「小津やるやん ByZ世代」東京物語 桃子さんの映画レビュー(感想・評価)
小津やるやん ByZ世代
小津安次郎の『東京物語』(1953)は、尾道に暮らす老夫婦が東京の子どもたちを訪ねるが、それぞれの生活に追われて相手にされない、という物語である。劇中、戦死した次男について「亡くなってから8年」と語られる場面があり、物語の時代設定は1953年頃と推測される。
1950年代の日本は、戦後復興が進み、第1次ベビーブームとともに東京の都市化が急速に発展した時期でもあった。本作は、そうした経済成長の波の中で崩壊しつつある大家族と、新たに台頭する核家族という家族形態の変化に直面する人々の姿を、多面的に描いている。
本作を観る中で、特に注目したのはカメラの画角とストーリー展開である。小津は、従来の映像表現のルールをあえて破る演出を取り入れており、例えばイマジナリーライン(180度ルール)を超えるカットが見られる。このような手法は、独自の映像スタイルを確立する一方で、観客にとっては空間認識が難しくなることもある。
個人的には、この映像表現にはあまり馴染めなかった。特に違和感を覚えたのは、ワンショット(ミドルショット)において障害物がほとんど配置されていない点である。肩越しのショットが少なく、主要人物の会話はほぼ単体ショットで表現される。さらに、二人ショットから単体ショットへのアクションやセリフの繋ぎがなく、画角もほとんどが真正面であるため、登場人物がカメラ越しに直接話しかけているように感じられた。結果として、観客である自分がセリフを言わされているような感覚になり、個人的には苦手なスタイルだった。
また、小津監督のこだわりである固定カメラも特徴的だった。現代の映画ではカメラが頻繁に動くことに慣れているため、動きのないカメラワークが不自然に感じられた。観測した限りでは、カメラが動いたのは上野公園で二人が扉の前の段差に座っているシーンのみだった。さらに、画角に関しても直線的な構図が多く、背景の家の間取りやドア、壁がほぼ垂直に配置されている。そのため、もう少し「斜め」からの画角があれば、より自然な映像になったのではないかと感じた。
編集についても気になる点があった。例えば、登場人物たちが団扇をはたいている場面では、アクションの繋ぎをスムーズに行うのが難しそうに見えた。しかし、それらを差し引いても、本作の物語は想像以上に面白かった。
小津監督については、『小早川家の秋』や『宗方姉妹』などのタイトルを知っている程度で、「家族」をテーマにした作品を多く手がける監督という印象があった。しかし、本作を実際に観てみると、単なるのんびりした郷愁作品ではなく、ストーリー展開が計算され、非常にバランスの取れた作品であることに驚かされた。全体的に緩急のテンポが心地よく、東京や尾道の雰囲気を存分に感じられると同時に、それらに飽きることなく観客の興味を引きつける展開がタイミングよく切り替わる。
例えば、老夫婦が半ば追い出されるように熱海旅行へ向かうシーンを振り返ると、
① 二人の会話
② 騒がしい旅館
③ 二人の会話
④ おばあさん倒れる
⑤ 二人の会話
⑥ 息子たちの薄情さを愚痴る飲み会&原節子の家で泣く
⑦ 二人の会話
⑧ 危篤
と、静と動のバランスが巧みに配置されている。このように、緩やかに見えて計算された展開が、観客を飽きさせない要因となっていた。
ストーリーとしては、藤子・F・不二雄の『オバケのQ太郎』最終回として語られることの多い「劇画Qちゃん」と似た哀愁や切なさを感じた。尾道からはるばる訪れた両親が半ば強制的に熱海へ追いやられる場面や、母親の危篤を知らされた次女が「喪服はどうする?」と長男と話す場面など、目を背けたくなるようなシーンがいくつもある。しかし、小津監督はそれらを激しい効果音や劇的な演出で煽ることなく、あくまで淡々と描く。そのため、京子が家族の冷たさに疑問を抱きつつも、他の登場人物たちは大家族の崩壊を粛々と受け入れる様子が、観客に対しても静かな強制力を持って迫ってくる。
本作は、単なる「古き良き家族の物語」ではなく、戦後日本の家族のあり方や価値観の変化を冷静に描いた作品である。その独特な映像手法や淡々としたストーリー展開には賛否が分かれるかもしれないが、映画表現の多様性を考える上で非常に興味深い作品だった。