劇場公開日 1955年11月29日

「野菊の「墓」としなかったタイトル変更に拍手」野菊の如き君なりき(1955) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5野菊の「墓」としなかったタイトル変更に拍手

2022年12月7日
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伊藤左千夫の小説『野菊の墓』を名匠・木下惠介が映画化した作品。どうでもいいけど『野菊の墓』ってのはあんまりにも直球のネタバレタイトルなんじゃないかと思う。「野菊」が何を指すのかわかった瞬間にそれがどういう運命を辿るのかわかってしまう。だから『野菊の如き君なりき』という、物語の主題は明確に表しつつもネタバレとは慎重に距離を取ったタイトルに変更した本作は偉い。

映画は小舟に乗った笠智衆の回想から始まる。そして記憶は流れる川のように滔々と、不可逆に進行していく。円形に真ん中をくりぬいた紙をカメラに貼り付けてるだけなんじゃないの?というくらい主張の強い白ビネットが回想の回想性をことさら強め、強固で狭隘な社会的因習に阻害される政夫と民子の悲恋を痛切に描き出す。ときおり笠智衆の声でその都度の感情を謳い上げた短歌が吟じられ、それが流麗な筆文字で画面に表示されるのも作品のメロドラマ性をさらに強めていた。

短歌という形で感情を外部化し、努めて平静を装っていた政夫だったが、流産による民子の死を知ると真っ暗な部屋で慟哭する。「私が殺しちまったようなもんだ」と懺悔する母に対しての「いつ死んだんだい?」という政夫の不慣れに上ずった叫び声が切ない。温和で心優しい彼を一体誰がここまで追い詰めてしまったのか?問いかけの視線を投げかけても、家の人々は互いに責任を押し付け合うばかりだ。ただ一人、婆さんだけを除いて。

婆さんは自分の結婚には後悔がないと、また民子が裕福な隣家へ嫁いでいくことそれ自体は嬉しいことだとしたうえで、民子本人の気持ちに思いを巡らせる。本当にこれが民子の選択なのか?私たちはこのまま民子を行かせてしまっていいのか?しかし彼女の倫理的問題提起は、保守性の穏便な継続を是とするムラ社会の因習にあえなく呑み込まれてしまう。被害者はいつだってか弱い若者と老人なのだ。

概して良質な作品だったが、木下作品にしてはモチーフの運用が少々大雑把な気もした。死んだ民子が今際の際まで政夫の手紙と竜胆(生前、彼女は政夫のことを「竜胆に似ている」と形容していた)を抱えていたなんてのはちょっとやりすぎだ。原作における「ラスサビ」の部分だから削ろうにも削れなかったというのはあるんだろうけど、クドすぎる。だったら長い回想が終わって現在の政夫が久方ぶりに民子の墓を訪れるあのラストシーンで、墓の横に偶然竜胆が咲いているのを発見する、みたいな描き方でよかったと思う。

因果