劇場公開日 1966年11月9日

「君はなぜ東京に向かう」けんかえれじい 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0君はなぜ東京に向かう

2021年9月17日
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「杉田!東京に行くぞ!」で有名な鈴木清順監督作品。

ある少女への想いを募らせながらもキリスト教の禁欲思想に愛欲を抑えつけられた主人公麒六が、そのオルタナティブとして暴力を見出してしまう、という大筋。振りかざす拳の一つ一つが彼の射精であり、下宿先の乙女こと道子への愛慕だった。

とはいえ暴力は暴力だ。それが性的不満の発散であるという大義名分はあくまで麒六個人の内部で完結するものであり、周囲に暴力を振るっていい理由にはならない。

そこで主人公をはじめとする血気盛んな男たちは、せめてもの理論武装として「男磨き」などといった空疎な抽象論を題目に掲げるが、言わずもがな愚かしいことこの上ない。喧嘩シーンも含めて作品全体がある種の諧謔性に包まれているのは、そのような愚かしさに対する透徹したアイロニーなのではないかとも思う。

岡山を追われ会津に移住したものの依然として不毛な暴力に身を投じ続ける麒六だったが、ある日岡山にいたはずの道子が彼を訪ねてくる。彼女は麒六のことを好きだと言いつつも、俗世を捨てて神に奉仕する道を選ぶ。

これを彼女の主体的な選択と読み取ることも可能だが、私はむしろ麒六の、ひいては男たちの暴力のコードから逸脱するためのたった一つの道が修道だったのではないかと思う。恋する乙女はそれを凌駕する暴力から逃避するため、恋を捨てねばならなかった…のだと。

それでも麒六の暴力衝動に終わりはない。彼は東京で大規模な青年将校反乱事件(2・26事件)が起きたことを知るや否や、東京行きの電車に乗り込む。

もはや彼の衝動の根底に当初のようないじらしい性的不満はなく、不毛きわまる「暴力のための暴力」だけがあった。

本作の制作時代を鑑みるに、本作を来たる学生運動へのアジテーション映画として捉えることには私も正当性があると思う。しかしそこには暴力の消極的肯定だけではなく、それに加えて暴力を振るう意味についての熟考/再考を促すような寓意があるように感じる。

行進する軍人たちに蹴飛ばされ、踏みにじられた道子のロザリオが大写しにされるシーンなどは、加熱する暴力衝動の陰で被害を受ける弱者たちが存在していることをありありと示している。

因果