田園に死すのレビュー・感想・評価
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【アバンギャルド&エロティック&シニカルなるインパクト強大なる映画。今作は、寺山修司が自身の過去と精一杯向き合おうとする様を描いた映画なのである。】
ー 寺山修司氏が自身の故郷である青森に対し、複雑なる思い(愛憎)を持っていた事は、有名であるが今作はその思いを映像化した作品である。
今作では
1.過去の出来事は、虚構
2.記憶からの解放
が、テーマとして描かれている事は、明らかである。
■青森県の下北半島で母とふたり暮らしをする少年は、恐山の霊媒に会いにいき、死んだ父を口寄せしてもらうことが唯一の楽しみ。
ある日、村に不可思議なるサーカス団がやってきて、少年は団員からよその街の様子を聞く。
村を出たくなった少年は憧れの女性を誘うが、彼女は男と自死していた。
◆感想
・今作を難解と捉える向きも多いと思うが、寺山修司氏が抱いていた
1.過去の出来事は、虚構
2.記憶からの解放
という点を考えれば、分かり易い映画である。
・劇中、過去の人物達が白粉をしている事は、”過去の出来事は、虚構”として捉えれば、腑に落ちるし、
・劇中、出戻りの女に犯されるシーンも、彼の過去接して来た女性への、負のイメージを暗喩しているのである。
・ラストのインパクト大の現在の私と過去の母とが故郷で向かい合って飯を食べるシーンの青森の家からの壁が崩れて現代の東京の町のど真ん中にいる設定は、【記憶からの解放】を求めた寺山修司氏が、結局は母と故郷への思いを捨てきれずに持ちながら、東京に出て来て様々な芸術活動をしている事を示しているのである。
<エンドロールの、延々と続く真っ白な背景も、寺山修司氏の過去を全て白紙にするという思いが込められているのだろうか。
尚、このレビューの感想は私個人のモノである事を、一応記します。>
新宿東口アルタ前の雑踏のなかで顔色ひとつ変えず無言で食べ続けるシーンはインパクトを残しましたね。
目黒シネマさん「~映像の魔術師 寺山修司×ケネス・アンガー~」(2024年8月18日~21日)特集にて『書を捨てよ町へ出よう』(1971)『田園に死す』(1974)を初の劇場鑑賞。
今から35年以上の遠い遠い昔。
こまっしゃくれた私は「日本アート・シアター・ギルド(ATG)を全作制覇して、映画フリークになる!」と意気込み、当時圧倒的在庫量を誇ったレンタルビデオ店「ドラマ下北沢」さんで勇んで借りてみたものの「全く理解していないのに、分ったふり」をして半世紀近く生きながらえてきました…。
あれから35年。果たして今は完全に理解できるか?本日は再チャレンジ。
『田園に死す』(1974)
『書を捨てよ町へ出よう』(1971)に比べると映画と演劇との実験的融合色は薄れ、きちんと映画のトーン&マナーが守られてました。
キャストも八千草薫さん、春川ますみさん、木村功さん、原田芳雄さん、菅貫太郎さんと名優がずらり。
ストーリーは寺山修司さん特有のテーマ「父の不在と母の呪縛(母殺し)」「家出」や地方独特の因習など自伝的要素がより強く、旅回りのサーカス団が奇異な見世物小屋的に描かれているところが作品をより幻想化してましたね。
ラスト。主人公と母親の恐山の実家で食事の最中、家の書割が倒れて倒壊、新宿東口アルタ前の雑踏のなかで顔色ひとつ変えず無言で食べ続けるシーンは35年前の初見同様、インパクトを残しましたね。
映像のセンスは5 物語は2って感じ あくまで映画はお話しが重要だと...
母の狂気がたまらないSF
奇抜で幻想的な演出、コーラス、詩の余韻、そして八千草薫の妖艶さなど、見るたびに違った魅力を見せてくれる万華鏡のような作品だ。今回改めて鑑賞してみて、実験的なSF映画のような側面が強く印象に残った。
35歳の主人公が自分のフィルムの試写会から家に戻ると、作中で家出したはずの15歳の自分が立っている。また、過去の回想中にも、酒を買いに行こうとする15歳の自分と故郷の恐山で出会い、同行する。本作にはタイムマシンなどの過去と現在を行き来する装置が出てくるわけではないが、15歳の自分あるいは35歳の自分は時を行き来し、過去が現在に、または現在が過去に影響を与え合う。演出も相まって不思議な感覚だった。現実ではきっとありえないことの表現だからこそ、魅力的に思われた。また、35歳の自分が15歳の自分と将棋をさしながら呟いた「作り直しのきかない過去なんてどこにもないんだよ」というセリフが印象的だった。ふつう我々は、過去は不変ものだと思い込んでいる。石のように冷たく静かで、重く固いものだと思っている。しかし、寺山に言わせれば過去とはもっと柔らかく頼り甲斐のない、うつろいやすく儚いものなのかもしれない。
突然、ミュージシャンがカメラに向かって、画面の前の観客や視聴者に語りかけてくる。一方的に作品を見ていると思っていた観客は、ミュージシャンの説教に引き摺り込まれる。「書を捨てよ、街へ出よう」や「百年の孤独」などの寺山の他の映画にも使われる手法だ。こういったシーンは、わかっていてもドキリとするものだ。また、ミュージシャンのことばで「たかが人生」という表現があるのには驚いた。現代においてはやたらと「生命」やら「個々人」が尊重される。あまりにも重く考えられる「生命」に、私は飽き飽きしていたのかもしれない。かれの「たかが人生」という表現に、軽やかで飄々とした、爽やかなものを感じ取った。
また、本作では夫に死に別れ子に依存し、子離れできない母と、成長し母を捨てようとする息子が描かれている。寺山自身の母子関係の投影のように思われた。母は、「家族の時計は、家の1つの柱時計だけにするべきだ」と盲信する。1つの時間を共有することで、家族という共同体の結束を高めようとする母の努力は見ていて痛々しいほどだった。この作品では、主人公母子だけでなく父なし子であるために自身の子を「間引き」せざるをえない女など、さまざまな類型の「母」を見てとることができる。母の子に対する執着や狂気が鮮明に描かれている。
予想だにしない展開
悪い夢を観ているようだった
恐山に行ってきました
寺山作品を鑑賞するのは、恐らく25年振り位です。最近、初めて恐山に行ってきました。別府の地獄谷の様なごつごつした岩と直ぐ後ろには新緑に溢れた山があり、この景観があの世っぽく感じたのかもしれないですね。
作品の印象は、フェリーニを日本のアングラで味付けし直した感じでした。当時のアングラ演劇って、欧州の影響を受けてるんですかね?
第二次性徴での妄想や葛藤を描いていましたが、凡人には理解できない頭の作りなのでしょう。クリエイターは分裂気質でないと作品を生み出せないですよね。多くの訳の分からないもの(思考)が襲ってきて混乱した描写もフェリーニ的と感じました。もっとも、フェリーニの影響を受けていない映画監督は居ないとは思いますが。
若い寺山修司と「お母さん」を感じた
ファッションサイコ感が若干あざといけど
好みは別れるとしても1回は見るべき映画だと思います。
当時として実験的要素が盛り込まれ
前衛的映画の代表作的立ち位置だろうと感じます。
ただし、これが この手の映画の完成形なのかと言えばそうでは無いだろうとも思う。
初めての試みなのだから、突然完成する訳は無いのは当然だが、やはりどこか物足りない。
僕はこの映画は全然好みなのは間違いないのだが、何かが引っ掛かってならない。
例えて言うならば
本当におかしな人は自分が周りと比べて、おかしい人間だとは気づかないし、気づけない。
寺山修司は自分は人とは違う事をやりたい
おかしな人間なのだと必死にアピールしているような演出に固執し過ぎたように思う。
根っこが真面目で真人間なのだろう。
その作られた狂気の歯がゆさや
狂人を演じる孤独者が出す薄ら寒さがどうしても気になってしまう。
僕もそういう寒い人間側だからだと思うが笑
この映画が切り開いた糸口を更に進化させて完成形まで昇華させる監督が出てくる事を期待しています。
斬新なイメージや表現手法は横尾忠則の作品と通じるものがある 現代アートといって良いだろう
70年代前半のアングラカルチャーが濃縮されて閉じ込められてある
ストーリーや映像に大した意味はない
そのイメージや表現手法を楽しむべきだ
当時の新宿や渋谷のアングラ文化の空気が立ち上るそんな映画だ
では21世紀に生きる私達が本作を観る意義や意味は何なのだろう?
斬新なイメージや表現手法は横尾忠則の作品と通じるものがある
現代アートといって良いだろう
こそに価値を感じられなければ厳しいだろう
この芸術性を評価できないなら、当時新宿や渋谷を知る老人達の回顧趣味でしか価値も意義も残ってはいないだろう
本作のイメージに何かしら感銘を受けたなら、神戸に横尾忠則現代美術館を訪ねると良いと思う
より深く本作の世界に触れる事ができると思う
JR灘駅から徒歩5分程のモダンな美術館です
居心地のよいカフェもあります
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