麦秋のレビュー・感想・評価
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日本映画のオールタイムベストだけでなく、世界屈指の名作とされるのも当然のことだと思います
感動の涙が流れました
主人公は原節子の演じる紀子のようで、実は紀子の父親周吉だったのだと思います
終盤の周吉老夫婦が短く会話を交わし、遠くを見つめるともなくみやるシーン
人生の様々な出来事が二人の胸中に長く思い返されているのです
家族がうまれ育ちまたそれぞれに家族をつくり離れていく
本当に幸せでしたよ
周吉の妻のその台詞にこそ本作のテーマが込められてあると思います
その妻の言葉を周吉は噛み締めています
普通の暮らしをして老いていく、そして子供達はそれぞれに自立して巣立ち、自分たちは生まれ故郷に帰り人生を振り返る
このような幸せな老境に達した幸せ
戦争で次男を失くす不幸はあってもこれ以上の贅沢は言えない
その平和のありがたみがラストシーンの耳成山を背景にした奈良盆地の光景に表されていると思います
空に消えて行く風船は戦地から未だ復員せずもう死んだものと諦めている次男のことを象徴しているのでしょう
踏切で走りさる横須賀線の電車を見送ったまま、遮断機が上がっても動かず遠い目をする周吉
彼の脳裏には過ぎ去った人生の数々のシーン横須賀線の電車と同じように猛スピードで去来していたのだと思います
シーンとシーンの間の登場人物がいない独特の余白の空気感
胸中に渦巻く色々な思いを言葉にはせず、遠くを見つめる登場人物達
友人あやの母親の探し物シーンなどのくすりとするギャグも冴えています
日本人だけに分かる日本人だけの映画のようで、世界中の誰もが共感できる普遍性のある映画だと思います
日本映画のオールタイムベストだけでなく、世界屈指の名作とされるのも当然のことだと思います
紀子は矢部と突然結婚を決意します
その理由は確かに彼女の言う通りだと思います
しかしそれは彼女が自分で自分を納得させている言葉のように思います
ニコライ堂近くのお茶の水の喫茶店で矢部とコーヒーを飲むのですが、戦死したと思われる大好きだった兄の省二の手紙のことを彼女は矢部から聞きます
その時に彼女は矢部に兄省二の面影を見たのは確かでしょう
だから、あやに矢部のことをあなた好きなのよと言われた時、彼女は違う、安心できる人だから結婚するのよと答えたのです
ほら、やっぱり惚れちゃたのよと言われても、そうじゃない!と言い張るのです
そして家に帰り独りでつまらなそうにお茶漬けを啜る時の彼女の顔にはいつもの笑顔は無く、少しも楽しそうではないのです
彼女がその年になるまで独身でいたのは、妻子も有るであろう上司の専務に憧れていたからではないでしょうか
序盤での専務との会話はまるで夫人のようです
専務は節度を持って接しており、縁談まで世話しようとしていますが、終盤の退職の挨拶に来た紀子に彼はつい本音を冗談として口にします
もし俺だったらどうだい
もっと若くて独り身だったら・・・
駄目かやっぱりとお互いに笑ってごまかすのですが、彼は痛む腰を無意識に叩き、もう若く無いと自分に言い聞かせ戒めています
そして彼女に東京を良く見ておけと言いつつ、彼女の喪失の重さを今になって思い知っているのです
彼は本当は遊び慣れている男であることは、あやがかれのところに来た時の寿司の会話で分かります
蛤と巻き寿司は好きかい?の問いかけは、実は猥談です
料亭育ちのあやは直ぐにそれに気がつき怒ったのです
もっと言えば、あやもまた専務に魅かれていて紀子にかこつけて何かにつけて彼のところに通っています
密やかな三角関係が水面下にあったのだと思います
そうして家族写真撮影のあと、家族団欒の夕食のシーンでオルゴールを思わせる音楽がなり続けます
これがこの家族の記憶にいつまでも残るであろうことを演出する秀逸な音楽であったと思います
そしてこの大家族がそろって食事するのももう最後になると言う会話になったとき、バラバラになる家族の原因を自分が作ってしまったと紀子が泣くシーンになるのです
実は彼女はそれだけが原因で泣いているのではないと思います
憧れの専務から逃げ出して、手近にあったきっかけに飛びついていただけなのだと、やっと自分で思い至った、その涙だったのだと思うのです
その結果に彼女は今さらながら気がついたのではないでしょうか
専務とあやとの会話のヘップバーンとはオードリーではなくて、キャサリン・ヘップバーンの方です
彼女はフィラデルフィア物語など気の強い現代的な女性を演じるのが常でした
初夏、麦が実る季節
劇中の季節だけでなく、紀子も人生の初夏を迎えているのです
実らぬ恋を諦めて矢部と結婚をし秋田に行った彼女は、これから色々な苦労を経験し乗り越えていくのです
そうして彼女も周吉達のような老夫婦になっていくのでしょう
そのような感慨をもって、花嫁が行くよと周吉は眺めているのです
その花嫁の行列が進む背景にある低いなだらかな山は大和三山のひとつ香久山です
ラストシーンの三角の小さな山はこれも大和三山の耳成山です
奈良盆地の中央、近鉄大阪線の耳成駅の南側1.5kmの辺りでのロケのように思われます
振り返って南を見れば香久山です
ここから北側の耳成山方向は結構都市化して今はもう見渡す限りの田圃の光景は見られなくなっていますが、南側の香久山方向は周吉夫婦がみたような一面の田圃が今も広がっています
残念ながら麦はもう植えられてはいないので麦畑ではありません
そこに点在する集落の中には映画に写るような古民家もまだほんの少し探せば残っていると思います
奈良観光の際は大仏だけでなく、足を伸ばしてこのロケ地辺りまで脚を伸ばして散策されては如何でしょうか
耳成山も香久山も山の姿は今も変わりはありません
藤原宮跡はそこから徒歩で西に直ぐそばです
明日香村にも車で近いです
もしかしたら勇ちゃんが周吉の兄・茂吉のような老人となって大和に墓参りに来ているかも知れません
☆☆☆☆★ 「いいのかね〜、勝手に決めちゃって」 「本当に困ったも...
☆☆☆☆★
「いいのかね〜、勝手に決めちゃって」
「本当に困ったもんですよ」
「う〜ん、どうしたもんかね〜」
小津の描く家族。それは世界にも類を見ない唯一無二な世界。
映画の途中で、楽しい会話の中。いきなり戦争から帰って来ない、消息不明の家族の会話になり。それまでの楽しい会話は暗くなる。
「もう帰らんモノと思ってますよ。これは(妻は)諦めておらんみたいですが…」
『晩春』でも、いきなり戦争の話題が登場し。一気に映画の世界観を一変させ。そして『東京物語』では、映画の歴史上でも驚異的と言えるあの台詞が原節子の口から発せられる。
「あたし…狡いんです」
《もはや戦後ではない》
当時の世の中がそんな風潮の空気の中、小津からの問い掛けは。一見して、映画が描く世界観からは逸脱した隠れたところで。
「忘れる訳が無い!忘れてはいけない!」…と言ったメッセージなのだろうか?
小津が描いた家族は、どうみても中流以上のかなり恵まれた家庭で間違いないのだと思う。
それでもなお、娘(この作品では妹)の結婚相手には、より位が高い身分の人に…と思う。
年齢差が有る事に不安を口にする母。
それに対して「贅沢言ってられないんだ!」…と。
「贅沢なのかね〜…」と母。
嫁を貰う男の立場に反し。嫁に行く女の立場の違いには、延々に相容れない深い溝が在るのかも知れない。
その為なのか?それまでのルンルン気分だった家の中が、まるでお通夜の様になってしまう。
遂に決断する原節子。
それまで、まるで〔サザエさん〕の様な家庭で在ったのに、あっと言う間に家族が散り散りになる運命が待っている。
この辺りの。小津演出による、観客の脳天にズドンとハンマーを振り落とす手腕は恐ろしい。
しかも、その一気に落ち込んだ心を。家族写真で一瞬の内に引き上げる手腕にも、やはりとんでもない程の恐ろしさを感じない訳にはいかない。
ちょっと前のネットの情報で、小津作品に於けるショットの秒数を数えた人が居たらしい。
特に晩年の作品に関しては。、上映時間を総ショット数で割ると。1ショットの平均秒数が殆ど一致していたらしい。
それが本当だったならば。小津は、1ショットの積み重ねで人間の感情をコントロールする事を考えていた事になるのかも知れない。
【行き組】と【行かず組】との人参問答(『晩春』では大根)を始めとする。多くの楽しい会話のキャッチボールの裏で起こるいざこざや、親夫婦の侘しさ等。
常々、個人的に。小津安二郎とゆう人に対して抱いていたのは…時代が時代ならば、ホラー映画作家になっていたんではないか?…と思う事がたまに在ったのだけど。まさに『麦秋』は、その思いを再確認(勝手にですけど)させてくれる作品でした。
初見 並木座
2019年4月18日 シネマブルースタジオ
・子ども2人が出てくるとわくわくした ・杉村春子があまり目立たない...
一番好きなシーンは原節子と淡島千景が東北弁で会話するところ。後半...
笑顔の裏は?
『もののあはれ』の一歩先
一見地味な物語ですが、そこには人間の心の変遷や営みが豊かに描かれており、偉大なる傑作でした。さすが現在でも語り継がれる巨匠・小津安二郎。
本作は結婚の話ではありますが、次男の喪失を家族が乗り越える話でもあると感じました。間宮家は一見平穏そうであり、実際に平穏に暮らしているのですが、戦争で次男を失うという、非常にヘヴィな傷を抱えています。不在である次男を語る場面になると、映画のトーンがグッと重苦しくなります。戦死通告が来ていないから、母親は受け入れられていないし、父親も「戻ってこない!」という口調からは無理に突き放しているようにも見えます。
そんな中、末子・紀子の結婚話が勃発します。あまり結婚についてポジティブな言及をしない、勧められた相手の写真をシカトしようとする等、紀子はもともと結婚そのものに対して関心が低いように思います。
そんな紀子が物語の中盤で突如結婚を決意するわけですが、相手・流れともに突飛な印象を受けます。しかし、その相手が兄とつながりの深い人物であり、決意の直前に、その人物から兄からの手紙を受け取る約束をする等、紀子の結婚の決意には失われた兄が深く関係しているように思えました。
紀子の決断は、個人的な意志を超越したもののように思えます。まるで、向こうからやってきたものにフッと応えたような、突然だがとても自然に感じられたのです。大いなる力が、兄の存在を内側に留めようとしているように働いているのではないか、と思えてならないです。
この決断に家族は反対します。その奥底にある理由は、認めたくない次兄の死を受け入れざるを得なくなるからかもしれません。しかし、傷を癒すには向かい合うしかない。紀子の決断は自分のためでもあり、家族の再生のためでもあったのでは、と考えています。
紀子を突き動かした力は、次兄を含めたこれまでの間宮家の歴史なのではないでしょうか。穏やかに、愛を与え合う家族だったからこそ、家族の内なる力があった。だから家族が受けた傷を自らの力で癒せたのでしょう。ここで家族はついに麦秋という収穫のときを迎え、次兄を送ることができ、家族写真を撮り、それぞれの道に進むことができたのだと思います。
中盤に風船が空に舞い上がるシーンがありますが、振り返ると、まるで次兄の魂が天に還ってゆく姿のようにも感じられました。
『もののあはれ』という言葉があります。いずれ消えていくものが持つ一瞬の美しさと哀愁、といった概念だと思います。ベースになるのは無常観。裏返せば、永遠なるものを得ることのできない諦念や虚しさがあるとも言えます。小津はもののあはれへの感受性が強く、それを見事に映画化してきたように想像してます(断言できるほど小津を観てないので)。
しかし、本作はもののあはれの一歩先を行っていると感じます。
最もよい時期=麦秋を迎えた家族だが、再びその時期を迎えることはできないかもしれない。一見、わずか一瞬だけの幸福であるようにも思えます。
でも、そうではないのです。これまでの間宮家の積み重ねが実りのときを迎えたのです。そこに虚しさはありません。彼らが重ねてきた過去は業績で、永遠なのです。次兄が間宮家で過ごした日々は、決して失われることはないのです。
変化や成長は、今までのことを喪失することでもあります。そこには寂しさが生まれます。しかし、間宮家の人々は寂しさをじんわりと味わっています。それができるのは、充実した過去があるから。このように、次のステップに進むために感じる寂しさを噛みしめ味わえることこそが、幸福のひとつの形なのではないでしょうか。
本作は、そのような深い意味の幸福を描いているように感じました。
演者について。原節子は相変わらず美しく素敵でした。大柄なので西洋の女優のようなセクシーさがありますね。オフビートギャグも冴えており、イサムちゃんのコメディリリーフっぷりは最高です。
あと、食事シーンがなんか良いです。登場人物がみな旨そうにご飯を食べるので、鑑賞後やたらと白米を食べたくなりました。ケーキよりも白米が良かったです。
心に伝わるものは無い
これにて紀子三部作制覇。 相変わらず冒頭から平々凡々の日常生活が描...
これにて紀子三部作制覇。
相変わらず冒頭から平々凡々の日常生活が描かれていく。そして又々定番の嫁にいくのか、いかぬか問題。正直ちょっと食傷ぎみ。その他の事件は起こらぬものか?
来た来たー!子どもがいじけて、なんと食パン蹴っ飛ばしよったで。当然怒られる子ども、えっ、でもそれだけ?こら、フルボッコにせなあかんのちゃう?挙げ句はいじけて帰らぬ子どもを総出で探す家族ばかぶり。ほっとけ!
これが唯一のヤマだった。突如自ら決めた結婚も今ひとつのインパクト。
三部作の最高峰に推す人も多い本作だが、私は見る順に…舞台もキャストもほぼ変わらずでどんどん慣れてしまうからかな。しばらく嫁にいくやらいかぬやらは敬遠しよう(笑)
●必見。
何気ない日常が生き生きと輝く。そこには愛がある。何よりあたたかい。
ボケかかったじいさん。悪さするガキども。年頃の女の子たちのたわいない会話。
自然と笑みがこぼれる。幸せな気持ちになる。
原節子に淡島千景。もう綺麗とか可愛いとかのレベルじゃない。女神だな、ありゃ。
ふたり揃って、憎まれ口をたたくシーンが好きだ。「ねえ」がリフレインする。
ゆったりと時が流れ、小鳥がさえずる。平和だ。ふとした瞬間に入る一コマが本当に美しい。
風船が飛んでくシーンは、白黒なのに、晴れ渡った青い空が実感できる。そこに戦闘機はない。
戦地から帰ってこない者もいて、口ではあきらめたという親父。
昭和の大家族。家族が支え合っていた時代。なんとも清々しい。
ひとつひとつのシーンに、それぞれの人生に、ドラマがある。
杉村春子の一言。息子がいくつになっても変わらぬ親心。骨身にしみたわ。
「麦秋」ってタイトルも、なんとも粋だ。初夏の収穫時。梅雨入り前の短い期間。
人生の最も輝いてる時期を戦争なんかで費やすんじゃないって。そう監督が言ってるようにも聞こえた。
人生の収穫
紀子三部作をようやく観終わりました…。
登場人物の名前は大体同じで、役者さんもほとんど同じで役だけ入れ替えているんですね。徐々に家族構成を大きくして、平穏な日常の中で静かに進んでいく人生の階段が描かれておりました。
「紀子」は、結婚を渋る娘→家族の同意を得ずに結婚を決める娘→戦死した夫の両親に尽くす嫁という、同一人物ではないけれど、作品毎に成長していくような女性。
空高く飛んでいく風船、過ぎ去る列車。戦争の爪痕。
日々の何気ない出来事と重なる、語られない心の内。
風景も人物も家族も習慣も「日本」。
日本でなければ作れない作品。
杉村春子さんが演じる母親は、本作では息子の下駄の紐が緩いことを心配するのですが、「東京物語」では確か古いサンダルを親に履かせますよね(^^;)。紀子が嫁に来ることを承諾した時の喜ぶ表情が素晴らしい。
年を重ねてわかる小津の魅力
小津手法で描かれた戦後間もなくの人間模様
日本の良き映画
間宮家の人々
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