カルメン純情すのレビュー・感想・評価
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よかった!
正直、木下作品は所々やり過ぎというか、「ちょっとこれー」となってしまう演出が多くて(主に音楽)、苦手意識があったのですが、本作はそんなクセが全部うまい具合に成功していたと思えました。
常に傾いだ画面、画面の切り替わりのモーション、終盤の戦時下の記録映像を思わせるような早回し。味の濃い(濃すぎる)登場人物達。映画全体にわたってユーモアに満ちていました。
音楽は前作『カルメン故郷に帰る』がシューベルト映画だったのに対し、本作ではキチンとビゼーの「カルメン」を多用(笑)。芸術作品を写すシーンではあけすけになんちゃってな現代音楽風に金属音や電子音を使用し、アトリエの呼び鈴は銅鑼(笑)。デモ行進は特撮を思わせるオーケストラ。私的にはやり過ぎ感や作為的に感じられる木下作品の劇伴が、本作では絶妙な味わいでした。
記号化する「現代」
木下惠介の芸の幅を思い知らされる一作。前作の『カルメン故郷に帰る』の牧歌的喜劇とは打って変わって、本作では都会の喧騒と空虚を毒々しくカリカチュアライズした風刺劇が展開される。何はともあれ右翼女史と原爆女中の存在感がすごい。カルメン・没落貴族画家・ブルジョア娘の織り成す三角関係など二人の覇気の前では単なる「戦後世代」という記号へと後退してしまう。
右翼女史の表象する大日本帝国の栄光と、原爆女中の表象する戦争へのプリミティブな恐怖。第二次世界大戦終結から既に7年あまりの歳月を経ていた日本においては、「大日本帝国」も「原子爆弾」も自らとは無関係な歴史として、すなわち記号として記憶の彼方へ消え去りつつあった。大衆は来たる高度経済成長の予感に浸りながら過去にはひたすら無関心を決め込む。
右翼女史や原爆女中といったステレオタイプな誇張の効いた登場人物たちは、したがって「現代」の楽観的な世論に対する「過去」の逆襲であるといえる。「過去」の表象である右翼女史と原爆女中ばかりが全面に押し出され、「現代」を表象する3人は記号へと押し込められる。なぜなら「大日本帝国」も「原子爆弾」もいまだ「過去」に風化しえない、現今的なアクチュアリティーを有したものであるからだ。右翼女史の演説に終わるラストシーンでは、「がんばれカルメン」という投げやりな字幕の裏側でひたすら爆発音のようなものが鳴り響いている。「過去」は最後の最後までその存在を強く主張し続ける。その醜悪とも形容できる混沌ぶりには、木下の切なる反戦への意志が込められている。
『カルメン故郷に帰る』ではカラーだったのに、いきなりの白黒だ。
東京のストリップ劇場の音楽は「カルメン」が中心だ。赤ん坊を捨てたはいいけど、火事騒ぎがあり、不安になって捨てた場所へ戻ってくる二人。その家はパリ帰りの芸術家・須藤の家だったのだが、軽々しくモデルになる約束をするカルメンだった。しかし、いざモデルになってみると裸になることができない。
面白いことに、時折定点カメラが斜めに設定され、不安感を煽る演出。これもアバンギャルドな芸術に合わせてあるのだろう。
芸術家には政略結婚の婚約者(淡島)がいるのだが、彼女は男遊びに精を出し、本人も女好きで捨てた女には赤子もいるときている。その婚約者の母親が軍人の妻。髭を生やし、君が代を歌い選挙に立候補するという。かなり漫画チックな設定ではあるが風刺がピリリと効いている。
現代においても身分違いの恋は典型的だけど、これほど風刺が効いたものはない。軍人も警察も政治家も全てバカにしている。ドタバタコメディではあるものの、木下監督作品は一貫して反戦の思想を通しているはずなのに、「原爆のせいだ」が口癖のお手伝いさんの存在(笑いの対象にしている)だけは謎だ。
戦争の爆弾音が鳴り響いて「カルメン頑張れ」「第二部終」とエンドマーク。果たして続きはあるのか・・・
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