「母の狂気がたまらないSF」田園に死す はるさんの映画レビュー(感想・評価)
母の狂気がたまらないSF
奇抜で幻想的な演出、コーラス、詩の余韻、そして八千草薫の妖艶さなど、見るたびに違った魅力を見せてくれる万華鏡のような作品だ。今回改めて鑑賞してみて、実験的なSF映画のような側面が強く印象に残った。
35歳の主人公が自分のフィルムの試写会から家に戻ると、作中で家出したはずの15歳の自分が立っている。また、過去の回想中にも、酒を買いに行こうとする15歳の自分と故郷の恐山で出会い、同行する。本作にはタイムマシンなどの過去と現在を行き来する装置が出てくるわけではないが、15歳の自分あるいは35歳の自分は時を行き来し、過去が現在に、または現在が過去に影響を与え合う。演出も相まって不思議な感覚だった。現実ではきっとありえないことの表現だからこそ、魅力的に思われた。また、35歳の自分が15歳の自分と将棋をさしながら呟いた「作り直しのきかない過去なんてどこにもないんだよ」というセリフが印象的だった。ふつう我々は、過去は不変ものだと思い込んでいる。石のように冷たく静かで、重く固いものだと思っている。しかし、寺山に言わせれば過去とはもっと柔らかく頼り甲斐のない、うつろいやすく儚いものなのかもしれない。
突然、ミュージシャンがカメラに向かって、画面の前の観客や視聴者に語りかけてくる。一方的に作品を見ていると思っていた観客は、ミュージシャンの説教に引き摺り込まれる。「書を捨てよ、街へ出よう」や「百年の孤独」などの寺山の他の映画にも使われる手法だ。こういったシーンは、わかっていてもドキリとするものだ。また、ミュージシャンのことばで「たかが人生」という表現があるのには驚いた。現代においてはやたらと「生命」やら「個々人」が尊重される。あまりにも重く考えられる「生命」に、私は飽き飽きしていたのかもしれない。かれの「たかが人生」という表現に、軽やかで飄々とした、爽やかなものを感じ取った。
また、本作では夫に死に別れ子に依存し、子離れできない母と、成長し母を捨てようとする息子が描かれている。寺山自身の母子関係の投影のように思われた。母は、「家族の時計は、家の1つの柱時計だけにするべきだ」と盲信する。1つの時間を共有することで、家族という共同体の結束を高めようとする母の努力は見ていて痛々しいほどだった。この作品では、主人公母子だけでなく父なし子であるために自身の子を「間引き」せざるをえない女など、さまざまな類型の「母」を見てとることができる。母の子に対する執着や狂気が鮮明に描かれている。