「物の見方を他感している」静かな生活 Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
物の見方を他感している
大江健三郎氏が亡くなったので、あるアメリカの大学のハリー・クラウスラーのインタビューを聞いた。そのインタビューで大江健三郎はどう自分の生活・困難を克服していったかについて答えた。このインタビューはそれだけでなく、日本のノーベル賞をもらった小説家である彼の見解は日本文化の中で文化を見つめるのではなく文化の枠組みの外のそばに立ってみるらしい。具体的に数多くの作品を読んでいないが、この意味が映画「静かな生活」にも
現れていると思う。たとえば、家族の問題点も問題点として立ち向かってみるより、一歩離れた家族の枠の外側から観察しているようである。
それに、監督伊丹十三は大江健三郎の友達であるし、大江健三郎は伊丹十三の妹と結婚している。監督伊丹十三はこの映画の中で団藤(岡村喬生)のように友達のけい(パパー山崎努)のなんでも知っている無二の親友に思える。
映画の冒頭の方はまるで彼の生活と同じようだった。特に、身障者の息子が言葉を覚えるまでの道のりは大江健三郎がハリー・クラウスラーに話しているのと同じだった。
ハリー・クラウスラーとの会話で、大江健三郎は第2次大戦中9歳ごろ、母親が、1KGの米を人形とハックルベリーフィンに交換してきた話をした。亡き父親が母親にベストの小説だと言ったアメリカのマーク・トエインの文学だった。
映画に戻るが、なんでもありの世界だが、現実は多様的でない。それをどう生きていくか娘まーちゃんの(佐伯日菜子)生き方とイーヨーと家族を中心に描いていく。それにパパの友達、団藤さん(岡村喬生)からの影響は多大だ。
人間は気高く、純粋に生きていいるように見えても、父親が精神的に不安定になる時もあるし、精神障害を抱えた、兄弟を持つ時もある。ましてや、まーちゃんの兄のように精神障害で思春期を迎えている時、性の反応について、家族はどう受け止めるか。人生において、誘惑もあり、信頼していた男に暴行を加えられそうになってしまうこともある。でも、傷ついても人生はそれで終わりじゃないよ。徐々に「静かな生活」を取り戻したけど、まだまだ、人生には険しい道がある。それをどう生きていくかはあなた次第だと。
家族のサポートで生きられるならそれが一番いいね。まーちゃんはサポートを家族から、団藤さんからも受けている。幸いだ。親は子より早く死ぬから、兄弟が助け合って生きられるのが大事と考えているのではないか。そして、息子を障害者としてでなく健常者として接していこうとしているのがこの映画のテーマのようにも思える。これは大江健三郎の人生の哲学で、それがよく描かれている作品。『書くことと生きることが一つ』パパ(けい)の友達の団藤さんが言っているが、これは大江健三郎のこと。『小説の中で答えが見つかれば、人生の中で答えが見つかる』それが、お父さんの小説家としての生き方だと、団藤(岡村喬生)さんはいう。魂のことのために全てを捨てることができるだろうか?これがパパ(けい)の問題。子供の頃、セント・フランシスの話を水車小屋で読んで、『人を助けるためにはなんでも捨てる』親も兄弟も友達もと覚悟したようだ。まーちゃんの夢の意味、両親の芝居を見にいって、粗末な扱いをされる。親が亡くなった場合、どうなっていくのか?孤児になってしまうのではないか。パパのお兄さんの葬儀でみんなが考えている。
これが、イーヨーの捨て子を助けることに結びついている。(捨て子という作曲のタイトル。)
団藤さんのワルシャワでの『政府に物申す』の動きは同じ人間なのに政府高官が優先される。それも、社会主義の国なのに。おかしいという問題意識。
パパは自分は特別な人間じゃなく、なんでもない人として生きていくと。なんでもなければ、ゼロにかえって死ぬのは容易いと。何気なく死んでいくのだと。何か、宮沢賢治の雨ニモマケズのようだ。
団藤さんの伴侶(宮本信子)はポーランドの作家に対する弾圧に抗議をするビラを配る。問題点は声に出して叫べと。こういう思想を伝授し、まーちゃんたちも一体となってビラを配る。静かな生活をしながら、立ち上がるところは立ち上がるという草の根運動家だ。
まーちゃんの家族を通しての生き方だが、話題が盛りだくさんすぎて、ちょっと整理がつかないように思えるが、これが人生だとして受け止めて歩んでいる。