祇園囃子のレビュー・感想・評価
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『アヴァン対アプレ』我が亡父が良く使っていた。我が亡父はこの類の映...
『アヴァン対アプレ』我が亡父が良く使っていた。我が亡父はこの類の映画が嫌いだった。
『こんな事やってるから日本はアプレガールばかりになって、アプレ目当ての助兵衛政治家とかが増えるんだ』って言っていた。
まぁ、同感である。
この中で、この映画の気になる台詞があった。
『アタシ見たいな者がボイコットされるのよ』
さて、ボイコットって言う言葉。死語になりつつあるが、使われ方が間違っている。ボイコットは一人で出来ない抵抗をみんなでやる事を言う。そして、普通『やる』の逆『やらない』事をさす場合が多い。つまり、スト行為の初期段階である。
と、僕がガキの頃の事。この映画を無理に見せて傍らで淀川長治先生を我が亡父が気取っていたのを思い出す。
メキシコオリンピックが始まる頃かなぁ。そんな時である。その他の内容は全く覚えていなかった。
アプレゲールとは言うようだが、アプレガールって我が亡父の造語?
我が亡父の母親はアヴァンの浅草界隈で14歳位までお茶くみをやっていた。さぁーそろそろお客をと言う時に『関東大震災』だったそうだ。その時出会って世帯を持ったのが、我が亡父の父親である。ドサクサに紛れて出荷前の商品に手を出したと言う所だろう。と祖母は言っていた。しかし、我が亡父の話は『ブスだったから売れ残ったのさ』と自虐的な解説を僕に話してくれた。
まぁ、兎も角。日本文化とはこんな物である。
追記 メリヤス屋を営む栄子の父親が東京に出向く場面があるが、僅か20年前まで新中川の界隈にはメリヤス工場らしき物が軒を連ねていた事を思い出す。今はそこに住むが影も形もない。
当時も今も同じ よくわかった
今年、先斗町の舞妓さんだった女性が明らかにしたこと、この映画の時代とまるでおんなじ。舞妓になって最初のお座敷でいきなり駆けつけ三杯、更にぐでんぐでんになるまで飲ませる。嫌がるのに変なことして構わないという男の客達。お金がなくては仕事ができない商売、着物が買えない、舞妓になる支度もできない。だから借りが出来る。舞妓も芸妓も目標はいい旦那を見つけること。花街で力のあるお母さんの意に背いたら干されてお座敷にでられない=収入ゼロ=自立してできる仕事ではない。 好きでもない客や50才近くも年上の客を旦那=パトロンにしなくてはならない。お金が必要だから。踊り、三味線、着物、鳴り物、お茶、お花を身につけた舞妓さんは伝統文化、無形文化財と綺麗事を言われたって実質は男に都合よくできている存在で世界。溝口監督の映画だから説得力あり花街の本質がよくわかる。戦前は30年代に「祇園の姉妹」、戦後の50年代に本作。監督の視点はぶれていない。
色街に生きる三世代の女性の価値観の違いを浮かび上がらせた溝口監督の秀作
「西鶴一代女」「雨月物語」と日本映画として誇るべき名作を創り出した溝口監督が、今度は現代の祇園を舞台に女性の儚い生き様を描いて味のある作品に仕上げた。社会的視野に立って、男女の業を厳しく、時に優しく見詰めた溝口監督の余裕の演出を感じて、このような解り良い秀作を生んでくれたことに感謝したい。とても愛すべき溝口映画として貴重な存在でもある。
主人公は、メリヤス問屋沢木(新藤英太郎の考え尽くされた老練の演技が素晴らしく、滋味深さに感心する)の二号の娘栄子である。前年デビューしたばかりの若尾文子が演じているが、その新鮮な初々しさが役柄にピッタリで、溝口監督の演技指導の眼がほくそ笑んでいる様に感じ取れるくらいだ。既に名女優の片鱗を見せる。その沢木は今は落ちぶれて、知人の美代子(小暮美千代が淑やかな中年婦人を美しく演じる)に救いを求める。栄子も舞妓になりたい情熱を伝えて熱心に懇願する。器量よしの栄子の本気度が伝わり、舞妓に仕込まれることになる。そして舞妓として売り出すまでの一年間を、溝口監督は見事な映像編集で描く。ここはまた、その祇園の仕来たりや風習を知らない者にとって興味深いもので、日本的な芸能文化の伝統とその奥ゆかしさが分かり易く紹介されている。挨拶回りの場面などは、その情緒豊かな雰囲気が映像から溢れてくる。
ところが、そこにはお金が動く現実的な商売の法則がある。これがこの映画の面白さになっている。色街の裏側にある男と女、欲と金の絡み合いが人間の本音と矜持を暴いていくのだ。美代子はお茶屋『よし君』の女将お君(浪花千栄子の好演)から栄子お披露目の費用を工面したが、そのお君は車輛会社の専務楠田から借りていた。それで美代子と栄子は楠田の会社の商談の使い手に利用される。上京の段取りを経て、美代子は官庁課長神崎の接待に使われる。その間に楠田は英子を誘惑するのだが、現代気質の栄子は抵抗し彼の唇を嚙んでしまう。このことで面目丸つぶれのお君は、祇園に帰った美代子と栄子を出入り差し止めの処分に課す。契約されていた仕事のキャンセルが二人を襲う。
風習に反した女二人の寂しさが、華やかな衣装とは対照的に漂う。戦前の「祇園の姉妹」に対して、戦後の世相を反映した内容は、三世代の女性の生き方の違いを鮮やかに描き出している。戦前から伝統を引き継ぐお君、戦中を生き抜いて変わろうとする美代子、そして風習に捕われない新しい価値観を求める英子。女を描いて力量が発揮される溝口監督の貫禄が生んだ、安定の映像世界の面白さと美意識と社会批評が素直に伝わる映画だった。
1978年 7月20日 フィルムセンター
祇園の舞妓だけが変わっていないのだろうか? 日本の社会そのものも変わっていないのでは無いだろうか?
1953年、昭和28年公開 原作は川口松太郎の小説で、彼は溝口健二監督と同じ小学校の同級生とのことです 原作はあれど、本作の内容は溝口監督が17年前の、戦前の1936年昭和11年に撮った祇園の姉妹のセルフリメイク的な作品です その作品は戦前の日支紛争に突入し戦争体制に日本が変わる前の京都祇園の物語 そして本作は戦後のようやく独立を回復した頃の京都祇園を描いています 戦争を挟んで一体何が変わったのか? それが本当のテーマではなかったのでは無いでしょうか 京都の街並みは冒頭の遠景、祇園の路地の光景、何の変わりも有りません 祇園の舞妓達の日常もまた変わりは無いのです 木暮実千代35歳 彼女の演じるベテランの売れっ子舞妓美代春は、身体の曲線といい、挑戦的な目鼻立ちといい実に艶っぽく大人の女性の魅力が最高潮にある姿形で、見とれてしまいます 若尾文子20歳 栄子、舞妓となって美代栄 彼女が家から逃げて来た初登場時の役設定は16歳 舞妓デビューは1年の修行を経たので17歳という役設定です まだ子供のような固い蕾といった風情があり、後の若尾文子の成熟した肉体が発散する性的な魅力はまだ微塵もありません 美代春は17年前の祇園の姉妹の時代いくつであったのか? 彼女は18歳頃であり、本作での妹舞妓となった美代栄と同じ頃であったと言うことです つまり本作は戦争を挟んで二人の舞妓の人生の対比を描くということで戦前と戦後の何が変わったのかを描くことがテーマなのです 美代栄は舞妓デビューで酔わされてしまい 本音を放言したという形で、監督は本作の構造を明らかにします 私がアプレゲールなら、お姉さんはアバンゲールやわ 美代栄は舞妓の修行の時に女性の人権という言葉に反応している女性なのです 結局、戦後になり憲法もかわり、男女平等となっても、祇園の世界は何も変わっていなかったと言うことです ラストシーンは二人連れ立ってが、祇園祭りのお囃子が聞こえる中、暮れゆく祇園の街並みをお茶屋に向かうシーンです ここで初めてワンカットワンシーンの手法が効果的に使われています 通りの奥から現れて、カメラの手前を通り過ぎて祇園の雑踏に消えていくのです このように祇園の舞妓達は、過去も現在も、そしてこれからも何も変わらずに時は過ぎ去っていき時代も変わっていくのです それは祇園の舞妓だけなのだろうか? それは日本の社会そのものも同じなのでは無いだろうか? 進藤英太郎の演じる栄子の父は戦前の旦那の象徴です 河津清三郎の演じる楠田専務は戦後の旦那の象徴なのです 戦前の体制は没落して、新しく体制が変わってもやっていることはそれまでの拡大再生産であるだけなのです 何も変わってはいないのです それが本当の本作のテーマだったのだと思います 傑作です そして今は本作から62年後の2020年令和2年です 今年の祇園祭はコロナウイルス禍によって山鉾巡行中止だそうです でもこの構造は今も変わってはいないのかも知れません
【祗園で呑んだ翌日に「祗園囃子」を観て思った事、幾つか。】
現代の京都の花街文化は、表面上では今作品で描かれる昭和28年当時と変わっていないように見える。 が、この映画を観ると当時の京都花街の因習、及び、舞妓・芸妓の置かれた哀しい立場が良く解る。 小暮実千代演じる芸妓の品性高き美しさと若尾文子演じる舞妓(何歳だったのかな、少女のあどけなさが残る)の自由奔放さが、この作品の趣を醸し出している。 それにしても、「アプレ」という単語は10数年ぶりに聞いた。(アプレ舞妓・・・現代の花街で使ったら、通じるだろうか?) 昭和20年代、日本の思春期映画の走りの作品。 滋味深くも、切ない作品でもある。 〈2019年8月13日 酷暑の京都にて鑑賞〉
若尾文子の酔っ払うとこがとてもかわいい。 豪華な着物の色とかカラー...
若尾文子の酔っ払うとこがとてもかわいい。 豪華な着物の色とかカラーで観てみたいな。 小暮美千代のような優しい芸者は本当に存在するのかな?
新進女優・若尾文子への視線
何度かTVで観たことのある作品。溝口健二監督の作品として意識して観るのは初めて。 若尾文子がまだ10代だろう、とてもみずみずしく、それでいて男の目を離さない魅力をすでに放っている。 京都・祇園の花街の人間模様を、その裏側の薄汚い部分も含めて描いている。華やかな世界には必ず裏が存在すること、これを映画を通して描いたその意図はどこになるのだろうか。 映画の世界に飛び込んできたばかりの若尾と、舞妓になったばかりの美代栄の姿が重なる。映画の世界もお茶屋の世界も生き馬の目を抜くようなことがある。そこで生きていく覚悟を問う視線が女優・若尾文子に注がれているように見えるとしたら、それは若尾に肩入れしすぎであろうか。
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