「最後の決闘シーンは気の抜けた演出で一杯食わされた感」座頭市と用心棒 hjktkujさんの映画レビュー(感想・評価)
最後の決闘シーンは気の抜けた演出で一杯食わされた感
「用心棒」、「椿三十郎」、「座頭市と用心棒」、「待ち伏せ」という「用心棒四部作」を半世紀ぶりにいっきに見直してみた。が公開当時に感じたと同様、この作品、二度と見たくないという感想であった。本作は座頭市シリーズ最大のヒットを記録したが、やはり「用心棒」の看板は観客を呼ぶには大きいものだった。対戦物は、ゴジラ、モスラ、エイリアン、プレデター等集客のための格好の企画であり、当時も、「座頭市と用心棒」という題名だけでときめいた思い出がある。しかし、この作品、看板倒れの凡作と言わざるを得ない。「椿三十郎」(1962年)の仲代達也並みに用心棒が斬られなければ座頭市シリーズのお約束が達成されない。この腑抜けたような決闘と結末では観客が納得しないのは当たり前で、脚本の段階から観客を騙しているとの誹りは免れえない。まさか、三船敏郎、「待ち伏せ」(1970年)が控えているから死ねなかったわけでもあるまい。この結末に至るまでのストーリー展開も平凡で115分は長すぎた。何よりも、用心棒がいつの間にか名前もあり士官してアル中の隠密になっているという設定がいただけないし、座頭市の汚らしい身なり風体も見るに堪えない。脚本・監督の岡本喜八のアイデアなのか、製作者勝新太郎のアイデアなのかは知らないが、第一作の「座頭市物語」(1962年)のような設定ではどうしてダメだったのだろうか。座頭市シリーズなのだから、マンネリを逆手にとって、天知茂の平手造酒を模しても何ら問題はないはずなのだ。観客が見たいのは、最後の決闘シーンなのであって、変にこねくり回したストーリー展開などは必要ないのだ。それなのに、最後の決闘シーンは気の抜けた演出で一杯食わされた感で腹立たたしい限りなのだ。名匠三隅研次が作った座頭市映画の世界観は19作目まではそれなりに維持されていたが、この20作目では勝プロ制作ということで力みすぎたのではあるまいか。救いは、若尾文子、嵐寛寿郎、寺田農らが見られることと伊福部昭の音楽を楽しめることくらいか。