「CUREと回路の間にこれを撮ったとは」ニンゲン合格 映画を見たり見なかったりする人さんの映画レビュー(感想・評価)
CUREと回路の間にこれを撮ったとは
最近の底辺生活を舞台にした邦画のような映し方(曇りがちの空、郊外の風景)をしているのだけど、1999年でそのような流行りの前だからなのか映画のストーリーにはそのような雰囲気は無い。
産廃の不法投棄、釣り堀等の舞台設定は今ならば「そこから這い上がれない人間が足掻く」的な映画なのかと思わせるけど(特に釣り堀は「ヒミズ」「ブリング・ミー・ホーム 尋ね人」)、それも無かった。
そしてホラーサスペンスの「CURE」の後にこれを撮って、この後に心霊アポカリプスホラーの「回路」を撮っているのに、この映画にはそういう要素は全くない。
なのに、主人公の覚醒から死、そして死んでやっと叶った望み(一家がもう一度集まる)の描き方は、非常に味わいがあって、そこが黒沢清監督っぽいなあ。
(追記)
最後の葉書が何を意味するのか。洞口演じるミキは、以前ニューヨークに行くと言っていた。そしてライブ。花束を渡すファン(彼は暴走する緑のトラックにびびってコケた人でもある)は、彼女の歌声が聞けるのがこれが最後であることを示している。
帽子を渡された西島はこの後帽子を返しに楽屋に行くのだろうけど(ああいう場で渡されたものは楽屋へのお誘い)、そこでニューヨーク行きを改めて聞き、そしてエンジン付キックボードを譲り受けたのだろう。母親の所に行くシーンで何の説明も無く乗っているのだが、見ている者にはこれが最後の葉書で繋がるわけだ。
そして西島が夢見た、自分が事故に会う前の一家団欒をもう一度実現すること。彼は頑張るのだが、結局一家は彼が昏睡中に陥った状況に戻る。それは彼の努力を、彼の死をもってしても変えられなかった。影響が与えられられないものは「存在している」と言えるのか?それが彼の言葉の意味。
しかし、彼が関わった人間で、洞口だけは新しい環境に旅立って行った。彼が目覚めたことで、世界に何か変化があったとしたら、洞口のニューヨーク行きこそがその証明だった。
彼は死ぬ時までその実感を得ることができなかったけど、製作者と観客は、彼の目覚めにちゃんと意味があったことを知っているのだ。