「うっとり魅了するような柳川の美しい景色が主人公」廃市 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
うっとり魅了するような柳川の美しい景色が主人公
1 福永武彦の原作「廢市」について
福永武彦は芥川龍之介の門下生・堀辰雄の門下だから芥川の孫弟子である。その芥川に姉妹が同じ男性を愛する短編「秋」がある。
そこでは姉が妹に男を譲り、自分は平凡で面白みのない銀行員と結婚する。結婚した妹を訪ねていくと、楽しそうで羨ましい生活を送っている。それを見届けた姉は、ただ淡々と退屈な夫の待つ自宅への帰途につく…という話で、そこに若さゆえの希望やら異性愛、姉妹愛が現実の中に埋もれていくという人生の縮図が感じられた。
二人の姉妹が一人の男を愛するのは本作も同じだが、こちらでは姉がその男と結婚する。しかし、結婚後、男がほんとうに愛しているのは妹だと悟り、自分は身を引こうとする。
一方、男は姉を愛していると主張したまま、何故か別の女と暮らし始める…やれやれ。妹は妹で男を愛しているが、姉との結婚を喜びこそすれ、決して邪魔などする気はない。そして三人の関係は、突然の悲劇として幕を閉じる…。
読んでいると、設定は芥川、内容は堀辰雄じみた心理劇、そして舞台は白秋の「水に浮いた灰色の棺」のような退廃し死にゆく町。何とも贅沢な話ではある。
「こんな死んだ町、わたくし大嫌いだわ」
「わたくしたちも死んでいるのよ。小さな町に縛られて、何処へ行く気力もなくなって」
「(この町の人々は)本質的に退廃しているのです」
「この町は次第に滅びつつあるんですよ。ただ時間を使い果たしていくだけです」
こうした耳に残る印象的なフレーズはいくつも散りばめられている。ところが、いくら小説を読んでも、「退廃」のカケラも感じられないのだ。それが感じられるのは白秋のエピグラフくらいなもの。いかんせん深みやリアリティがなく、何だか人形劇でも見ている気になってくる。
また、恋愛心理の劇にしても、例えば男が愛しているのが姉妹のいずれであろうが、女房と別居して別の女と平気で暮らすような男の「純愛」に、果たしてどんな有難味があるのか、大いに疑問なのである。
読後に残るのは、何やら美しいタッチの文体と、空疎で説明過剰な恋愛模様。今風に言えば、ライトノベルを読まされた感じと言った方がいいかもしれない。その意味では、芥川の話を持ち出すなど、お門違いもいいところだったか。
福永の小説は「草の花」を読んだことがあるのだが、内容をからきし覚えていない。その原因は、やはり雰囲気だけで、リアルさがないからではないか。
2 映画化作品について
ずいぶん前に本作を断続的に見て、小生はこれを傑作だと信じ込んでしまった。
たまたまTVで放送されたのを機に見直してみたところ、その思い込みは半分は当たりだが、残り半分は大外れだとわかった。
大林監督はまた、例によって歯の浮くような少女趣味の謝辞を、わざわざ現代詩風の改行まで施しながら柳川市に捧げているのだが、本作に限ってはそれを非難する気になれない。何故なら、本作の主人公は柳川のウットリ魅了させられる景色だからだ。或いは見るべきものがほかにない、といったほうが正しいかもしれない。
縦横に張り巡らされた掘割と、そこを取り囲む豊かな木立、緑の水草をかきわけて進む小舟、薄暮の公園で強い風にあおられる植え込み、夜の大川に浮かぶ提灯を提げた無数の小舟…そのどれもが息をのむほど美しい。
この舞台で繰り広げられるのが上記の恋愛模様なのだが、やはり中身が空疎なので散漫な印象しか残らない。
小説では、姉妹に愛された男は姉を愛していると言い張りながら、心の中では妹を思い続けていて、その引き裂かれた心の苦しさに耐え切れず自殺してしまう。姉が身を引いたのは、その意味で正しい決断だったという設定だ。
映画ではここがちょっと変更され、男は本当に姉が好きなのに、愚かな姉はそれを信じ切れずに勝手に家を出ていくという設定になっているが…ま、リアリティが感じられないのは大差ないだろう。
出演者には言及しないほうが優しさというものか。ただ一人、峰岸徹だけは落ち着いて、いい演技をしていて救われる。大林監督のナレーションは、声はいいのだが、しょせんは棒読みの悲しさというところ。本職に頼めばよかったものを。