鉄砲玉の美学のレビュー・感想・評価
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戦いが始まるとき、まず失われるものは若者の命である
ヤクザは根本的なところで決して他者を受容しない。孤独こそがヤクザという存在の存在契機だといっても過言ではない。しかしそれはあくまでイデア的な美学の話。本物の人間がまったくの孤独の中で生きていくことなど不可能だ。いくら斜に構えて突っ張っていても、女に金を借りたり、上にヘコヘコ頭を下げたりしなければ、彼らは現実的に生存していくことができない。
それでもヤクザという理想に身を投じるというのなら、他者との関わりを完全に断絶するというのなら、そいつはもう死ぬしかない。死ぬことだけがヤクザという生き様を体現するためにできる唯一の実践なのだ。ただし言わずもがな、人間はそう簡単に死を決意できない。見栄えとか美学とかいったものをことさら重視するヤクザであればなおのことだ。
小池は兄貴分から任された鉄砲玉役を遂行する中で、上述のような「ヤクザ」という生き様の根本的矛盾に直面し、深く苦悩する。彼が金を無闇に浪費したり行きずりの女を抱いたりチンピラをボコしたりするのは、他者とのつながりを断つのが怖いから、つまり死ぬのが怖いからだ。
しかし彼が煩悶している間に、抗争は終結を迎える。彼は「鉄砲玉」というヤクザ的美学の実践の契機を再び失ってしまう。焦った彼が無関係の警官と銃撃戦に発展するシーンはもうどうしようもないくらい情けない。だけどおそらくこういう意味もへったくれもやいような死が、ヤクザ全盛期にはそこかしこで起きていたんだろうなと思う。
本作を見ながら『仁義なき戦い 代理戦争編』のラストシーンで流れるナレーションのことを思い出した。
「戦いが始まるとき、まず失われるものは若者の命である。そしてその死はついに報われた例がない」
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