残菊物語(1939)のレビュー・感想・評価
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或る夜の出来事
題名のキャプラ・クラシック名作を先に見ていた事から なぜかこの作品と相似性を感じた 向こうはラブコメ、こちらは新派悲劇である 若い二人がここではないどこかへむかうが 結局育った場からはなれられぬ宿命 まあ、こちらは、 じぶんはいかに他者の想いにささえられてきたか 身勝手な若気の至りが、苦心惨憺の果てに なんらかの自己覚醒に至るプロセスなんである 野暮はやめにして、 わたしは、親とケンカして家出、 しばし数日間さまよいながら、 銀座のシネマアーカイブで、 これをみ終わるやいなや、 思わず感激のあまりに、 母に電話してしまった なんともだらしないヤツであった事を思い出す
道頓堀
道頓堀の顔見せは今も行われているはずだが、これはすごい画角で迫力がある。その地位に立たされる菊之助の緊張感がこちらに伝わる。 おとくの声の高さと細さが印象的に残る。対比的に縁の下の生きざまは強く美しく描かれる。話としてはあまり好みではない。映像はさすがに古い。
“残菊”の意味は、菊之助よりもお徳の生き様についてだったのか…
溝口監督の戦前作品を初めて観た。 この映画の骨子は、愛する男性を陰で支え、 その成功を見届けながら ひっそりと消えていく女性の物語で、 良く有りがちな内容ではある。 しかし、 この映画の世界に引き込まれるのは、 計算され尽くした映像美が 作品の風格を醸し出しているためのように 感じると共に、 更に、溝口映画特有の長回しが、 私の思考を助ける装置として機能してくれた ためとも思えた。 ただ、直近に観た「西鶴一代女」に比べると、 その長回しが 少し冗長に感じる箇所が見受けられて、 戦後作品までの発展途上的出来栄えにも 感じた。 この作品のストーリーは前述の通り、 男の出世に命まで捧げた薄幸の女性の物語 のようにも感じるが、 菊之助に比べて、 お徳の生き様は明らかに能動的である。 彼女の人生には、単なる犠牲ではない、 人を正しい道に導く 骨太な人生観を彼女に感じないこともない。 “残菊”という言葉を初めての知ったが、 菊之助が人生ギリギリのところで 見事に咲いたという意味よりも、 彼の成功のために、 ギリギリまで咲いて散ったお徳の生き様 のことだったろうか。 しかし、それでも、 当時の封建的な世界での犠牲者のような お徳の人生だったとも 思わざるを得なかった。 それにしても最後のシーン、 公演前に見舞いに来た菊之助は 既に社会的な力を 有しているはずなので、 お徳のために、どうして 早く医者を呼ぶなりの手配をしないのかと、 こちらがイライラするほど、 作品の世界に取り込まれてしまっていた。
お目出たい男 菊之助
歌舞伎が関わる映画はとても好きです。菊之助の着物姿、足さばき、着替え、羽織紐を結ぶ、墨染役の踊りと所作。花柳章太郎、見事としか言えません。可愛い女形さんで親友の福ちゃん(福助)役も素晴らしかった。関の扉の舞台、常磐津連中は八挺八枚?よく見えなくて数えられなかったが豪華絢爛!黒御簾から舞台の菊之助を見つめるみんなの目の真剣なこと! この映画はおとくの自己献身で出世する歌舞伎役者の話です。おとくが健気で声も可愛らしい純な女なので悲恋ものに見えるけれど、溝口健二監督がそんな悲恋映画を作るとは思えない。 おとくの仕事であった「乳母」が面倒を見る対象が、赤ん坊から菊之助坊ちゃんという大人の男に変わっただけ。おとくは賢くて芝居を見る目もあり、ただ単に正直に菊之助の芸を批評した。それで菊之助は誰も言ってくれなかった言葉に感動してしまい、一方で音羽屋からは菊之助を誘惑して妻の座を狙ってると見られてしまう。おとくにとって最大の侮辱だ。だから大阪へもおとくは菊之助に同行せず一年後にやっと行った。坊ちゃんをあやして立派な鏡台を贈り、菊之助にチャンスを与えるきっかけを作り、見事仲間を唸らせる。そして若旦那は音羽屋にカムバッーク!結果、おとくは自分を排除した音羽屋を盛り上げる捨て石になった。おとくが一人名古屋から大阪の二階に戻って吐いた言葉は本心だろう。「あんな男と一緒に居るの 面白くなくなったのさ」 歌舞伎の家に生まれた子どもは大変だと思うが、男だけ。観客は圧倒的に女性、歌舞伎に関連する習い事をするのは圧倒的に女性。跡継ぎ産むのも女性(この映画で菊之助は養子。まだいい時代だったと思う)。その上に成り立つ歌舞伎や伝統芸能の世界。どうにかならないかと心底思う。 日本による中国侵略戦争が1937年に本格化し、戦争協力映画制作が政府から求められ検閲も始まった。男性本位の社会を告発する映画が得意な溝口監督はこの時代、芸道ものに打ち込むしかなかったのだろう。だから歌舞伎が好きでも両手を上げて喜べない。 おまけ おとくが菊之助のことで誤解され暇を出されて身を寄せた親戚の家では菊の花を育てていた。その場所は、雑司が谷、鬼子母神。いいねぇ。すすきみみずくもどっかの場面で見えた気がする。 佐藤忠男(1982)『溝口健二の世界』(筑摩書房)。今回の溝口健二監督特集を見る前にこの本に出会うことができた。佐藤忠男さんの映画批評の奥深さと鋭さに改めて心が動かされた。映画批評に感動するってなかなかない。その希有な例が佐藤忠男さん。今年3月の訃報はショックだった。レビューの一部は上記文献を参考にしました。 ーーーーーーーーーー 同じ日に「マリヤのお雪」(1935:80分)を見た。ここにあがっていない映画なのでごく簡単に紹介。監督:溝口健二 原作:川口松太郎 脚本:高島達之助 出演:山田五十鈴、原駒子、夏川大二郎、中野英治、梅村春子 モーパッサン『脂肪の塊』を川口が翻案した舞台劇が原作。時代背景は西南戦争中の熊本。官軍から逃げる馬車に乗り合わせる金持ち家族(6名)と二人の酌婦。家族は二人を悪し様に言い軽蔑する。お雪(山田五十鈴)は聖母マリアのようでもあり気っ風もあり強い。山田五十鈴の凛とした姿にはいつも惚れ惚れとする。いい台詞の多い映画だった。冒頭のお雪の言葉(大体)。「死にたいと思っても 寿命があれば生きるし。生きたいと思っても 寿命があればそうは行かない」
展開が遅い
これを最後まで見れる人はどんな宗教のどんな修行にも耐えられるだろう。尊敬に値する人々だ。このような展開が鈍くて大体どうなるか分かるストーリーが3回も映画化されるなんて。昔の人は面白い小説にも恵まれなくてかわいそうである。 私が、あーと思ったのはこの映画は戦前の映画であってその戦前というところの力強さのようなものを感じた点である。戦争に入る2年前というのは日本は力強さがあって、このような素晴らしいセットを作って自信にあふれた映画を作っていたのだなあと思った。
ワンショット・ワンシーンの完成された演出技法の見応えと演出美
完成度では戦後の「近松物語」に比肩する、溝口健二の芸道ものの最高傑作。演技の持続を見せつけるワンショット・ワンシーンの演出法を遺憾なく発揮した演劇的映画の見本のような力作で、練られたカメラアングルや移動撮影の素晴らしさに、ただ唸るしかない。台詞と動きが調和した役者の演技の本質に拘る溝口演出の厳しさ。その緊張感に包まれた独特なカメラワークで存分に表現された、見応えあるドラマと演技の美しさに吸い込まれる。 お徳が菊之助の演技の不味さを諭すシーンでは、背景の下町の家並みやその前を通り過ぎる人々のなかで会話するふたりのこころの繋がりを、川岸の道に沿った移動撮影で表現する。動きのある場面の面白さと風情の味わい。義母里がお徳を叱り付ける場面では、家にいる女中たちの様子を端的に描写して奥行きのある場面作りをする。また、田舎に帰ったお徳を探して菊之助が出会う場面では、山道の茶屋にある林を生かした演出で、人物の動きや思考を想像させる。口論する菊之助と義父菊五郎では、隣の座敷で心配そうに聞き耳を立てる義母里を正面から撮る演出。三人の関係性を浮き彫りにすると共に、高度な演技力を要求する監督とそれに応える梅村蓉子の演技。 観る者のイマジネーションを刺激しながら、登場人物の人となりや感情、思考、行為に思いを至らせる溝口監督の演出。それを味わい、尚それに酔うが如くの映画の模範。
メロドラマとリアリズムが融合した一大傑作
1939年昭和14年の作品 祇園の姉妹から3年後、その間に3作を撮っていますが、その第一映画が解散したため松竹に移って撮った最初の作品 祇園の姉妹から一転して、本作は完璧なメロドラマです ところが演出はリアリズムを追求しています 祇園の姉妹での徹底したリアリズムの手法が本作ではメロドラマを裏打ちして真に迫った嘘臭くないものする為に全力を傾けられています ワンカットワンシーンの多用も効果的で印象的なシーンを生んでいます 大阪への凱旋興行が終わり知らせを受けてお徳のもとに駆けつけるシーンは、特に成功している長回しのシーンだと思います 大通りを人力車が進み路地の入口で止めて路地を急ぐ菊之助を低いカメラ位置で見上げつつ、カメラも動きながら止らず撮り続けます そのカットは、はやる菊之助の心情を強烈に伝えて効果を発揮しています そして圧巻の船乗り込みのシーン カットバックされるお徳の病床の様子 夜の道頓堀のセットと川を進む大船 巨費がかかったであろう壮大でかつリアリズムの極致のセットの迫力あるシーンです 臭くなるはずのメロドラマのクライマックスがこれによって、嘘臭くなくなってしまうのだから、ここでの溝口監督の演出の手腕は剛腕です このシーンは名シーン中の名シーンとして語り草だと思います 本作はメロドラマとリアリズムが融合した一大傑作だと思います 大ヒットしたのも当然だと思います 高邁な左翼思想をテーマに据えても大衆に支持されなければ無意味だということです 残菊たるお徳が、一般大衆の代表となって、エリートたる菊之助を励まし前進させている構造なのです これがテーマであるのです 残菊とは、雪が積もるような冬まで最後まで残った菊の花のこと もちろんお徳のことです そして役名の菊之助にかけてあります 冬の冷たい雪も、いつか春が来て溶けて消え去ります しかしその時には菊の花は枯れ果てているのです 船乗り込みのシーンで大船の左右に掲げられている提灯の角座とは、道頓堀の五座の一角の角座のことです 特に格式のある芝居小屋であったそうです 戦後は漫才の演芸場になったり映画館になったりして遂には消滅もして、今は複合ビルとなってビルの名前だけが、道頓堀のど真ん中のその場所にあります
溝口が教える 人生の浮沈
古典芸能に詳しい 溝口監督ならではの傑作 二代目菊之助をモデルにした 物語だが、 この菊之助を演じているのが 花柳章太郎である (後の人間国宝) 主人公をわりとサクサク演じているのに(情感たっぷり、というのではない) 監督の演出、森 赫子の演技と共に 泣かされてしまう 価値ある男(未開の芸の才能だけではない)に 尽くすというのも、女の 一つの愛の形なのだろうと思う 悲しい結末だが、人生を賭け 勝負に勝ち、意地を見せることが出来たふたり(特に お徳) これもある意味 幸せ、と言えよう だが、誰かが浮かべば、誰かが沈む、 というのも 人生の別の一面であり、 それに皆 泣かされてしまうのだと思う 溝口が惚れた 花柳章太郎の芸を 出来れば見て見たくなった (特に 出世役と言われる「日本橋」のお千世をまず… ) この作品と共に、彼の芸をフィルムに焼きつけた 溝口健二に感謝 なお、花柳と森の間には トラブルがあり 後日 森が本を出版している(章太郎、残念!!! )
男が見ると気持ちがいい
才能がなくてダメだと言われている歌舞伎役者が、 献身的な妻に支えられて成長していく物語。 溝口映画を見るならこれという場面はないけど、 男が見るとお酒を飲んだみたいに気持ちがよくなる映画。
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