楢山節考のレビュー・感想・評価
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集落、貧しさ、生きる、ヌメリとしたイヤラシさ。 汚らしさと自己保身...
集落、貧しさ、生きる、ヌメリとしたイヤラシさ。
汚らしさと自己保身の為の集団の団結と規則。楢山節考において今村昌平が描きたかったのは何か。今村昌平は人の醜悪な部分をこれでもかと接写する。そのスタイルは変わらない。
生き物の根源である性と死、その為であるなら誰かを叩き落とすこともいとわない。イヤラシさとズルさ。
そう、人はあくまで生物の延長線上であるから、生まれてきたからには競争し、つがいを選び、セックスをして子孫を残し、子を育て死んでいく。生物において老いと死は恐怖でしかない
この集落において、老いと死は諦観的に描かれ、当たり前のようにそこに佇み、山へと還っていく。
この映画で一番恐ろしいところは、盗みを働いた一家が、集団で襲われ、すべてのもの身ぐるみ取られたあげく、それを、当然のように村人たちでわけるところだ。
しかもそれだけで飽き足らず、すべての盗人の血を粛清しようと、生きたまま捕らえられ、山に埋められる。昔の田舎の集落ではこんなことが当たり前のようにまかり通っていたのだろうか。
父に枷をはめられ母に解かれる
年老いた母親を山に捨てにいく。観る前はそれしか知らなかった。それだけで2時間、何を描くのだろうと思っていた。
蓋を開けてみると、母を捨てにいくというのは、クライマックスだとしても、大きな物語の中の一つの出来事でしかなかった。
まず印象的なのは、性行為のシーンが多いことだろう。人間以外の生き物も含めて。
性行為とは子孫を残す行為だ。子どもをつくり育て、次世代を担わせる。人の(その他の生き物も)生を紡いでいくために必要なのだ。
人が集まり村になる。個人ではなく村単位での継続を考えたとき、作中で起こる様々なことは残虐でむごたらしいことだとしても必要なことなのである。
それはもちろん、母を山に捨てにいくことも含まれる。
例えば、多く生まれすぎた子どもを殺してしまったり捨ててしまうことは世界中で行われたことだろうが、狩猟系の集団と農耕系の集団での差が本作には出ていた気がした。
狩猟系の集団は農耕系に比べて仕事中に死亡する確率が高かったろうし、老いたら狩り場の移動などの過酷な状況に耐えられず勝手に死んだだろう。
それに、頭数が多いほうが狩りの成功率が上がるので、子どもは多いほうがいい。
逆に農耕系の集団の場合はある程度安定した生活が出来るものの村の生産量が決まっており、人口が増えすぎることを許容できない。
死なない人、多すぎる子ども、それらをどうにかしなければ村を継続できないのだ。
優しすぎる主人公辰平は、同じく優しすぎた父親に枷をはめられ、優しく生きることを許されなかった。村に残り生きるために。
最後まで葛藤の中、様々なことに耐えながら家長としての務めを果たそうと努力する姿は切ない。
一方で母おりんは個よりも村を尊重し行動する。
しかしそれは残される家族を守る行為でもある。自分の子孫が残ることが自分が残ることよりも重要なのだ。
新しい嫁に魚の穴場を教え、着ていた服を受け継がせることもそうだ。継続していくことが何よりも大事だと考えた。
エンディング、母の持ち物がいたるところで使われている状況をみて辰平は何を思っただろうか。母の気持ちを理解しただろうか。
自分の持てるものを継承させ、自ら大人しく捨てられる母は、優しすぎる主人公辰平の母親らしく、やはり優しすぎる人だったのではないかと思うのだ。
とてもエネルギッシュで娯楽性も高い傑作なんじゃないか。カンヌが好みそうな芸術性もある。
今まで何で観なかったんだろう。
帝国農村はズーフィ○○?!カソリック信者は理解不能。この国は更にペドが加わる。自虐的亡国論だけどね。
我が母と封切りで見た。
1983年の時だから、母は52歳だった事になる。さて、母はどうこの映画を見ただろうか?
少なくとも、女性が見て面白い映画とは思えない。感想など聞かなかったが、
『自分の田舎(茨城県)にはこんな風習はなかったよ。長野ってひどい所だね』と言っていた。
今回、40年ぶりの二度目の鑑賞たが、母親に見せるような映画ではないと反省した。
その
反省点はいくつもあるが、その根本的な間違いは、この演出家が、弱肉強食の食物連鎖をはき違えている事と、女性の人格を全く無視いている事だ。つまり、日本の古くからの風習なんかどうでも良いが、伝承されて来たこの方法では、口減らしは不可能だと言う事。
先ずは、
この映画も触れていたが、第二子以降は間引いていたはずだ。間引けなければ、男児ならば、去勢するだろう。勿論、女児は売られる。
では、こうならないためには、隣村を攻めるか、穀物の品種改良だろう。若しくは『瀬降り物語』のサンカの様に移住しただろう。それが現実であって貰いたい。
こんな映画見せて、我が母には申し訳なかったと思っている。
しかし、この映画は人間社会維持を目的にしているので、まだ、許せる。
『PLAN75』は国の維持がテーマだった。国の維持の為には、老人には死んでもらいましょうでしょ。怖くありませんか?
少なくとも、こう言った問題はきちんとリサーチして作って貰いたい。フランス人に見せる様な映画じゃない。誤解を受ける。
帝国農村はソド○○○?!カソリック信者には理解出来ないぞ。更にこの国の貧困農村は(自虐的亡国論だが)ズーフィ○○にペド○○○、そして近○○姦が加わる。薄気味悪いが、そう言いたいのか?
正に日本の恥の様な映画じゃ!
【”おっかあ、山へ逝く日に雪が降って良かったのう・・”故、深沢七郎の衝撃作を見事に映像化した作品。所得が増えずとも、高年齢化が進む将来の日本を見据えたかのような作品でもある。】
ー 70歳になった親を、楢山様に”捨てに行く”事で、若き命を保つ村が舞台。
村に住む人々の生と、性と、死をリアリスティックに描き出している。
故、深沢七郎の原作も凄かったが、それを映像化した、今村昌平監督も凄いと思った作品である。-
◆感想
・今作は前半は、寒村に住む村人たちの、性と生を中心に描かれる。
ー 少ない、食料を粥状にして、ガツガツと食べる若き人たち。一方で、綿密に食い扶持を計算するおりん婆さんの姿。-
・おりん婆さんは、頑丈な自分の身体を恥じ、自ら石に前歯を打ち付け、歯を叩き割る。
ー これは、原作でも衝撃的なシーンであるが、今作でのおりん婆さんを演じた故、坂本スミ子さんの血だらけの口で皆の前に現れるシーンは驚愕である。-
・皆の食料を盗み、隠し持っていた家族が、村人たちにより、生き埋めになるシーン。
■今作の真価は、おりん婆さんを楢山様に捨てに行く息子(緒方拳)が、険しい山道を母を背負って行く姿であろう。
<初見時には、故、深沢七郎さんの独特のキャラクターを嵐山光三郎さんの「桃仙人」や、深沢さんの個性的なエッセーを読んでいたため、成程なあ、と思っていた。
が、私もおりん婆さんの息子と近しい年齢になり、今作を鑑賞すると、イロイロと考えてしまった作品である。>
自然の中で逞しく生きる人間の本質
が、ありとあらゆるところでむき出しになっており、残酷かつ滑稽に描かれている。
長野県の駅名で「姨捨(おばすて)」という駅があり、前からずっと気になっていたが、ようやく見ることができた。
自分たちが生き抜き、若い世代につなぐために口減らしをするのが、当時のこの地域での当たり前のしきたりだったのだろうが、それにしても切ない内容である。
見ごたえがある
容赦のない現実対、その全てを呑み下して我が身の結末を雄々しくたぐりよせるおりんの気迫との渡り合い、それを自然ぐるみ重厚に描き出す撮影、坂本スミ子の好演、すべて見ごたえがある。
主題は言うまでもなく姥捨てで、その最終場面へ向けてすべてが収束していくが、白眉たる真の見どころはアマヤ家族が楢山さまに謝らされる段だ。この恐ろしさのためにDVDを購入した。
最終場面も胸に焼き付く。おりんを山に置いて辰平が戻ってみると、息子ケサやんの新しい嫁がおりんの綿入れをさっそく身に着けている。見ると、心からおりんに添いおりんのお山行きを嘆いた妻のタマやんの腰にも、やっぱりおりんの帯が巻きついている。主題に溺れず見せるところは最後の最後まできっちり見せてくれる。
中で唯一父利平の亡霊の出現だけが目障りだ。これだけの名画をぶち壊しにしてしまいかねない子供だましのオカルト的挿話に首を傾げる。
原作にもなかったはずだ。よく覚えていないが、仮にあったとしても文学とはほど遠いこんな幼稚なアレンジではなかっただろう。
善良いっぽうに描かれている辰平にも闇の部分があったということならそれはそれでいいし、その闇もおりんが一身に引き受けてお山へもっていく、それもさらにいい。また心に闇ある人間だからこそ、習わしとはいえ母親を捨てることの唐突感も和らぐ。しかも村の掟である姥捨てを敢行できなかった利平の“軟弱さ”への反感からとなれば、母捨て行為はもちろん父親殺しさえもが正当化される。すべてがよくてきている。ただそれを安直なオカルトでまとめてしまったのだけが残念だ。
あるいは副旋律補強の意図からか? だがその点なら、あんな通俗漫画を付け足すまでもなく不足なく作られている。アマヤの1件がそうだし、無しでは済まない性問題の見事な処理、そして唸ってしまうのが、瀕死の床についていた清川虹子バアサンを白萩様(白いごはん)1杯でけろり快癒させて明るさを灯してみせる味付け(原作にあっただろうか?)。これ以上何も必要ないほど盛りだくさんだ。
本当にあのオカルト漫画部分だけがわからない。
山中でおりんを一瞬消してみせる幻覚シーンもある。あんな意味不明なものを入れたのも、つまらないオカルトを組み込んでしまったがゆえのつじつま合わせにすぎないと見る。辰平の願望を描いて見せたとするには幼稚安直すぎる。
作品の名誉のためにそっと忘れるべき謎というしかないか。
人間讃歌!生命讃歌!はウソ
昔の日本の田舎はこんなにも汚らしくて残酷でしたよと監督のグロ趣味を爆発させた作品。80年代にブームだった洋画スプラッタームービーなんかより、現実の日本の田舎の方がもっとショッキングだよ!と世間に投げかけたかっただけ。
鮮烈なエロスとタナトス
数年前に鑑賞。
怖いなー、と思うシーンもあるのだが、前近代的な世界を活写していると思います。
緒形拳が良いのはもちろん、私はあき竹城さんをバラエティでしか知らなかったので、新鮮でした。
今村昌平監督作品は他に、同じく緒形拳主演の、アジアを拠点に女衒業で一儲けした男の一代記(タイトルは確か、まんま「女衒」)と、監督自身が出演している、戦後のアジア各地を歩いて元慰安婦の女性たちを訪ねていくドキュメンタリーを観たかな。でも、後者はチラ見程度。
夜、そこらへんで絡まり合ってる蛇のヌタヌタとしたきらめきと、終盤の残酷な静けさが特に印象に残っています。
追悼・坂本スミ子さん
追悼・坂本スミ子さん、先月1月23日に逝去された、歌手が本業だった彼女の映画代表作です。
本作は1983年のカンヌ映画祭で、本命だった『戦場のメリー・クリスマス』を覆してパルムドールを受賞した作品であり、従い現地にも坂本スミ子と日下部五朗プロデューサーのみしか赴かず、予期せぬ高評価に、東映京都撮影所の名プロデューサーとして名を馳せた日下部氏自身が大いに戸惑ったようです。
また2月7日は、その日下部氏の一周忌でもあります。
改めて、お二人のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。
本作は、各地に伝わる姥捨て伝説を取り上げた深沢七郎原作の短編小説の映画化であり、嘗て木下恵介監督も映画化しています。舞台は江戸時代と思しき信州山深い貧しい寒村。その村人は、食い扶持を減らすため70歳になった冬には息子に背負われ楢山に捨てられるという因習があった。これに従い楢山行きを間近に控えた老母と、複雑な思いで彼女を見つめつつ、その日に向け一日一日を過ごす息子との葛藤を、貧しい村の猥雑で凄惨な生き様を交え、今村監督独特の生気、生きる活力と精力が漲るタッチで描かれた名作です。
今からそう遠くない時代、日本の数多の人々は、生と死のギリギリの境目を、日々必死になって摂食し只管生き切っていく苛酷で壮絶な生活環境に晒されていました。私が愛する時代劇の、風格ある美しき情景と心奥に沁み入る情感に満ちた世界の、同時代の直ぐ裏面には斯様な苛烈な世界が広がっていたのです。本作は、生と死の狭間を歩む人間像を描くという点では、「いただきます」とは「あなたの命をいただきます」が原意であることを想起させ、生きていくということの劇烈さと、それ故の崇高さを高らかに謳い上げる人間讃歌といえるでしょう。
虚飾を全て剥ぎ取った人の本源は、生と死、その生の源となる性、そして死に向かう老、重く暗くなりがちなテーマを、今村監督は、時に軽妙に、時に深刻に、しかし決して憐憫や侮蔑の視点ではなく、極めてエネルギッシュでバイオレントで、そしてエロティックなな人間性を抉り出して描き切ったと思います。
これを演じた緒形拳の懐深く、終始緊迫感に溢れた演技は流石ですが、彼以上にこの映画を引き立たせるのは、実は緒形拳より一歳年上なだけの坂本スミ子演じる“おりん”の神々しくも異様な存在感です。その聖母ともいえる透徹した諦観と悟性、最早、「老い」そして「死」からも解脱した生き様を、役と一体化して見事に体現していたと思います。
沈鬱で暗澹たる枠組みの話であり、山奥の寒村ばかりの地味で非常に狭域を舞台にした淡白な映像構成ですが、映画自体に悲惨さや陰鬱さを感じさせることはなく、今村監督らしい可笑しくて哀しい人間像が軽快に鏤められており、終始人間存在の根源を考えさせつつも素朴に愉しめる傑作です。
『仁義なき戦い』『柳生一族の陰謀』『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たち』『藏』等々、数多のヒット作を制作してきた日下部五朗氏にとっても、異次元の代表作といえるでしょう。
木下恵介のほうがいい
木下作品と違ってセックス描写がリアル。シーンのつなぎ目に小動物のカットを織り込んで、人間の生と性を対比させている。
けさ吉も嫁をもらうとはりきって、あまやの娘松と子供を作る。しかし芋の盗難事件が発覚して松までもが一家の罪人と一緒に埋められてしまう。この残酷でもあるシーンもリアルだ。あき竹城がでっかいおっぱいをブランブランさせているシーンとか倍賞美津子に女を教えてもらう左トン平が熱演(?)だ。
リアルさと生と死の対比を上手く表現している点では木下版よりも凄いのだが、ラストのシークエンスの面白さではかなわない。
生と性を貪り、死を受け入れ、輪廻する。重厚かつトラウマな凄い作品ですw
子供の頃に「カンヌ国際映画祭 パルム・ドール受賞!」を高らかに宣伝していて、年老いた母親を姥捨山に連れていくと言う大まかなストーリーは頭の中に入ってましたが、後に作品を観た時は姥捨山に連れていくと言う本筋以外のエピソードがあまりにもショッキングで"こりゃあ、結構なトラウマだわ"と思って、幾数十年。
未だにいろんな意味で印象的な作品ですが、池袋の「新文芸坐」で今村昌平監督作品の特集上映をされると聞き、劇場では未観賞なので、この機会にと足を運びました。
コロナ影響下の御時世に何処も動員に苦戦しているにも関わらず、場内はソーシャルディスタンスを守りつつも超満員でした。
で、感想はと言うと、改めて凄い作品だなぁと。
ストーリーもそうだけど、出演している役者陣が凄すぎて、今ではここまでの製作は多分出来ないでしょうね。
緒形拳さん、坂本スミ子さん、左とん平さん、あき竹城さん、倍賞美津子さん、清川虹子さんと当時の日本を代表する錚々たる俳優陣がもうどっしりとストーリーに重厚感を与えていて、それでいて何処かシニカルで滑稽。
閉鎖した中に達観した感じを醸し出しています。
また、様々な生物の交尾や捕食などの食物連鎖の描写が上手く表現されていて、生々しくも自然の成り立ちを描かれています。
この辺りの描写が説明だけではクドくなりがちな人間賛歌を巧みに描写していて、素直に自然の厳しさを醸し出している。
蛇の捕食や家の中や周りに蛇がいると言うのは個人的にはちょっと鳥肌モノですがw
山中の寒村を舞台に「齢70を迎えた老人は『楢山参り』に出なければならない」と言う掟に従う、坂本スミ子さん演じるおりんと緒形拳さん演じる息子の辰平の「楢山参り」= 姥捨山がメインストーリーですが、ラストに至るまでの様々なサブストーリーの織り成し方が秀逸なんですよね。
「結婚し、子孫を残せるのは長男だけである」
「他家から食料を盗むのは重罪である」
「齢70を迎えた老人は『楢山参り』に出なければならない」
この3つの村の掟は絶対で厳しい寒村で生き抜く為に守らなければいけないにしても、かなりキツい。
女の子が産まれると売る事も出来るが、男は長男以外は下男とされ、蔑まされる存在。
左とん平さん演じる利助は「くされ」と呼ばれ、その中でも更に蔑まされている。
人並みの待遇は与えられず、悶々とした中で性欲だけは人並み以上で「獣姦」を繰り返し、トラブルの原因となり、後家さんにも"それだけは勘弁してくれ"と断られ、しょんぼりした所をおりんが知り合いでおかねに頼んで筆下ろしをさせてもらう。
もう、赤裸々過ぎて、滑稽を通り越して微笑ましく感じる。
今ではいろんな人権問題で放送は出来ないかと思います様々な作品に出演されている名バイブレーヤー、左とん平さんの真骨頂ではないでしょうか。
また、「他家から食料を盗むのは重罪」と言う掟は物が溢れた現代においてはかなり異質に映ります。
命は食料よりも軽く扱われ、一度目の盗みは制裁を受けるが、家族の者が再度盗みを働くと「泥棒の血統」として一族根絶やしとされ、生き埋めにされる。
食料事情が切迫する中での非情な制裁に見えますが、それ程の状況下と言う事と、その行為を当たり前の様に描いています。
いろんなエピソードが交差していく中、粛々とおりんの楢山参りの日が近付き、その日を決め、楢山参りの当日の描写は凛々と進んでいきます。
誰にも見られてはいけないという掟の下、辰平は背板に母を背負って「楢山参り」へ出発。
会話をする事を禁じ、途中、白骨遺体やそれを啄ばむカラスの多さがどういう場所かを静かに表している。
辰平がおりんを山に置いて帰る途中、舞い降ってくる雪に感動し、その事を告げる描写は切ない。
自身の母親を置き去りにしなければならないと言うのは、悲しくて切なくて、心がキリキリします。
また会話が無い事で余計に胸に響きます。
帰りの途中で隣の銭屋の倅が背板から無理矢理に70歳の父親を谷へ突き落としていたのは無情に思えるがそうする事が掟であり、そうしなければならない。でもその描写がおりんとの別れの対比になっているんですよね。
家に帰ると新しい生命の誕生を瞬時する描写に命は輪廻すると言う事を感じさせる。いろんな意味で人間賛歌です。
この作品の正式な続編ではありませんが、今村昌平監督の長男の天願大介監督の「デンデラ」と言う楢山節考の続編みたいな作品がありますが、こちらはハードな作風に見えて結構なパロディw
でも、主演が浅丘ルリ子さんで、倍賞美津子さん、白川和子さん、草笛光子さんとベテラン女優陣を陣容しているだけに余計にタチが悪いw
個人的には「楢山節考」と違った意味でなかなか語れる作品なので興味があったら、如何でしょうか?
デンデラ~!w
当時のポスターに「人間の大らかな"生と性"を謳う。今村節=笑い・感動・愛・衝撃」と書かれてましたが、ある程度の人生の酸いも甘いもを経験するとこの謳い文句が解るんですよね。
劇中のシニカルな笑いなんて、若い頃には分かんないですよ、アンタw
物凄く重厚な作品でズッシリと重たく、見応えがあります。好き嫌いの好みは分かれる作品ですが、映画好きなら、1度は観とくべき作品の1つかと。
生きると言う事を貪欲に赤裸々に愚直に描いていて、過去にこういう事があったと教科書で見ただけでは分からない歴史の重さを教えてくれます。
…まぁ、予備知識も無く観賞するとちょっとトラウマになりますがw
機会があれば如何でしょうか?な作品です。
木下恵介版と今村昌平版の違いは一体何なのでしょうか?
楢山節考の原作は1957年の刊行
二度映画化されており、1983年公開の本作は二度目の作品です
最初のものは1958年公開の木下恵介版で大女優田中絹代が主演です
ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に出品されました
受賞はならなかったものの、あのフランソワ・トリュフォーが激賞しています
キネマ旬報の日本映画のオールタイムベストにリストされているのはこちらの方です
では本作はどうか?
日本映画オールタイムベストにはランクインしていません
ところがカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞しています
つまり国内より海外での評価が高い作品ということです
何故そうなのでしょうか?
木下恵介版と今村昌平版の違いは一体何なのでしょうか?
それは本作がいわば木下恵介版の実写版という趣があるところかと思います
木下恵介版ももちろん実写です
しかし、ラストシーンを除き全てスタジオセットで撮影しているのです
その上、歌舞伎の舞台劇であるような演出、長唄や浄瑠璃のような劇伴の音楽を使用して、この世界が劇であることを最初から最後まで主張している作品です
それに対して本作はほぼオールロケ
リアリズムを追求して、劇ではなく現実の物語であるという方針で製作されているのです
劇伴の音楽は極力排されてここぞという場面のみです
そしてその音楽は現代的な普通の映画としてのものです
それが実写版と感じる意味です
性行為のシーンが木下恵介版は全くなく、本作には多用されています
人間だけでなく蛇、蛙、カマキリなどの生き物達のそれも何度も写されます
それは本作のリアルさの追求という方針に基づくものでしょう
人間も生き物も変わりはない
自然の中で生きており、つがい子を産み、そして死んでいく存在なのです
だから生き物達のそのシーンが数多く登場し、人間の物語と相対的に変わらないのだと繰り返し主張するのです
木下恵介版は、過酷な物語を歌舞伎的な演出によってこの神話的な物語を芸術として昇華する事を目指したのです
そして本作はリアリズム的な表現による、神話を地上の物語として表現した具体的な映画だということだと思います
この差が、日本国内での評価の差と、海外での評価の差の逆転現象をもたらしているのではないでしょうか?
芸術としての感動は圧倒的に木下恵介版の方が上です
幽玄的なクライマックスの感動は身動きできない程のものをもたらしています
それは現代のロケシーンををラストに挿入しなければ席を立てないまでのものです
本作にはそこまでの感動はありません
実写版ならこういう光景になるのかという感覚で観てしまうのです
しかしだからと言って駄目な作品では決してありません
圧倒的な傑作なのは間違いの無いことです
木下恵介版が飛び抜けた名作過ぎると言うことなのかも知れません
是非、木下恵介版もご覧頂きたいと思います
木下恵介版の田中絹代は51歳の時の出演で前歯を実際に抜いてまでの女優魂をぶつけています
一方、本作での坂本スミ子も負けてはいません
坂本スミ子は本作撮影時47歳です
22歳も上の老け役を、前歯を極限まで削ってまでの熱演でした
田中絹代のおりんは神々しくまさに神話的存在でした
一方、おりんの土俗的な強さの表現は坂本スミ子の方が上だったようには思います
それこそが木下恵介版と今村昌平版の違いであると思います
性=生→死、そしてまた生
信州の山深い、楢山という山を信仰の対象にしている寒村。
時代は定かではないが、明治期のように思われる。
その小さな村にある「根っこ」という呼ばれる一家。
七十を迎えようとする婆おりん(坂本スミ子)、45歳になる辰平(緒形拳)、辰平の弟で奴(家を持たない二男以下のこと)の利助(左とん平)、それに辰平の三人の子供の一家があった。
村の掟では、七十を迎えた老人は、寒村の命を繋ぐため「お山参り」と称して、山に棄てられる運命にあるのだが・・・
という話だが、姥捨ての話は後半になってから、前半は素寒貧の寒村の様子を丹念に描いていきます。
食うものは芋程度。
一家の二男以下は単なる労働力で、嫁を娶ることはできず、常に悶々としている。
娘ならば、大きくなったら売って金に換えたいところだし、嫁は嫁で、これもまた労働力、かつ、今後の労働力になる(もしくは金になる)子どもを産むことが期待されている。
まぁ、もうどうにもこうにも暗くて遣る瀬無いのだけれど、生きている限りは仕方ない・・・といわんばかりに、どこか突き抜けている。
前半の主人公は、ほとんど利助といっても構わない。
もしくは、村の中から嫁をとる、辰平の長子。
ふたりから見えるのは、生=性であり、遣る瀬無くまた滑稽だけれど、彼らの性的欲求を否定することはできない。
この前半で、がらりと色調を変えるのは、辰平の長子が娶った嫁の実家の皆殺しのシーンで、貴重な食料を盗んでいた一家を一族郎党、根絶やしにするために生き埋めにしてしまう。
このシーンは凄まじい。
が、イタリアンのリアリスモ映画でも、あったような印象を受け、どこか、もう、仕方がない・・・みたいな気にもさせられてしまう。
若い嫁の腹のなかには、胎児がいたにもかかわらず・・・
このエピソードが、性=生の前半から、生→死の後半へと繋ぐ役割を果たしている。
とはいえ、後半の姥捨ての道行のシーンはいささか冗漫な感じがしないでもないが、白骨累々のお山のシーンは衝撃的で、こりゃ、こんな光景をみるよりは、手前の谷で老いた親を蹴落としたくなるだろうねぇ。
なので、念仏を唱えながら成仏するおりんの姿は神々しいものの現実離れしているようにも思えましたが、こうでもしないと、映画的には決着がつかないのでしょうね。
初公開当時は観る気の起きなかった映画でしたが、歳を経て観て、観てよかったと思える作品でした。
世界が認めた長野の姥捨山伝説の映画化
長野県の姥捨山伝説の原作小説を基に今村昌平監督が標高1000Mの廃村で三年の歳月をかけて撮影した大作で、1982年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した作品である。舞台の農村では厳しい自然環境と食糧事情を背景に、村の掟による極度の人口統制がとられていて、老人は70歳になるとお山に捨てられ、次男以下の男子には婚姻はおろか性交すらも許されていない。人々は信仰と慣習と掟の中にだけ生き、ひたすら食べ、ひたすら交じり合う。そして時に食糧盗難の制裁の下に、或る家族の根絶やしの為に、村民の男衆皆で生き埋め殺人までもする。しかしそんな中でも、村民達は明るくどこか滑稽で、それを見つめる監督の眼差しは温かい。この作品は人間讃歌であり、生命讃歌である。思えば極端化されてはいるが、明治維新前の日本中の農村は多かれ少なかれ、この村のような環境下にあったのだろう。いわば日本の農村の典型で、我々のルーツである。現代の我々日本人の飽食と繁栄と自由の謳歌とはまるで異なる。しかし男女の愛情と親子の心情は今も昔も少しも変わらない。俳優陣の名演もあって、人類の普遍性の描写に極めて成功している。日本の長野県の伝説を映画化した作品を、外国人が理解し評価した点からも、それは伺えるのである。やはり傑作だと思った。
不安な現実感
映画をとおしてバタイユのエロティシズムがちらついた。
奇妙な異世界を覗いているようで、現実感を感じてしまうのが醍醐味。
笑い飛ばそうにも笑いきれないシリアスさに不安な共感を覚えた。
感想を一言でどうとは言い切れないが、映画として素晴らしいのは確か。
山間部の暮らしが上手く描かれている!!
山間部の暮らしが上手く描写されており、映画そのものに民俗学的な価値があると思います。山中でセックスするシーンは、傍で蛇も絡み合い何か気持ち良さそうですが、お母さんを捨てに行く時が刻々と迫る、という意味でセックスシーンが度々入るさまは緊張感を与えます。「命の循環」の描写は、2019年の「ミッドサマー」より、こちらが断然上だと思います。お母さんを背負ったまま山に入っていくシーンは、台詞も殆どなく静かで有無を言わせず心に残ります。タイトルだけご存知の方も、終盤のシーンを観るために是非ご覧になって頂きたい映画です。
ありえないしきたり
節々に出てくる様々な生物の生きる営み。それはまさしく楢山で暮らす人々と重ねているのだろう。自給自足に生き、本能のままに交わり、他の生きるものを食して生きていく。ただ楢山の人にはしきたりがある。それは現代では考えられない。愛するものを捨て、殺すということ。長生きすることは、子が生まれるということは、幸せなことではないのか。どうしたら全ての人が幸せに暮らしていけるのだろう。
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