劇場公開日 1953年10月31日

「信頼…」地獄門 とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0信頼…

2018年5月16日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

怖い

三角関係。終盤まではよくある話なんだけれど、最後のオチがそうくるかと多少唖然。ふっと、胸の奥をつかれてしまった。
 思いやった行為のつもりが、大切な人を地獄に落としてしまう。想像していた”地獄門”とはだいぶ違ったけれど、”信”を信条として生きている人には確かに地獄だわ。
 最後の最後のオチで、主役が交代してしまうところも、ズドンとくる。さすが菊池寛氏原作。

とはいえ、終盤で緊張感高まるけれど、物語はありきたりの筋で、ちょっとイライラ。舞台を水増ししたかなという感じ。

 それでも見惚れてしまうのは色彩。絹の光沢・色重ね。御簾を多用した画面作り。その御簾が風になびく様がなんとも心地よい。後半の青や黄を基調とした映像もとりこになる。
 ああ、こういう空間て、背筋が伸びて、気持ちが清々しくなり優しくなる。日本画の大家が監修していると知って納得。

 御所方=雲上人に近い人々 VS 六波羅方=裏切ることも兵法な粗野な乱暴者。
 その対比・確執がもっと出ていたらわかりやすかったのだろう。
 天女をどうしても手に入れたい六波羅の武士。
 天から落ちたくない女。
 そんな気持ちに疎い雲上人。
 みっともなく袖にされた女にしがみついて仲間に笑われるようなことを恥じる見栄。
 どんな手を使っても狙った獲物を手に入れることが称賛されるのに、手に入れられずに笑われることを恥じる見栄。
 育った環境によって、こだわりたいところがこんなに違う。

 男女の機微も交錯している。
 舞台は、平安から鎌倉への移行期。平安時代は基本、妻問婚。男がモーションをかけ、女が応じればOKの頃。もちろん二股かければ「実がない」となじられるけれど、男は何人もの女のもとに通い、財産を受け継ぐのは男ではなく女であるものの、その財産を維持するためには男の力を必要とし、そのためにも男を乗り換えたりもするのも処世術とされた時代の末期。
 でも、原作者の菊池寛氏は「貞女二夫にまみえず」映画にも出てくるが、男にそんな懸想を起こさせる女がはしたないとされた時代に生きた人。
 そんなベースだが、反面、女は”ご褒美”。袈裟とて、御所勤めの中で、渡に下賜された(御所方の口利きで結婚した)女。
 御所方の男・渡は、御所から絶世の美女を賜り、自分の価値を知る。
 鄙の女・袈裟は、普通ではかなわない教養ある立派な御所侍を、夫とでき、自分のステータスをあげる。(叔母が、御所に上がって「出世した」と言っていることからもそれは知れる)
 盛遠にしたって、袈裟は”ご褒美”と認められた”もの”。それが御所方の女だからとなかったことにされたのも、御所方との確執が混ざってエスカレートしたのではなかろうか。袈裟が六波羅侍の女房なら、仲間内のことと断念したのではないか。

なんて、背景を想像してしまうが、映画で見る限り、
 二重顎のもういい年の壮年男が、だだをこねるようにしか見えない。
 危機管理能力は袈裟の夫も欠けていて、あの状況で、妻を一人で出すかと、あんぐりする。妻の感じていた危機感をたわいのないこととしてしか見ていなかったんだよな。
 そんな中で袈裟がどれだけ苦しんだかの描写がなおざりなので、ただの犬死になってしまう。
 いじめ等を苦に自死する子やストーカー・DV被害を訴えていたのに残念な結果になってしまう人たちが、その苦しみを周りに真剣に取り合ってもらえていないのと一緒。
 だから、感動するはずの最後のオチもしらけてしまう。いまさら何言っているの?
 そこが残念。
 舞台なら完璧。
 でも映画だと、もう少し踏み込んでほしかった。

主演・長谷川氏は元歌舞伎役者。京さんへの演技指導もなさったと聞く。
 女形は基本男を立てる存在。そのシーン・シーンで美しく魅せればよい。だからか、袈裟が時に幼稚に、時に妖女に見えてしまうのが残念。

ストーカー。
結局、ストーカーする心理って、愛じゃないんだよね。
単なる所有欲っていうか、自分を認められたい自己愛でしかない。自分の小ささが駄々洩れになっているだけなことに、この映画を見て気が付いてほしい。

とみいじょん