「原作は喜劇、映画は悲劇」黒い雨 やどかりさんの映画レビュー(感想・評価)
原作は喜劇、映画は悲劇
原作との違いは喜劇的な作品を悲劇のエンタメにしたものなのか。モノクロ映画なのは原爆のシーンはすさますぎて映像化は不可能なのだろうか(どんなスプラッター映画も表現不可能なのか)?
原作は重松日記を翻訳して新たに矢須子の結婚問題を創作したことで、日記で明らかにしようとしたことが逆に結婚問題の障害になった。そのことがわからなかったのは重松が家のために犠牲になる嫁という立場に無関心であったことだろうか?その嫁の役で市原悦子は微妙な役どころを上手く演じていたと思う。
それは重松の家には年老いた母がいて、家の財産を守ろうとしている。そんな中で嫁として原爆症に掛かり義理の姉が命をかけた娘を守ることも出来ないふがいさ。それは拝み屋(神頼み)に祈るしかないのである。自分の運命を神頼みにする心労がやがて彼女の命を縮めていく。彼女が幻視する狂気は、姪である矢須子にも現れるのだが、矢須子は重松が育てている池の鯉が池の主になるぐらいに大きくなり飛び跳ねるのである(それは原作では季節外れのカキツバタであったか)。それは自然の神々の姿として幻視したのかもしれない。それはアメリカの原爆(半自然)に対しての異議申し立てだったのかもしれない。だから田中好子の演技は賞賛されるのであるし悲劇のヒロインなのだ。
しかし嫁の役の市原悦子はただの気狂いかもしれず、ヒロインには成り得ないのだった。それは嫁の狂気は家制度に対するアンチとして働くのであり、矢須子の狂気(日本の自然)とは違うのである。
矢須子の原爆症が結婚の障害であることは、元特攻隊員である青年はPTSDなのだが、彼の気持ちを一番知るのは矢須子なのだ。家制度と戦争がもたらした病のために青年の母が持ち出した結婚話をとんでもないことだと重松は考える。この元特攻隊員である青年は原作では出てこない人物で別の話から持ってきてわかりやすくしたのだろう。その青年の無垢さを重松は考ようとしない。
もうひとつ、今村昌平監督がやりたかったことで、ラストを矢須子のお遍路姿として現代に生きる姿としてカラー化を考えていたということだ。それれでは悲劇のヒロインとしてエンタメ映画では無くなるので今のラストになったという。