清作の妻のレビュー・感想・評価
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泣き
今明け方4時27分、見終わって急いでログインして放心状態で記録。
素晴らしい。かった。
上手くは言えないけれど、期待してみなかった分も、骨太な血の通った人間ドラマだった。
人間の描き方、チンケな人間ではない、大人の心、ストーリー。
清作も、その妻も、立派でした。
こう言う人間を描いた映画はなかなか観れない。
いつだって、どんなに立場が立派であろうと、姑息な浅い幼稚な人間が描かれる中で、
この二人は最後まで立派でした。
事件が恐ろしいことには変わりないですが。
なるほど、今の女優がタレントと呼ばれる理由がよくわかる。
上手くて賢く可愛いが、まるで羽のような軽さ。
結局は人間そのものの重さなのだ。存在感。
身体中にほと走る命を演じる若尾文子は、役者だ。
天才役者だ。
【”究極の夫婦愛。”哀しき人生を歩んできた女が、初めて自分を心から愛してくれた男の出征を阻むために行った事。今作は強烈な反戦映画でありつつも、究極の夫婦愛を描いた作品である。】
■苦しい家計を支えるため、老人の妾となっていたお兼(若尾文子)。
老人の突然死を機に、お兼は多額の手切れ金を貰い家族の待つ村へ戻るが、村人たちの彼女を見る目は冷たかった。
村の模範青年である清作(田村高廣)と出会い、2人は周囲の猛反対を無視して結婚した。
初めての幸せな暮らしをするお兼。
しかし、日露戦争が勃発し、清作に召集令状が届く。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・最近、頻繁に昭和三十年代から四十年代の邦画を見る。
それは、令和のこの時代に配信で見れる昔の邦画は、何処か気品があり、作品としても深く、純粋に面白いからである。
ー でなかったら、配信で公開されないでしょう。-
■それにしても、今作は凄かった。
若尾文子さんの渾身の演技に魅入られたし、(「青空娘」も面白かったが、芸風が広い方なのですね。)日露戦争開戦時の戦争に対する世相を見事に描いているからである。
日露戦争に赴く青年たちに”死んで帰ってこい!”などと酔った高齢の村のオジサンが声を掛けたり・・。
■お兼を演じた若尾文子さんの、人々から虐げられつつ生きる姿。
妾の地位を脱しても、村では歓迎してくれる人は誰もいない孤独な日々。
そんな中、出会った清作は彼女を色眼鏡では観なかった。
一人の人間として観てくれた。
清作も同様で、彼女に心底惚れて行く。
<今作が衝撃なのは、清作が模範兵として、日露戦争に出征して行く姿と怪我をして一時的に戻って来るが再び出征する清作に対し行ったお兼の行動である。
彼女は留置場に2年入れられるが、出所する。
家に戻ると、お兼の行動により、盲目になった清作が待っている。
お兼は”殺して下さい。私は一生も、二生も可愛がって貰ったから。”と清作に詫びるが、清作はお兼の首を閉めつつ、”独りぼっちの人間がどんなに悲しいか。お前が居なかったら、俺は馬鹿な模範兵、世間体を気にする阿呆だった。”と詫び、お兼を強く抱きしめるのである。
こんな、ハイレベルな恋愛映画を見ると・・。邦画は昔から凄かったのだなあ。
そして、若尾文子さんの渾身の演技には、素直に参りました、と思った映画である。>
傑作。憎しみの如き男女の性愛。
単なる政治的な映画を超えて普遍性を獲得した見事な傑作だと思います
舞台は広島県のどことも知れない山間の寒村、時は日露戦争の直前から始まります
冒頭、お兼が見下ろしていたのは呉の軍港かも知れません
お兼が生まれ育ったその村に帰る事に至った経緯がタイトルバックのなかで展開されます
こんなタイトルバック観たこと無いというものです
何しろそのプロローグが丸ごとタイトルバックに使われているのですから
監督の名前がでるまで12分もあります
それだけ構成やカット割などに工夫を凝らしてあるというわけです
テンポ良くリズム感あるカット割で、集中力を途切れさせることも、まどろむすきも与えません
清作は子供の頃から真面目で優秀であったことが家の賞状の数々で示されています
兵役でも模範兵として連隊長と県知事に表彰された何度も台詞で語られます
除隊の土産は、その時に貰った褒章金で拵えた梵鐘です
彼は在るべき国民の姿に村を変えるために、これからも模範たろうとしています
一方、お兼は他人は他人の人です
孤独に生きて行かざるをえなかった事情が彼女をそう凝り固まった性格に彼女をしています
つまり清作は、自分だけでなく家や村の名誉から、国家に貢献するまでを含む、国家主義的な生き方を象徴している人間です
そしてお兼は個人主義的な生き方の象徴なのです
国家主義的な生き方は、行き着くところ国家の犠牲となり戦死するかどうかとなります
そして個人主義的な生き方は、そんなことに意義や意味、価値を感じないことに行き着くのです
その生き方が正反対の二人が愛し合った結果起こった悲劇
その伏線は釘よりももっと前の鎌から張られています
結局のところ、清作は国家主義的な生き方の馬鹿らしさに気づいて梵鐘を投げ捨てます
それどころか、村の国家主義的な現状を否定し、個人主義的な行き方を敢えて認めさせるため村に留まる決意をするのです
つまり失明とは個の確立の暗喩なのです
ラストシーン
清作に代わって懸命に畑を耕すお兼の姿
今は国民に理解されなくとも、いつかは日本も変わる時がくる
それは60年安保闘争に敗れた世代からの闘争継続の決意だったのかも知れません
本作のテーマはそこにあると思います
しかし、新藤兼人の脚本と増村保造監督の演出はそんな単純ではありません
なぜに清作がお兼を妻にしたのか?
なぜ、お兼の首を締めかけて止めたのか?
それは若尾文子が演じるお兼の肉体の艶めかしさです
首に手をかけたときに触れた、肌の弾力、肉の温かみ
清作はその瞬間までお兼を殺すつもりであったのだと思います
手が首に触れたとき、手を伸ばした時に触れる肉体、体温、匂い、ほつれ髪
その時、彼にコペルニクス的転換が起こったのです
肉体とそこに宿る精神、人間の持つ自然な感情
それに忠実であることが何故悪いことなのか?
人間が人間らしく生きることが悪い訳はない
そのメッセージこそが本当のメッセージだと思います
若尾文子のエロチックさが本作を、薄ペラい観念の対立の映画ではない高みに、本作を押し上げることに成功しているのです
本作が成立したのは彼女の配役にこそあります
単なる政治的な映画を超えて普遍性を獲得した見事な傑作だと思います
若尾文子の眼差しの移り変わりを見よ
1965年大映。
増村保造監督のひとつの到達点とでも言うべき究極の愛と反戦メッセージ映画。日露戦争前後の農村を舞台に、内に秘めた女の強さを若尾文子が熱演。相変わらず容赦の無い展開。全編悲壮な音楽で淡々とかつグイグイと進む。この編集リズムが魔術的。
愛か、エゴイズムか、狂気なのか、それは観客が判断せよという監督のスタイルがいつもながらヘヴィ。終盤の緊張感が半端なかった。増村+若尾コンビの最高傑作でしょう。
若尾文子、かっこいい
お兼(若尾文子)は貧しい農家に生まれ、その美貌からお金持ちのお妾さんになる。
ところが、旦那が突然死、旦那の親族は遺言通り大金を渡し、縁切りする。
村の実家に戻るが、村人からは白い眼で見られ、意地っ張りのお兼は村八分にも耐える。
そんな時、村一番の正直者、清作(田村高廣)が除隊して戻ってくる。
二人は恋に落ちるのだが・・・。
若尾文子の壮絶ともいえる美しさと強さに息をのむ。
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