「聞きしにまさる大傑作! 等身大の悪たちが繰り広げるタマの取り合いに胸がふるえる!」仁義なき戦い 広島死闘篇 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
聞きしにまさる大傑作! 等身大の悪たちが繰り広げるタマの取り合いに胸がふるえる!
新文芸坐の「追悼・千葉真一」で視聴。
土曜の朝っぱらから、『沖縄やくざ戦争』と2本立てとか、なんて日だ!(大歓喜)
しかもこのあとは、同じ池袋でN響/ブロムシュテットの演奏会にはしご。控えめにいって最高の一日です。
ただ、千葉ちゃんのやったヤクザ役のベストアクトは、『沖縄やくざ戦争』の国頭のほうだと思うので、千葉ちゃんの話はそちらで書こうかと。
むしろ、こっちはやっぱり北大路欣也なんだよなあ。
北大路は当初、大友の役をやるはずだったが、本人が難色を示し、千葉ちゃんと交代して山中正治役を手に入れたらしい(そのへんの経緯はムダなくらいWikiに詳細に書いてあるw)。
この北大路欣也がとにかく秀逸。
ヤクザとしての有り様が、リアル。
リアル、というとなんか通り一遍の表現なんだけど、
これ、今でいうところの「ケーキの切れない非行少年」だよね。
ふつうにしゃべれる。
ふつうに人とも交流が持てる。
一見すると、好人物ですらある。
だから、みんな一見すると気づかないし、
なんで、こういう感じで彼が転落してくのか、よくわからない。
でも、おそらくなら彼は、圧倒的に「IQが低い」。
とあるレベル以上の有機的な思考を紡ぐことができない。
相手の言ってることが、なんとなく頭を素通りしてゆく。
行為によって引き起こされる因果関係の綾を、うまく予測できない。
つい直情的に動いてしまう。結果、何がどうなるかを考えて踏みとどまれない。
人を殺すことに対する「痛みの想像力」も、漠然と薄い。
僕の小学校の同級生でも、こういう人間で結局、極道の道に入ったやつがいた。
彼らは、世間のよるべなさ、生きづらさ、そこはかとない不安に苦しんでいて、
はみ出し者どうしの疑似家族や、強固な上下関係に、意外と「安息」を見出すんだよね。
あと、逆らえない「上」に「命令」されて動くことで、ほっとするところもある。
自分で難しいことを考えないでいいからだ。
実在した、山上光治がどんな人物だったか、自分は知らない。
だが、この映画のなかの山中正治は、まさにそういう
「極道に身を落とすケーキの切れない青年」の典型例を示している。
どことなく、うつろな眼差し。あれは、「頭のなかがまわっていない」目だ。
「親」の話を聞いているときの、微妙にわかっていないような表情。
わかる範囲で簡略化して、漠然と認識しているから、返事にも一呼吸かかる。
野性の勘と本能で動いていて、ヒットマンとしての使命は確実に果たすが、
どうなっていくのかの大局観がないから、やがて身を滅ぼす。
北大路欣也は全身全霊で、「表面上はバカに見えないのに、脳の回転が足りないせいで、ヤクザとしてしか生きられない」若者を演じ切る。
ふだんの欣也さんは当然そうじゃないわけで、この演技はやはり凄い。
そういう人間を、うまくこき使って、適当に使い潰していくのが、親分さん方だ。
彼らは、反社会的属性を持ちながら、世知にも長けている。
その知恵で、「極道にしかなれなかった連中」を「兵隊」として使役する。
そのノウハウこそが、盃であり、親子の契りだ。
自分たちに累を及ぼすことなく、自決して果てた山中を、山守(金子信雄)たちは追悼式で、
「撃ち合いもせんじゃったけん、警察も表彰もんじゃぁいうて言いよった」
「ありゃぁ、男の中の男じゃ」とほめたたえる。
しょせん、そういう扱いなのだ。
『仁義なき戦い』シリーズの何が新しかったかというと、ある種のロマン主義で粉飾されていた「任侠」に「リアル」を持ち込んだから、という一般論は確かにそうなのだが、その「リアル」は、単に実在するヤクザの実在する抗争を描いたというだけではない。
「どういう人間が極道に堕ち」「どういう仕組みで消費されるか」を、体感できるレベルでまざまざと視覚化したからこそ、『仁義なき戦い』の「実録」は、いささか漫画チックでありながらも、生々しく胸を打つのだ。
「ワシらうまいもん食うての、マブいスケ抱く、そのために生まれてきとんじゃないの」と言い放つ大友勝利は、つねに股間をかいている。実際に性病だからだ。
島田幸一(前田吟)は、広能(菅原文太)に牛肉だと偽って、犬肉を出す。作中触れられることはないが、このエピソードが大阪・広島のヤクザに在日コリアンがかなりの割合を占めることと無関係のわけがない。
成田三樹夫演じる松永のリアリティレヴェルもやばい。親分衆の適当さ加減を見てもわかるとおり、ヤクザの世界を本当に回しているのは、こういう人間だ。彼の「場を読む力」と「口先力」が、結局のところ、「本質的には頭の弱い」山中をがんじがらめにしていく。
深作欣二と笠原和夫は、一段深いレヴェルでヤクザの世界を描いた。
だからこそ、それぞれのキャラクターが立っている。
そのキャラを使って「殺し合い」をさせるのだから、映画が面白くないわけがない。
終盤の血で血を洗う抗争劇は、まさに今の世でいうところの「デス・ゲーム」だ。
やっていること自体は、『仁義なき戦い』が企画の祖型とした『ゴッドファーザー』と変わらない。
でも、『ゴッドファーザー』ではまだ、抗争は「成り上がり、支配するための手段」として描かれていたように思う。また、人前で抗争相手を殺すことが、街を恐怖で支配し、官民を制圧する威圧手段として、巧みに用いられてもいた。
ところが『仁義なき戦い』(とくに広島死闘編)における抗争では、抗争自体がすでに目的化している。
「やられたらやり返す」ことだけが、エンジンとして報復の連鎖を巻き起こし、もはやみんなあまり頭でまともに考えていない(笑)。これは、大真面目で演じられる究極の「茶番」なのだ。
だからわれわれ観客も、血で血を洗う殺戮の応酬をある意味「気軽に楽しむ」ことができる。
「生き残るべき善玉」も「守られるべき弱者」もいない、極限のピカレスク。
誰が死のうが、観ているこっちはたいして痛痒を感じない。
どうせ、どいつもこいつも、ワルで、ろくでなしで、アホだからだ。
だから、闘犬場の観客のように、われわれは盤面で展開されるデスゲームを満喫できる。
「ヤクザ」を主題にしたからこそ得られる「健全な娯楽」がここにある。
川谷拓三がモーターボートで引っ張られ、めちゃくちゃにされて、吊るされた挙句に犬のように撃ち殺されるシーンが、こんなに血沸き肉躍るほど面白いなんて、本当はとても罪深いことだ。
何せ、川谷拓三はこのシーンの撮影で、実際に死にかけたのだ。
でも、面白い。仕方がない。
観客の頭のなかで、登場人物の命が軽くなってるから。どうせヤクザだから。
これは、おそろしい快楽のシステムだ。
『広島死闘編』に限った形でいえば、すでに傑作として君臨する第一作を受けるにあたって、(原作の連載が追い付いていなかったからではあるが)、前作と被る時系列で呉→広島に舞台をずらして世界観を広げて描いてみせたというのも、じつに慧眼だった。
まだ「任侠」の伝統的な「正しさ」を背負った広能から、新時代のピカレスクである大友勝利と、ルーザーとしての山中のふたりに主役を移してみせたのも、抜群のセンスだったように思う。
結果として『広島死闘編』は、前作に比するどころか、凌駕するくらいの傑作に仕上がっている。
それと最後に、梶芽衣子の存在も本作ではやはり大きい。
なんて美しいんだろうか。とにかく最高だ。
僕は小学校低学年のころから、『大江戸捜査網』の芸者小波がピンチに陥るたびに激しく性的に欲情していたくらいの梶芽衣子ファンだったので、彼女に執着する山中の心境はよーくわかるのだ。
ちなみに余談ですが、小池朝雄と室田日出男が一緒に同じ映画に出てると、たまにごっちゃになっちゃうのって、俺だけ?(笑)