劇場公開日 2023年5月26日

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「ベルイマン的女性恐怖をアメリカン・ニューシネマに接ぎ木した、初期アルトマンの傑作サスペンス」雨にぬれた舗道 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0ベルイマン的女性恐怖をアメリカン・ニューシネマに接ぎ木した、初期アルトマンの傑作サスペンス

2023年6月16日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ニューロティックで、湿度高めのえも言われぬ情感に満ちていて、
劇場でしか味わえない極上の時間を提供してくれる、
どこまでも「映画らしい映画」。
やっぱり、アルトマンは初期作からすごい。

人好きのする独身「男性」の魅力を、至近距離で「におい」や「気配」までとらえて画面に刻印してみせた映画が『ロング・グッドバイ』だとすれば、
孤独なハイミス「女性」の心の揺れや「業」を、至近距離で「におい」や「気配」までとらえて画面に刻印してみせた映画が本作だといえるのではないか。

実は、両作はとてもよく似ている、と僕は思うのだ。
マンション。
孤独な生活。
奇妙な交友関係。
拾ってきた「猫」。
考えていることがわからない「猫」。
勝手に逃げていく「猫」。
喪失感。せつなさ。執着。

『ロング・グッドバイ』の冒頭は、物語の「序曲」だ。
猫とマーロウの関係性は、テリー・レノックスとマーロウの関係性と相似形を成す。
『雨にぬれた舗道』で、ヒロインのフランセスは、猫の代わりに「若者」を拾う。

徹底的な「視線」とカメラワークの実験。
心をくすぐる、メロウでジャジーな主題曲。
家に急ぐ主人公の移動をとらえる屋外のショットと、
閉鎖性の強い静やかな自室内の空間との対比。
ブルジョアの退廃と平民の逸楽。
「男」の裏切り。「女」の業。
刹那的で衝撃的だが、ちょっとチープで、
「ジャンルに逃げた」感じもあるラスト。
『ロング・グッドバイ』と『雨にぬれた舗道』。
まるで違う映画なのに、やっていることはなぜかそっくりだ。
これこそがアルトマンの作家性。そういうことだろう。

― ― ― ―

とにかく、カメラワークが絶品だ。
一瞬たりとも気の抜けない、凝りすぎて歪みすら生じる作家性の発露。
知的で、挑発的で、計算ずくなのに、きちんと生きたリズムが通っている。
たとえば、フランセスの場合。
人付き合いが苦手なヒロインの心の揺れや、抑圧された性衝動、怯えや執着、若者へのまっすぐだが闇色に染まった「恋心」が、すべて「ヒロインを捉えるカメラ」と「そこに映し出される彼女の視線」によって表現される。
フランセスを追うカメラの小刻みな揺れや、フランセスの姿を映し出す歪んだ鏡像、すりガラス越しのシルエット&壁を這う影、尾行するような手ブレするバックショット、斜めから急にぐっとアップで顔に迫る不穏なズームショット。
フランセスが青年を見据える目。見上げる目。見下げる目。
およそすべてのショットに「意図」と「含意」があり、考え抜かれたうえで緻密に配されている。

わかりやすいフランセスの「視線の含意」と比べると、名無しの青年のほうの視線は多分に欺瞞に満ちている。彼の子犬のような罪のないまなざしや、道化のような天衣無縫の振るまいは、すべて「つくりもの」なのだから。
彼は、自分が今演じているキャラクター、被っているペルソナに合わせて、自らの視線を「偽装」する。フランセスに見せるための無垢なる眼差し。観客はフランセスと同じ視点から、青年の仮面の深奥を見定めるべく見つめ返すことになる。

すべてが駄々洩れのフランセスの「目」。
すべてが噓で固められた青年の「目」。
それらを残酷に映し出す、凝りに凝ったカメラワーク。

何よりぞっとするのが、青年にも、フランセスにも、唐突にカメラのほうを向いてひたと見据えてくる、空恐ろしいショットが一ヶ所「わざと」仕込まれていることだ。
すなわち、本作の登場人物たちは実のところ、自らが虚構性のなかにとらわれたマリオネットであることを「先験的に知っている」のだ。
徹底的に視線の演技を二人に強いながら、その視線の演技すら作り物に過ぎないことをギミックとして露わにするアルトマンの稚気、悪意、策謀。
じつに挑発的な映画だ。

― ― ― ― ―

この物語の根幹に常にあるのは「ディスコミュニケーション」の問題だ。

雨のなかで拾った素性のわからない青年と、ハイミスの奇妙でインティメットな交流を描くといえば聞こえはいいが、要するに、
フランセスは青年の「正体」をまるでつかめていないし、
青年はフランセスの「本性」をまるでつかめていない。

フランセスは「緘黙」として振る舞う青年に、「神秘性」と「子犬のような親しみ」を覚えて執着を深めていくが、その実、青年が「ふつうにしゃべれる」「ただ黙っているだけの」「どこにでもいるただの青年」に過ぎないことを知らない。
単にフランセスのなかで、いたずらに青年に対する「虚像」を膨らませているだけだ。
相手がしゃべらない、ぐいぐい来ない、ただ聞き役でいてくれることへの「安心感」が、奥ゆかしくてこわがりの彼女の心を開かせ、過大な期待を抱かせたということだろう。
彼女は、返事をしない青年という「空っぽの器」に、自らの長年の願望と情念と思い込みをひたすら流し込み、充たし、理想を押し付けていくことになる。

一方で、青年のほうはどうか。
彼はフランセスのことを「少し年はいっているけど、善良で優しくて、なんでも食べさせてくれる親切な女性」と考え、「うぶで性的に奥手の、性交渉抜きでも自分を愛玩してくれるような安心できる存在」と捉えている。
あるいは、自分の「小動物のような魅力」を発揮すれば、容易く「虜にして」「自由に操れるだろう」御しやすいハイミスと捉えている。
彼は、おぼこく見えるフランセスのなかで渦巻く「女」としての情念やどす黒い鬱屈、たぎる性的欲求、奥手であるがゆえに思い込んだらどこまでも突き詰めてしまうメンヘラ的な「怖さ」に、まったく気づいていない。

この映画には、何度も「ディスコミュニケーション」にまつわる、きわめて「恐ろしい」シーンが出てくる。
たとえば、フランセスが一世一代の決意(と身体の準備)を秘めて、青年に添い寝して身体の関係をせがむシーン。ぐるぐるする頭とばくばくする胸を抱えて、何度も何度も心の中で練習したであろう台詞を言い切って、最後の審判を待つ思いで青年を見つめるフランセス。でも青年は微動だにしない。パニック寸前で布団を引っぺがすと、青年はもう立ち去ったあとで、なかには複数のぬいぐるみが詰まっているだけ……。ぞっとするようなフランセスの絶叫が静寂をつんざく(あきらかにベルイマンを意識してるよね)。
このシーンが怖いのは、全身全霊を懸けた告白が空振りに終わる「いたたまれなさ」(少し『キャリー』のプロム・シーンに近い残酷さ)もあるのだけれど、それ以上に、フランセスにとって青年という存在が、実際に「無抵抗に話を聞いてくれるぬいぐるみの代替物にすぎなかった」ことがあからさまに示唆されているからだ。

ふたりが部屋で、ハモニカと赤いネクタイを小道具に「目隠し鬼」をするシーンの「影絵」もずいぶん怖い。
本作のなかでもとっておきと言っていいくらいに凝りまくった、デコラティヴで幻想的なシーンだ。
一義的には、これはエロティックでセクシャルでインティメットな性的な遊戯といえる。
でもそこには、「二人にはそれぞれ、相手の正体がまるで見えていない」という含意と、ふたりの親密な秘儀が実は「幻想」「茶番」にすぎないという隠喩が視覚的に組み込まれている。しょせん、すべては壁にうつった「影」にすぎない。そして、目隠しをとったあと、そこにはもう誰もいない。本当にそこにあったのは「自分が求めてやまなかったまだ見ぬ相手の幻想」だけだった、そういうことだ。

先に、フランセスの目は噓をつかない、青年の目は噓をつくといった。
では、口はどうか。
フランセスの口は自分を語り、自分の理想を語り、とめどなく言葉を吐き出しつづける。
青年に「あんなに話す人は会ったことがない」と言われるくらいにしゃべる。
でもその言葉のすべてが彼女の本心というわけではなく、自分を安心させるために言い聞かせるような言葉も多い。彼女は青年に語りかけるようでいて、常に「自分に」語り掛けているのだ。
一方、青年はフランセスの前では、きょとんとした顔でなにも口をきかない。
口をきかないことで、自分のまとった神秘の幻想をたもっている。
逆に言えば、青年がしゃべらないからフランセスは安心して、今まで胸の中で澱のようにため込んでいた不安や不満を虚実を交えて形にしてはきだすことができるわけだ。
ふたりはひととき、この一方的な会話の垂れ流しと「王様はロバの耳」の穴のようないびつな「コミュニケーション」を愉しむ。
しかし、それは当然ながら、最初からコミュニケーションなどではない。
いつまでも自由でありたい青年。手元に留めておきたいフランセス。
やがて、ドラマは奇妙な方向へとゆがみはじめる。

― ― ― ―

『雨にぬれた舗道』は、メロドラマ的要素も多分にあるとはいえ、ジャンル映画としては女性恐怖を描いたサスペンス/スリラーにあたる(たぶん)。
40~50年代のノワールからすでに、女性の執着や独りよがりな妄念を描いた映画はそれなりにあったように思うが、アルトマンの立ち位置としては、イングリット・ベルイマンやロマン・ポランスキーのニューロティックな作品群、フェリーニの幻想的な男女の物語などを経験し、アメリカン・ニューシネマを通過したうえで、フェミニズム的視点も含めて「新たな女性サスペンスの世界」へと踏み込んでみせた、というところだろう。
ちょうど、クリント・イーストウッドの『恐怖のメロディ』(監督も本人)と『白い肌の異常な夜』(監督はドン・シーゲル)が1971年、ジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』が1974年だから、文脈的にはそのあたりと連関して考えてみてもいいのかもしれない。
アメリカにおける「女権運動の盛り上がり」「女性性への考察の深まり」と呼応して、男性にとって理解の埒外にある存在としての「女性への恐怖心」も高まっていく、という構図だ。
さらには、得体の知れない美青年の闖入者によって、平穏だった閉じられた世界が壊れ、ゆがみ、崩壊していくという意味では、ピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』(1968)を僕は想起せざるを得なかった。
相手の刺激される部分が性的な興奮であること、女性側の異様な突っ走りっぷり、男の裸タオルみたいな道具立てなど、テイストとして妙に似通った部分が多く、結構ガチで直接的な影響を受けていてもおかしくはない気はするんだよね。
あと、この物語の祖型を脳内でいろいろと探っていくと、そういえば『サンセット大通り』って映画もあったなあとふと気づいて、我ながらびっくり(笑)。一見、似ても似つかない映画だが、やってることは意外に似たり寄ったりかもしれない。

― ― ― ―

とにかく、この映画の面白さは「細部」に宿る。
一見おしとやかそうな少女性を身にまとったハイミス、サンディ・デニスが、唐突に剥き出しにする歯茎(ちょっと中嶋朋子を思わせる)。
すりすりとすり合わせられる足首と足首(なんとなくアンクレットを想起させてエロい)。
フランセスが産婦人科で装着する、(男性の目からすると)異様に大きく見えて恐ろし気なペッサリー。
エロ過ぎてぶっ飛びそうな青年の実姉のかぶる裸カウボーイハット(本作の「女性恐怖」は、インセストすら辞さないこの肉食系女子も当然ながら対象としている)。
やたら登場する食事シーンでの、カリカリのベーコンや手作りケーキ(アメリカっぽいってよりイギリスっぽい感じがするのはなんでだろうか?)
くだらない上流階級の、くだらない老人たちの、くだらない遊びの象徴として登場するペタンク。
ヒロインが青年に「とあるプレゼント」を買いに行った先で、宗教勧誘にいそしんでいてぶっ飛ばされる汚い中年男。

なんでもないシーンが忘れられない。
なんでもない小道具が映画の「怖さ」を増幅させる。
引っかかりの集積が、映画の全体の印象を構築している。
僕はそういう映画が、真に良い映画だと思う。

というわけで、明日は久しぶりに『ロング・グッドバイ』を鑑賞予定。
映画館で観るのは、じつは初めてだ。
僕にとっては、本当に大好きで、本当に大切な映画の一本。
心して楽しみたい。

じゃい