米のレビュー・感想・評価
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江原真二郎さんを偲んで
江原真二郎さん
9月27日横浜市内の施設で進行性核上性麻痺により85歳で他界
オープニングロールのキャスト紹介には(新人)と表記されている
デビュー作ではないが出世作
この作品で共演したことがきっかけで中原ひとみと結婚している
媒酌人は東映の大川社長が務めたことから期待の若手だったのだろう
長男長女も芸能界入り
長男は若くして交通事故で亡くなっている
長男といえば兄弟拳バイクロッサーの弟役
兄弟2人の必殺技にはインパクトがあった
監督は『結婚の生態』『青い山脈(1949)』『また逢う日まで』『武士道残酷物語』『橋のない川(1969)』の今井正
脚本は『風にそよぐ葦』前編後編『自分の穴の中で』『橋のない川(1969)』の八木保太郎
今井正監督初のカラー作品
57年キネマ旬報ベストテン邦画部門1位
58年ブルーリボン賞作品賞受賞
時代は昭和30年頃だろう
茨城県霞ケ浦辺りの貧しい村が舞台
海だと勘違いしている人もいるようだがあれは海ではなく湖
百姓として米を作り漁師として霞ケ浦で鰻など魚を採ったりしている
田植えから稲刈りの時期をドキュメンタリータッチにリアルに描いている
前半は貧しくもなぜか陽気な生活風景が描かれている
終盤はメインキャラクターに死人が二人出て雰囲気は一変
漁に出た次男と仙吉は小舟が沈没し仙吉は網に絡まり亡くなってしまう
次男はたまたま小舟で通りかかった千代に助けられて一命を取り留める
千代の母は警察とトラブルを起こし懲役をくらいそうになり出頭出来ずノイローゼになり自殺してしまう
そうとは知らず結婚の申込みに訪れたのかスーツ姿の次男は安田家の葬儀の列に出くわす
棺桶に入った遺体を墓の中に納めに行くのだろう
よねの息子によねの死を知らされ次男と同行した次男の母は列に加わるのであった
オリンピック前で戦後間もない東京には仕事があまり無かったのだろうか農村は過疎化しておらず若者がたくさんいた
神武景気の真っ最中だから東京にはたくさん仕事はあったはずだが違うのか
アイスキャンデー売りの男と東京に駆け落ちした定子が可哀想
マムシだと嘘をつき次々と熱々のカップルを追い出す定子があまりにも惨め
次男ももう少しさあ・・・
いまいち主人公が好きになれない
女じゃないけどなぜか定子に同情してしまい心が痛い
安田家の母と娘を演じた女優二人は実の姉妹だったりする
歳の離れた姉妹なのかもしれないが随分老けた姉だな
異母姉妹なのかもしれない
昔ながらの日本の農業は機械化しておらず人力と牛
当時の農作業を拝見させて頂き勉強になるなあ
ちなみにこの作品に東野英治郎は出演していない
作造を演じたのは花澤徳衛
名前も顔も全く違う
映画comがなぜこんな間違いをしたのかよくわからない
上京し建設現場で働いていたが仕事が無くなり故郷に戻ってきた田村家の次男坊・田村次男に江原真二郎
田村家の対岸に住む安田家の長女・安田千代に中村雅子
次男の妹・田村よしのに中原ひとみ
次男の友達で仕事仲間の仙吉に木村功
仙吉の妹・定子に岡田敏子
田村家の長男・田村栄吉に南原伸二
栄吉の嫁・田村とめ子に藤里まゆみ
栄吉次男よしのの母・田村うめに原泉
次男の友達でメガネの武に梅津栄
千代の母・安田よねに望月優子
千代の父・安田竹造に加藤嘉
若い漁師の一人に潮健児
はえ縄の作造に花沢徳衛
地主の太田松之助に山形勲
どこの動画サイトでも残念ながらこの作品は観れない
しかしレンタルビデオ屋を捜せばどこかにはある
そんな名作は少なからずある
レンタルビデオ屋も捨てたもんじゃない
だが宮城県は仙台泉店だけ
岩手県に至っては盛岡店にはなく奥州店のみ
ゲオならネットレンタルで55円と便利
それでもそっちの方向に用があったのでついでに奥州店で借りた
近くもないがそれほど遠くもない
見るところに不足のない貴重な名画です
貧しさの中にもがいて生きる人間の哀しさ切なさを描き出して印象を残します。
希少宝石なみの記録価値がそこに加わります。
変質破壊されて幻でしかなくなった日本の農漁村の、その原風景美に限っても見どころたっぷりで、これほど見ごたえのある記録は他に例が思い当たりません。
しかもそこに維持され営まれたかつての生活の描写が正確緻密で、このゆえに風情にしみじみとした奥行きがあります。
「結末が悲しすぎる」「暗すぎる」「重苦しい」といった評も見られるが、少し違います。
安直な手心を加えず絶望的な現実を冷徹に描きとおしているからこそ、すべてが茶番で終ったり通俗に堕したりすることから逃れています。
それでなければ眉をしかめるだけかもしれない「不道徳」や「無軌道」に類する若者の遊びの中にさえ、切実真摯な叫びがしっかり聞きとれます。
悪ぶったしぐさや卑猥なひやかしがむしろいじらしく、胸にこたえます。これが作品に落ち着きと厚みを加えます。
地主を見ても同じです。地主と言えばお定まりのごうつくばりかよき守護者のどちらか一方、というお茶の間仕立てにはなっていません。
情けも計算も併せもつ社会の切なさを存分に凝縮して見せ、強さも弱さも等量にもつ血肉を時代の同類として応分に分け合って内容を豊かにしています。
ひとりひとりが準主人公と呼んで差し支えないほど、それぞれの苦しみ哀しみを両肩いっぱいに背負い、主題との関わりを濃厚に演じています。
この点、主役以外はおざなりの舞台小道具にすぎないいい加減な娯楽作品とは違います。
一方で、制作者の采配はあくまで冷徹で何の救いもないかというとそうでもない。
見落とせないのは、最後の場面での少年の一言。そこに作者の配慮が汲み取れます。
少年の口調には場にそぐわぬ明るさがないでしょうか。ホッと肩の力がゆるむものを私は感じ取ります。
悲しみに塗られた心の一部ではたぶん葬列を晴れがましいものと受け止めてでもいるのでしょうか。また正体の知れぬ理不尽と閉塞への少年らしい反発もあるかもしれません。
持って行き場の無い胸のおさまりの悪さが言葉となって噴き出たものが最後の一言ではないでしょうか。運命に怖じて萎縮しきることのないこの幼さこそが、主題の暗さを土壇場で裏切り、ホッと息つく明るさを灯してくれます。
蛇足ながら、頭で重なるのは長塚節の『土』の家族設定です。
『土』では娘おつぎのけなげな若々しさが読者の心の支えだが、それが『米』でも同じ。作品を通じて終始希望の源であり続ける娘のけなげさ若さだが、それでも1人で支え切るには荷が勝ちすぎる。
『土』の与吉にあたる弟少年の無知な若さが最後の場面でぎりぎりの支えとなり、そこから感じ取る姉弟の絆の強さが物語を逆にたどってしみいり、ためらいがちな明るさをあとから付け足してくれます。
2人はきっと助け合って見事に生きていく、そのなけなしの展望が残されます。制作者が用意してくれた貴重な救いであると私は見ます。
主人公級の1人である若者江原真二郎の演技にのみ中途半端な物足りなさを感じるが、それを例外とすれば、娘中村雅子以下全員、自然で胸におさまるいい演技です。完璧とは言いにくいも、このころの作品としては飛びぬけて優秀な部類だろうか。中でも江原真二郎の相棒役の若者木村功と地主役の山形勲が光り、作品の格調を押し上げています。
また上で例外とした若者役江原真二郎の演技の物足りなさも、肌で感じる好き嫌いを別にすれば、それこそが狙いどおりの好演なのかもしれない。つまり、覇気のない中途半端な色男ぶりが、生活に腰の定まらない中途半端な人生態度そのものです。
たしかにそうでしょう。彼がいかにも主人公然と力強く爽やかで凛々しくては青春ドラマになってしまう。娘心を惹く爽やかさも、甘っちょろいひ弱な爽やかさでなければならないはずです。
DVDパッケージの娘の顔が紙しばい絵がかってもひとつだが、本当はもっと可愛いです。今となってはこれも味わいの一つかもしれません。
本作を普通に観れば農村の若者達の物語にすぎません 政治の臭いは少しも有りません しかしその奥底には、ある意図が潜められていると思います
1957年公開、カラー作品
米は日本人の主食です
農業の主産品
その生産の為に日本の社会は形作られてきたと言えると思います
本作は1957年、昭和32年の茨城県霞ヶ浦の農村の田植え前の祭りから秋の脱穀の頃まで農村の生活を描いています
本作のテーマとは一体何なのでしょうか?
日本の社会の基礎構造は農村にある
それはどのようなものなのか
1957年、昭和32年の時点でそれが過去とどう違ってきてきるのか
その変化に特に注目して監督は取り上げていると思います
21世紀の農村と本作を比較すると、その狙いが見えてきます
まず65年前の農村には若者が多くいることに驚かされます
農村は人が多くお祭りは人でいっぱいなのです
現代の過疎化した農村とは全く異なります
農家は大家族で暮らしています
兄弟も3人は普通のようです
若者達は都会に働きに出るという考えがまだないように見えます
なぜなら高度成長はまだ始まったばかりの頃だからです
これから大都市にはどんどん工場も増えて、全国の農村から労働力を吸い出していくのです
その直前の光景です
中には発足したばかりの自衛隊に数年だけ入隊して帰ってきた若者もいます
都会にはまだ労働力の吸収力がないのです
耕運機も田植え機もありません
すべて人力か、せいぜい牛です
村が総出で共同作業で農作業をしています
だから農村には人が沢山いるのです
当然濃密な人間関係が農村のなかで展開され、がんじがらめになっています
生産性はとても低く現金収入も少なく生活は苦しそうです
大人達は江戸時代とさほど変わらない服装です
しかし登場する若者や子供たちは、粗末ながら洋服を着ています
ジェームズ・ディーンのように白い丸首Tシャツなどを着ているものもいます
若者達はみな20歳ぐらいのように見えます
ということは、戦後に小学校に上がったことになるのです
つまり戦後教育で大人になった初めての世代ということなのです
戦後の経済の発展に伴い、現金収入の必要性はますばかり
この霞ヶ浦の半農半漁の村でも、米をつくり魚を取るだけでは暮らしが厳しくなるばかりのようです
経済的な矛盾の圧力は高まっていることが物語から伝わってきます
閉塞感のある農村の暮らし
しかし若者達は恋愛をし、次の世代を作ろうとしています
ラストシーンでは、その矛盾に押しつぶされて自殺した女性の葬列です
そこに都会にでて農村から離れようとする若者がスーツ姿でバスで現れるのです
そしてその葬列の先頭の恋人との目配せをして映画は終わるのです
本作のテーマとは何でしょうか?
農村の生活ををリアリズムで見せることそれだけなのでしょうか?
今井正監督はご存知の通り共産党員です
そこに留意して本作を観るとただの農村の物語ではない違う意図が見えてきます
日本の主権回復と日米安保条約の発効は、本作公開の5年前の1952年のことでした
そして血のメーデー事件はGHQによる占領が解除されて3日後の1952年5月1日に起こったのです
皇居外苑でデモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件が起こって、死者までだしたのです
デモ隊は再軍備反対を叫んで、使用許可の下りなかった皇居前広場へ突入しようとしたのです
そして本作の2年前の1955年には砂川紛争という立川基地の拡張に伴う測量阻止の騒乱もおきています
これら運動は大学生が主体となったものです
戦後教育をうけた若者が大学生となり都会にでるたびにこの学生運動は大きくなっていったのです
その運動に若者を供給するのはどこか
それは農村なのです
農村が閉塞感漂うのも政治に問題があるからだ
農村が変われば日本が変わると
なぜなら、農村は米を作るところ
日本の社会の基礎だからです
それが変われば、日本は変わるのです
つまり中国共産党の「農村から都市を包囲する」毛沢東の戦略の日本における実践を映画の物語として説いているのだと思います
米とはそういう意味であると思います
3年後に来るべき60年安保闘争に動員するべき若者は農村にいる
農村を変えることで日本を変えうるのだ
そういう主張であったと思います
本作を普通に観れば農村の若者達の物語にすぎません
政治の臭いは少しも有りません
しかしその奥底には、このような意図が潜められていると感じます
本作から65年もの歳月が流れました
そんなことはすべて過去の話となりました
本作を21世紀に観る価値と意義はあるのでしょうか?
昔の農村の記録映像程度にしか価値はないのでしょうか?
確かに田植え祭りなどの光景が美しいカラーの発色で撮影されています
自分はこの当時からまるで様変わりした21世紀に、いまだに当時のままのマインドセットでいる老人達がいることに慄然とするのです
その老人達のルーツを知る
その意義はあると思います
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