「断絶」日本の悲劇(1953) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
断絶
復興への野心に燃えながらもまだ戦禍の残滓が残っていた頃の日本。叔父の闇市稼業を官憲にチクった歌子が無罪放免となった叔父から返り討ちを食らうシーンが示す通り、そこには道理や道徳がおよそ入り込む隙が無いほどの混沌があった。そうした残酷な戦後リアリズムの中に産み落とされた歌子と清一が母・春子の思いも虚しく情け無用の冷徹な性格に育ってしまったという「悲劇」は、もはや親子間のコミュニケーションという個人的領域では如何ともしがたい歪んだ重力が当時の日本社会に瀰漫していたことの証左だ。
世の中には清貧という概念があるが、私はこれを信用しない。倫理や愛や道徳もまたある種の嗜好品ではないかと思う。アブラハム宗教的な無底的信仰がもはや無効となった現代においてはなおさらそうだ。日本にアブラハム宗教はほとんど浸透していなかったが、代わりに天皇がいた。戦前の日本人は天皇崇拝を通じて自分の利益を度外視した他者との向き合い方を心得ていた。したがって「お母さんは馬鹿だ」と言い捨てる清一と「お母さんと呼んでくれてありがとう」と涙をこぼす春子の対比には、戦前世代と戦後世代の不可視だが根深い断絶が表れているといえる。あるいは全体主義と資本主義の、「東側」と「西側」の断絶と形容してもいいかもしれない。何でもいい、とにかく日本は変わってしまったのだ。
2人の子供に見捨てられ、湯河原駅で上り電車に飛び込んだ春子。彼女の死を悼む者が、歌子と清一からすれば「馬鹿」に分類されるであろう板前と流しの若者たちだけだったというのが物語の悲劇性をことさら強めている。
木下惠介の野心的作風は本作をもっていよいよ爛漫の開花をみたといって差し支えない。本作に続く『女の園』『二十四の瞳』は木下作品の中でもとりわけ傑作との呼び声が高い。現実の写真や新聞記事をモンタージュしたドキュメンタリー的な手法もさることながら、カメラの回し方や構図も見事なものだ。特に春子と清一が戦死した父の墓前で言い合いになるシーンは印象的だ。墓の陰から遠巻きに二人の動向を映していたカメラは、立ち去っていく清一をドリーで追いかけ、やがて見失い、それから意気消沈の春子とともに再び最初の位置へと戻ってくる。技巧の顕示に走った感じがなく、なおかつ最大の演出効果を発揮した秀逸な長回しだった。