「祖父母を失うということ」故郷(1972) Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
祖父母を失うということ
『男はつらいよ』と並行して作られた山田洋二監督の作品。俳優たちが被る。山田監督は某政党支持で弁護士と不倫した女性政治家の肩を持っていたのがショックで、人間としての評価は下げたが、作りだした映画の作品群は変わらない。昭和で言うと昭和47年。経済成長からの職種の変化に翻弄されてしまう夫婦を描いていた。農業も商店もそうした変化を浴びせられてきただろうが、この映画では砂利運搬船の個人営業の家族が、そうした仕事への需要が減り、日給月給の大手建設の下請けの会社を妻を連れて見学に行ったりする夫。夫婦は井川比佐志と倍賞千恵子。しっかりした寅さんのような人物として渥美清も出演している。船長さんから労働者になるのかと男が夫に言う。船長さんも労働者も同じだと夫が言うと、男は、船長さんよりも労働者のほうが金になり、船長さんのほうが労働が辛い。と言う。そして男は、どうして先祖代々やってきた仕事から出ていくしかならないのかねえ。こんな綺麗なところで住んでいられたのによお。というようなことを夫に言う。夫は長年やっていた仕事を捨てる。金にならず生活にならなくなってしまったために。大きな企業と労働者の社会に変遷してしまった。そしてこの文章を書いているのは45年後である。この職種の家族の他にも、さまざまな家族生産が同時になされていた生活が、企業化、集約化されていき、人生の在り方が変わっていった。山田洋二が共産党という、共産主義という思想を背景にする団体を支持している理由とは。だが、これは共産主義のような企業主義では無く、家族生産への哀惜の作品のように思える。監督の思想の変遷はなんだったか。それに不倫な話などは嫌っているのではないかという山田作品である。寅さんも紳士だった。どうしてそうした監督が不倫女性政治家を応援したのかわからない。現在はこの映画のような砂利運搬船の仕事の描写をドキュメンタリータッチでリアルに見せるような映画は見られないのかも知れない。仮想通貨などという、仮想な時代にまでなってしまっている。夫の労働も辛いが、それに合わせる倍賞千恵子の演技。妻の労働は男性より非力なはずなのに一緒に作業する。それは農業にも見出されていた事柄であるが、女性の強さと哀しみが身体の動作によって表される。現在はソフト化されて、カフェの夫婦経営などに残されているかも知れないが、夫婦で一緒に稼ぐという形態がもっとあれば、離婚も不倫も少子化も現在よりも無かったのかも知れない。合理化とは失わせることでもあるなら、失った後の世代では、それ以前の感覚はわかるはずもなかろう。事実は近い時期に記録されればされるほど事実が記録されるだろう。そこに記録された動画の意義がある。山田監督が非農業的な映画を撮影していったのもどうした意味だったのだろうか。妻が船のだろう免許をとれたのを、最初落ちたふりをして夫に心配させておいて、取ったよと喜ぶと、「馬鹿たれ」と夫が妻の免許証で妻の頭を数度叩く場面があるが、けっこう強い描写だが、それが現在などは夫からの妻への暴力などと感じてしまう人もいるだろう。それも何らかの失われた弱さなのかも知れないし、昔の野蛮性かも知れないし。だがそれは愛情行為だったのはわかるのだが。別の人の船が使えなくなり燃やしているのを見ながら、夫が妻に「時代の流れとか、大きなものには勝てんというが、大きなものとはなんだかの。大きなものにはどうして勝てんのかの」というような問いかけのセリフがある。夫婦で出来た仕事への哀惜である。そして、夫婦生産だけではなく、消費中心の家庭での夫婦の在り方も、離婚が3組に1組とか、不倫問題とか、現在はひどいことになっているのだ。一人残る笠智衆演ずる老人の祖父と夫婦の船での別れの時に、孫娘が別れを祖父にしがみついて船に乗るのを嫌がった場面は、核家族が当然となり、淡い祖父母と孫との関係となった現在との比較として、今の子供たちに孫娘の気持ちがわかるだろうか。言葉づらだけの三世代同居復活の自民党と、核家族が当然のリベラル野党か。