようとする等、紀子はもともと結婚そのものに対して関心が低いように思います。
そんな紀子が物語の中盤で突如結婚を決意するわけですが、相手・流れともに突飛な印象を受けます。しかし、その相手が兄とつながりの深い人物であり、決意の直前に、その人物から兄からの手紙を受け取る約束をする等、紀子の結婚の決意には失われた兄が深く関係しているように思えました。
紀子の決断は、個人的な意志を超越したもののように思えます。まるで、向こうからやってきたものにフッと応えたような、突然だがとても自然に感じられたのです。大いなる力が、兄の存在を内側に留めようとしているように働いているのではないか、と思えてならないです。
この決断に家族は反対します。その奥底にある理由は、認めたくない次兄の死を受け入れざるを得なくなるからかもしれません。しかし、傷を癒すには向かい合うしかない。紀子の決断は自分のためでもあり、家族の再生のためでもあったのでは、と考えています。
紀子を突き動かした力は、次兄を含めたこれまでの間宮家の歴史なのではないでしょうか。穏やかに、愛を与え合う家族だったからこそ、家族の内なる力があった。だから家族が受けた傷を自らの力で癒せたのでしょう。ここで家族はついに麦秋という収穫のときを迎え、次兄を送ることができ、家族写真を撮り、それぞれの道に進むことができたのだと思います。
中盤に風船が空に舞い上がるシーンがありますが、振り返ると、まるで次兄の魂が天に還ってゆく姿のようにも感じられました。
『もののあはれ』という言葉があります。いずれ消えていくものが持つ一瞬の美しさと哀愁、といった概念だと思います。ベースになるのは無常観。裏返せば、永遠なるものを得ることのできない諦念や虚しさがあるとも言えます。小津はもののあはれへの感受性が強く、それを見事に映画化してきたように想像してます(断言できるほど小津を観てないので)。
しかし、本作はもののあはれの一歩先を行っていると感じます。
最もよい時期=麦秋を迎えた家族だが、再びその時期を迎えることはできないかもしれない。一見、わずか一瞬だけの幸福であるようにも思えます。
でも、そうではないのです。これまでの間宮家の積み重ねが実りのときを迎えたのです。そこに虚しさはありません。彼らが重ねてきた過去は業績で、永遠なのです。次兄が間宮家で過ごした日々は、決して失われることはないのです。
変化や成長は、今までのことを喪失することでもあります。そこには寂しさが生まれます。しかし、間宮家の人々は寂しさをじんわりと味わっています。それができるのは、充実した過去があるから。このように、次のステップに進むために感じる寂しさを噛みしめ味わえることこそが、幸福のひとつの形なのではないでしょうか。
本作は、そのような深い意味の幸福を描いているように感じました。
演者について。原節子は相変わらず美しく素敵でした。大柄なので西洋の女優のようなセクシーさがありますね。オフビートギャグも冴えており、イサムちゃんのコメディリリーフっぷりは最高です。
あと、食事シーンがなんか良いです。登場人物がみな旨そうにご飯を食べるので、鑑賞後やたらと白米を食べたくなりました。ケーキよりも白米が良かったです。
人生の収穫
紀子三部作をようやく観終わりました…。
登場人物の名前は大体同じで、役者さんもほとんど同じで役だけ入れ替えているんですね。徐々に家族構成を大きくして、平穏な日常の中で静かに進んでいく人生の階段が描かれておりました。
「紀子」は、結婚を渋る娘→家族の同意を得ずに結婚を決める娘→戦死した夫の両親に尽くす嫁という、同一人物ではないけれど、作品毎に成長していくような女性。
空高く飛んでいく風船、過ぎ去る列車。戦争の爪痕。
日々の何気ない出来事と重なる、語られない心の内。
風景も人物も家族も習慣も「日本」。
日本でなければ作れない作品。
杉村春子さんが演じる母親は、本作では息子の下駄の紐が緩いことを心配するのですが、「東京物語」では確か古いサンダルを親に履かせますよね(^^;)。紀子が嫁に来ることを承諾した時の喜ぶ表情が素晴らしい。
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