「ラストは映画史上に残る「奇跡」の超★演出(真剣)」江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ラストは映画史上に残る「奇跡」の超★演出(真剣)
いやあ、ラストのアレには、マジでびっくらこいた。
なにこれ? 天才じゃないすか? どうなってんの??
凄い。 凄すぎるっっ!!!
正直、途中までは……というか、ラストの5分前くらいまでは結構バカにして観ていたのだ。
たしかに、60年代後半らしい、アングラな美意識に固められてはいる。
魅惑的なカットやアイディア、美術もてんこ盛りだ。
乱歩のパノラマ島をやるとして、土方巽とその舞踏団と組もうとか、よく思いついたもんだ。
とはいえ……、映画としてのB級感、仕上がりの適当さは、相対評価としてはいかんともしがたい。
とにかく、いろいろとひどすぎる(笑)。
「殺してしまったぁ(癲狂院の看視者死亡)」(おいおい、あっけねえよ!)
「子守歌知ってたおじいさん、変死しちゃったのよ」(そんなことで口封じすんの??)
「あっ(曲芸団の少女死亡)」(段取りもへったくれもねえな!)
「きっと秘密は日本海側にあるにちがいない」(広いな!捜索範囲!)
「私とうり二つの男が!」(早いよ!しかも手がかりピンポイントすぎだろ!)
とまあ、前半戦は、3分に1回くらい、間の悪い投げやりな演出といい加減な展開にツッコミを入れまくりながら、半笑いで観ていた感じだった。ほとんどが説明セリフで展開するわ、常にテンポは前がかりで性急だわ、由利・大泉コンビの寸劇も、正直僕には面白くもなんとも……(苦笑)。
ちなみに原作では、主人公の人見は最初から自分とうり二つの男の存在を知っていて、彼の死亡を知って身代を乗っ取るべく自ら乗り込んでゆく。パノラマ島の創造者も、奥さんを殺すのも、人見本人である。
外科医がかた〇ものを人工生成するとか、双生児がどうとか、お父さんがどうのこうのとか、映画の8割方の要素は、じつは『孤島の鬼』から来ている。出だしの曲馬団の少女とのやりとりも、『孤島の鬼』がリソースだ。
その他もろもろの乱歩原作(『人間椅子』『屋根裏の散歩者』『蜘蛛男』『白髪鬼』etc.)の要素を、かなり無理やり「人工シャム双生児のように」くっつけてあるから、いろいろとお話には矛盾や無理が生じているわけですね。
菰田家に潜入してからは、作劇自体はずいぶんマシになるが、それとて天地茂のテレビ版明智シリーズとどっこいどっこいのチープさであり、それがいいっちゃいいんだけど、それはあくまでB級の面白さ、カルトの面白さである。(ちなみに、江戸川乱歩シリーズにおける井上梅次の演出って、思いっきり石井照男の影響下にあるんだということを、今回あらためて痛感しました。なまはげみたいな怪人登場シーンとか、テレビ版でもよくやってたよね。あと、蛇がどうとかw)
島に渡ってからも、いろいろ無茶な話をやっていて、このディズニーランドのキャストのような連中は、監視下にないときはどんな生活送ってるんだろう(一応強制されてんだよね?)とか、私のために奇形人間作れとかパパさん言ってるけど、そもそもムスコは自分が誰かもわからないまま億分の一くらいの偶然で帰ってきたんだよな、とかどうでもいいことを考えながら観ていた。
最終盤の愁嘆場も、まあまあ冗談抜きでひどい出来だなあ、というのが率直な感想。崖下でやってるけど、話の唐突さ加減とやっすいウェットテイストは、正直2サスよりめちゃくちゃである。
ところが。
このラストシーンは、問答無用に凄い。
まさに言葉を喪うとは、このことだ。
いや、原作(『パノラマ島奇譚』)のラストとネタ自体は同じであり、再現なので、すでに既読の方ならば、何が起きるか自体は知っていてもおかしくない。
だがこの素っ頓狂でぶっ飛んだ演出は、チープさとか、B級感とか、サーヴィス精神とか、そういう次元をはるかに超えて、どこまでもクールだ。
もはやアーティスティック、といってもいい。
仕掛けの破天荒さと、映像表現のばかばかしさと、「おかあさ~ん」の奇天烈さと、直後に訪れる刹那的エンディング。
そこには、横尾忠則や丸尾末広のアートワークのような「パッチワーク」と「コラージュ」の美すらひそんでいる。
それらすべてがいっしょくたになって、神がかり的な効果を生み出し、観客の理性と、常識と、良識を木っ端みじんに吹き飛ばす。
なんだろうね、この首投げ食らったような衝撃は。
それが、いい加減さの極北で生まれた偶発的な奇跡なのか、
ある種ナイーヴ・アートのような「拙中の巧」なのか、
はたまた天才だけが手繰り寄せた計算ずくの手わざなのか……。
とにかく、パノラマ島のあのラストのネタを映像化するとして、常人にこの演出ができるかというと、僕はできないと思う。
てかこれ、思い切り三池祟史のアレとか、タランティーノとか、結構な(カルト化したあと世に出た)後世の映画人に影響与えてるよね。
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総じて、映画自体の出来は、B級のプログラムピクチャーの域を出ないことは、既に書いたとおりだ。ただ、乱歩原作ものとしては、それなりに再現度が高いのではないかと思ったりもする。
乱歩という人は、本当は謎解きもの、本格ものがやりたいのに、ついついエロ・グロに傾斜して変格ものになってしまうという業を背負った作家だった(本人は晩年までディクスン・カーのような怪奇本格をやりたいのに、トリックの立案やロジカルな展開が苦手で、生涯自己嫌悪にさいなまれていた)。
同時に、売りがエロ・グロの通俗的な作風の割には、知的なモダニズムに裏打ちされた平明で機能的な文体の持ち主であり、あれだけショッキングな内容を描写し変態的思考をトレースしながら、総じてあまり猥雑さや草双紙的なえぐみを感じさせないという、不思議な作家でもあった。
映画版ラストの探偵役による(意外なまでに)本格味のある解明篇は、エロ・グロと変態性にまみれつつも、不格好ながら必死で「謎解きミステリー」に適応しようとふるまってきた乱歩の在りようを、なかなかうまく再現していると思う。
さらには、倒錯的な偏執性と大正モダニズムのハイブリッドだった乱歩文学を、暗黒舞踏や紅テント風のアングラを導入して再生させようとする皮膚感覚も、「60年代型・乱歩」としてはとても正しい選択だといえる。
ついでにいうと大木実が有名な俳優だと知らなくて、『黒蜥蜴』も観てなくて、原作のあらすじも知らない人が観れば、彼の正体が明智小五郎であることは意外にうまく隠蔽されていて、そのへん、そこそこミステリーマインドも感じられるのではないか。
出演者としては、やはり圧倒的に土方巽のインパクトが強いが(笑)、小池朝雄が楽しそうに狂った執事役を七変化でやりこんでいて、観ていて無性にほっこりした。この人、解明篇に出てくるリクルーターと女装と曲馬団と人間椅子のメイクだけで、ものすごい手間ひまかけてますよね。。。
あとは、クレジット見て出てるとわかっていても、ネット見るまで何役かよくわからなかった近藤正臣とか。
もう一点、本作はいわゆる「性愛路線」の延長上にある作品だが、それはもうしつこいくらいに繰り返し繰り返し繰り返し出てくる「きち〇い」「かた〇」「裏日本」といったNGワードの数々が、1969年の時点で、どれくらいタブー視されていたのかは、ちょっと気になるところだ(全家連による「きち〇い」の言葉狩りは、1974年から本格化する)。なにせ、あれだけ連呼するってのは、「ホントは使っちゃまずい」ぎりぎりだったからこそ、わざと挑発的な意味で使っていたとしか思えないから。
なにはともあれ、結構な数の乱歩原作ものや石井照男作品をこれまで目にしてきたにもかかわらず、偶然にもあらすじも落ちもなにもわからないまっさらな状態で本作を鑑賞できたのは、たいへん僥倖であった。僕は、このラストで受けたただ事ならぬ衝撃を、当分忘れることはないだろう。