「昭和脳ジジイの気色悪さ満開!若者はただのボンクラ扱いw」魚影の群れ jin-inuさんの映画レビュー(感想・評価)
昭和脳ジジイの気色悪さ満開!若者はただのボンクラ扱いw
大間のマグロ漁師、小浜房次郎(緒形拳)は40を越えて体力にはやや陰りがあるものの、鍛え抜かれた頑強な身体でまだまだ若いものには負けません。負けないどころか、今でも浜一番の漁師として尊敬を集める男です。
マグロと一対一で格闘する海の上のシーンは孤高&崇高。知恵と体力を総動員してマグロ一本釣り上げれば、しばらく生活に困らない大金をゲットできます。これぞ男の生きざまです。実際に緒形拳はマグロを釣り上げたそうですが、マグロ漁の迫力を見せたいのなら俳優を使わずドキュメンタリー映画にすればいい。この映画の問題は、陸のシーンがあまりにもつまらないことです。
マグロ釣りしか能のない房次郎は一旦陸に上がると、酒を飲むか寝るか以外になにもしません。何もしないだけなら無害ですが、夫としても父としても舅としても、最低の男です。
まず、妻には愛想を尽かされて逃げられています。映画ではその理由ははっきり明かされませんが、原作の方では
『自分の言葉に妻が少しでも反発すれば、かれは妻に黙ったまま物を投げつけた。感情の激するのを抑えつけることができず、漁からもどってきた折に妻が近くに外出していて留守にしていると、かれは十日も二十日も不機嫌そうに口をつぐみつづけていた。』
『かれは妻と最初に接触した折のことを思い起こした。それは強●に近いもので、帰宅途中の妻を松林の中にひきずりこみ、拒みつづける妻を犯した。そして、その時から妻は態度を一変させて、かれにすがりつくような眼をするようになり、結婚の話にも素直にうなずいたのだ。』
と記されており、房次郎は妻をモノのように扱う男のようです。
二人暮らしの年頃の娘(トキ子:夏目雅子)には家と仕事を継がせるために婿取りを強制します。しかも横暴なだけではなく、房次郎のトキ子を見る目には、近親相姦的な気色悪さがあります。
『かれは、恐れていたことがやってきたのだとも思った。登喜子は妻に似て小柄だが、胸部のふくらみも豊かで、湯上り後などの登喜子の体からは女らしさが濃く匂い出ている。』
『房次郎は、登喜子の顔を見上げた。化粧した顔が妙に艶めかしく、別れた妻を思い起こさせた。』
いざ娘が婿(依田俊一:佐藤浩市)を連れてくれば、房次郎は結婚を頑なに認めようとしません。漁師として弟子入りを志願する俊一に仕事を仕込もうともしません。房次郎自身は実の父から手取り足取り仕事を教えてもらったというのに。それどころか、釣り糸が頭に巻き付いて重症を負った俊一を助けもせずにマグロを釣り上げます。「漁師たるもの、何があっても釣り糸を離しちゃなんねえ!」というのが房次郎の信念だそうですが、重症者を見捨てていい訳がありません。しかもこの行動の真の理由は房次郎の俊一に対する嫉妬と憎悪です。
『登喜子と二人きりの生活をしてきた房次郎にとって、登喜子が、自分以外の男と二人きりの世界をもちはじめていることは不愉快だった。俊一が、自分と登喜子との生活の中に割りこんできた無遠慮な闖入者のように思えた。生白い顔をし華奢な体つきをした背の高い俊一が、頼りなげな若者に思えた。』
『房次郎は、登喜子が他の男の妻となって自分のもとからはなれてゆくことを恐れていた。出来れば養子を迎え入れて登喜子と結婚させ、同じ屋根の下で生活をつづけたかった。が、登喜子の憎しみを買うようになれば、登喜子は家を去って、かれはただ一人生きてゆかなければならなくなる。』
『かれは、俊一に嫉妬を感じた。マグロとりの漁師になるという俊一に、思いきりその苦しさを味わわせてやろうと思った。それが、登喜子を自分から奪った俊一に対する唯一の復讐のようにも感じた。』
『得体の知れぬ快感が、胸の中に湧き上がった。それは傷ついた俊一を放置している嗜虐的な感情か、それともマグロとりの矜持をそのまま実行しているためのものか、かれ自身にもわからなかった。』
『果たして俊一が自分の息子であったとしたら、同じ行為をしたかと思うと、かれには自信がなかった。恐らくかれは、子の生命を救うためマグロを捨てて村に急いで帰ったはずだと思った。かれは、自分の行為が俊一に対する憎悪に原因があることを知っていた。』
房次郎は、漁師としてはA、夫としてはB、父としてはC、舅としてはランク外の男です。娘の幸せよりもなにしろ自分の都合が優先の最低の父親であり、最低の舅です。肉体派&戦中派の房次郎に戦後若者代表の俊一は手も足も出ずに完敗し、命を落としてしまいました。邪魔な男は死に娘と孫が残るという房次郎にとって大変都合のいい結果で物語は終わります。善は負け悪は栄える、若者は死にジジイは栄える、まさに胸糞展開です。
原作小説はマグロ漁を背景に男と女の愚かさを描いており文学的に優れています。では映画はどうか。原作小説は「昭和脳」の房次郎を好意的に描いていないのは明らかですが、映画は緒形拳を主役に据え、すっかり「いい話風」に変えてしまいました。映画では妻に対するレ●プや暴行は描かれません。なぜか北海道でばったり再会、妻の方から房次郎に身体を差し出します。十朱幸代の熱演虚しい、原作にはない取って付けたサービスシーンでした。原作では俊一はたった一人海で死にますが、映画ではトキ子に請われた房次郎が捜索に出て見事発見!ふたりでマグロを釣り上げたあと、俊一は房次郎に「子供が男だったら漁師にしてくれ…」と言い残して死んでいきます。すっかり薄っぺらい「感動話」に作り変えられてしまいました。
こんなしょうもない本作ですが、夏目雅子は一人奮闘、生命感あふれるフレッシュでエキセントリックな演技を披露しています。Wikipediaに残された彼女のコメントがすべてを表しています。
『もうめちゃくちゃしごかれてるんです。この前なんか、ワンシーン撮るのに、夜の7時から明け方の4時まで、ぶっ通しで粘るんですよ。もうメークははげるし、目にクマはできるし…。それなのに私なんか"粗大ごみ"なんて呼ばれてるんですよ。アタマにきて"ハゲ!"とか"陰気!"とか悪口いうんだけど、黙ってニィーッと笑ってるだけ。ブキミですよ、だから私、"変態仙人"ってアダ名つけてやったんです。マジに憎しみをいだいてるんです。いつか海の中に叩き込んでやりたいとスキを伺ってるの。ウフフフ。』
『相米監督がさあ、私にイメージじゃない、って言うの。夏目さんは洗練され過ぎていて、漁師の娘に見えない、って。イメージじゃなきゃあ、最初からキャスティングしなきゃいいじゃない。なのに毎日畳の上に正座させて説教するんだけど急に変わるわけないよね。親がそういう風に育てなかったのに、今更言われてもしょうがないでしょ、って言ったの。でも、相手は監督だからしょうがない、毎日付き合ってあげたけど、あまり頭よくないよね』