楢山節考(1958)のレビュー・感想・評価
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姥捨て伝説 ――映画『楢山節考』(1958年)をめぐって――
最近、木下恵介監督による映画『楢山節考』(1958年版)を鑑賞しました。物語の筋は事前に知っていたため、本作における様式美には強い違和感を覚えました。映画というよりも舞台作品のようであり、まるで浄瑠璃を鑑賞しているかのような感覚に包まれました。
全編を通して長唄が流れ、照明効果や美術セットの切り替えは歌舞伎の早替えを思わせる演出でした。これは木下監督の作風であり、リアリズムとは対照的な表現手法として注目されますが、どうしても作り物の印象が拭えませんでした。物語の根底にある「姥捨て」という残酷な慣習を、あえて様式化することで観客との距離を取ろうとした意図があるのかもしれませんが、その距離感がかえって主題の切実さを弱めているようにも感じられました。
おりん役を演じた田中絹代さんは、当時まだ40代だったそうです。歯を抜くなどの熱演は話題となったようですが、70歳の老婆には見えず、演技への真摯な姿勢とは裏腹に、年齢設定との乖離が気になりました。俳優の身体と役柄との間に生じるズレは、観客の没入を妨げる要因にもなり得ると感じられます。
この年のキネマ旬報ベスト・テンでは第1位に選ばれたとのことですが、今となってはその評価をどう受け止めるべきか、少し考えさせられます。海外で高く評価されるのは何となく理解できる気もしますが、やはりあれだけのセットを組み上げた美術スタッフの力量には感嘆せざるを得ません。昔の監督たちは、今では考えられないほど贅沢な制作環境を持っていたのだと改めて感じました。
「姥捨て」という言葉には、単なる民間伝承を超えた倫理的な問いが含まれています。老いた者を共同体から切り離すという行為は、命の価値を年齢や生産性によって測るという考え方に通じます。映画では、村の掟として70歳を迎えた者が山へ赴くことが当然のように描かれていますが、その「当然さ」こそが倫理的な違和感を呼び起こします。
この慣習は、共同体の維持という名目のもとに個人の尊厳を犠牲にする制度的暴力とも言えるでしょう。家族の絆や個人の意思よりも、村の掟が優先される構造は、現代における制度と個人の関係にも通じるものがあります。たとえば、介護や医療の現場において、高齢者の意思が十分に尊重されていない場面があるとすれば、それもまた「見えない姥捨て」と言えるのではないでしょうか。
また、映画の中で姥捨てが「美しい犠牲」として描かれる場面には、倫理的な複雑さがあります。おりんが自らの死を受け入れ、家族のために山へ向かう姿は、自己犠牲の美徳として讃えられる一方で、その選択が本当に自由意志によるものなのかという疑問も残ります。制度の中で生きる人々が、制度に従うことを「美徳」として内面化してしまう構造は、現代社会にも見られる現象です。
高齢化が進む現代において、「姥捨て」は過去の風習ではなく、今もなお私たちの社会の根底に潜む問いかけであると感じます。老いをどう受け入れ、どのように共に生きるか――その答えは制度だけではなく、私たち一人ひとりの倫理観に委ねられているのではないでしょうか。
「姥捨て伝説」というタイトルには、過去の風習を伝説として語り継ぐだけでなく、今を生きる私たちがその意味を問い直すべきではないかという思いを込めました。老いとは何か、命の価値とは何か――映画を通じて突きつけられる問いは、時代を超えて私たちの心に響き続けるのです。
すごかった
伊集院光さんの本で山田太一が推薦していた。なので事前にセット撮影であることなどを踏まえて見る。すると、照明の切り替えが舞台のようでシャープでかっこいい。セットであるのに奥行きがあり、狭さを感じない。音楽が長唄みたいな三味線でずっとなり続けていて、ちょいちょいストーリーの解説になっているのだけど、集中していないとあまり聞き取れない。途中で全部聴くのは無理だと諦める。作り込みがすごい。
おばあちゃんが、歯が丈夫なことなのを年寄なのに恥ずかしいと言って臼で折る。一方近所のじいさんは山に行くのは嫌だと騒ぐ。主人公のおじさんは、結果的に人を殺めてしまうのだけど、それより自分の母親のことしか考えず、特に気にしない。
あんな骸骨だらけの山に自分の母が行くと思うとつらすぎる。てっきりモノクロ映画かと思っていたらカラーで美しい。
生きる事とはこういう事と思わせられる
・母親が最初から、来年には山にっていう話を朗らかに語る姿がとても苦しい。息子の辰平もずっと聞きたくない言葉を聞いて耐える姿がつらい。けれど、そうしなければ家族全員が飢え死にするという…生きる事ってこういう事なんだろうなと考えさせられる。そこにきて息子?の浅はかな感じがとても腹が立ってくる。後妻さんがとてもいい人なのが気持ちを救われる。
・全編セットを組んでの撮影っぽくて圧倒される。カラスも室内で放してったぽいし。遠景が描かれたパネルにぶつかっていたし。
・村で盗みを働いた一家を断絶させる感覚とかが恐ろしい。とはいえ、自分もそういう見方で人をみていなくはないので、わからなくもない。好きな人の友達が嫌な人だったら何となく嫌な人に見えてきたり、その逆もあったりと関係性で判断してしまっているという感覚の延長というか…。
・やっぱり、一番きついのはラストの姥捨てにいくシーン。幾人もの人達がここでっていうのを証明する散乱した骨がきつい。村の決まりを決まりに従って説明するシーンから重たい。道中、しゃべらないとか、母親はそれをしっかり守ってしゃべらない一方、息子は今生の別れ、といっても見殺しにしにいくようなものだからその罪悪感を薄めようと語り掛ける。その感じがつらい。最後の最後に今姨捨駅のカットが入り実際に日本であったことっていうのを強く感じさせられて、また考えさせられる。
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