「今村昌平監督は本作をもって、70年安保の騒然とした世情の中に自身の思いの丈を映画として公開したのだと思うのです」神々の深き欲望 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
今村昌平監督は本作をもって、70年安保の騒然とした世情の中に自身の思いの丈を映画として公開したのだと思うのです
1968年、今村昌平監督の初カラー作品
南の島の眩しい日差し、亜熱帯の植物の緑、赤い土、赤い瓦屋根、色とりどりの魚、花々
それが初カラー作品の舞台に選らばれた動機でしよう
デビッド・リーン監督の作品にも負けない美しい映像があります
邦画屈指の美しい映像です
島は劇中ではクラゲ島という架空の名前で呼ばれます
ロケ地は、南大東島と波照間島です
南大東島は沖縄本島から東に400キの
太平洋に浮かぶ絶海の孤島です
船なら8時間かかります
波照間島は沖縄本島から南西に500キロ弱、石垣島のさらに50キロ先にある離島です
南大東島や波照間島は沖縄県ですから、沖縄復帰の1972年までは米国施政下のことだったのです
つまり本作の撮影時点では日本ではなくパスポートが要る島だったのです
かといってこの島に米軍は駐屯しているわけでもなく、米軍施政下であることは明示されません
中盤にジェット機が上空を通過する爆音があり、「ありゃあ、ベトナム行きじゃ」というセリフがあるぐらいです
特に南大東島の歴史については、本作の物語のベースになる、いろいろな深い因縁があるので各自お調べ下さい
物語はこうです
東京から来た技師が、因習に満ちたこの島にやってくる
目的は島にある精糖工場を閉鎖するのか拡張するのかを、工場用水確保の観点から調査することです
島民の区長は工場が閉鎖されては困るからと技師に協力をしているのだが、本当は工場が拡張されて島の暮らしが変わってしまうことは望んではいない
なので技師の仕事を妨害するように島民に裏では指示しているのです
とは言いながら、飛行場建設の話が持ち上がり工場とは比較にならない利益が島にもたらされるとわかれば、島の大事な神聖な場所も簡単に用地買収に応じるのです
島民を見つめる監督の目線は東京から来た技師と同じです
奇異な習俗の貧しい暮らしている人々と見下した視線なのです
シンパシーはどこにもないのです
島の暮らし、歴史、感情などを紹介はしてもそこにリスペクトも共感もありません
本作が一体何を言いたいのか
それを知るには、当時の時代背景をまず踏まえるべきかと思います
本作は1968年11月22日公開です
同年2月26日、3月10日、3月31日には今の成田空港の建設予定地で激烈な第1~3次の成田デモ事件が連続発生しています
また公開1ヵ月前の同年10月21日には新宿騒乱という大事件がありました
公開の2ヵ月後には1969年1月18日には東大安田講堂事件が起こっています
そして公開の3ヵ月後の1969年2月15日には、大島渚監督の「新宿泥棒日記」が公開されるのです
さらに公開の7ヵ月後には、新宿西口フォークゲリラ事件と続いたのです
これらをの事を、踏まえながら本作を観るならばだんだんと読み解けてくると思います
東京からやってくる技師
彼は米国を象徴しています
島の精糖工場
米軍基地の暗喩です
クラゲ島
日本のことです
区長
日本政府です
島民達
日本国民です
ノロのウマ
60年安保のこと
知的障害のトリ子
70年安保のこと
クラゲ島の空港建設
成田空港建設計画のこと
つまり、1968年11月の本作公開時点での日本を取り巻く政治情勢をクラゲ島のお話としてなぞらえてあるのです
ある男女が、白人の特徴を備えた仮面を被った島民達に追われ、組織だった制裁が加えられるシーンがあります
これは機動隊によるデモ隊制圧のことでしょう
つまり米国の言いなりになって機動隊はデモ隊を暴力もって屈服させたとの主張です
制裁をうけるのがウマと根吉であるのは、60年安保の時もそうであったということです
ウマは区長の竜を殺してはいません
勝手に死んだのです
つまり無実のデモ隊に理不尽な暴力が振るわれているとの抗議です
トリ子は70年安保を象徴しています
今村昌平監督は1926年生まれ
本作公開時42歳です
彼の20歳代は戦後すぐのこと
今村昌平監督か黒澤明監督の「酔いどれ天使」に感動して映画監督を志して東宝への入社を希望したが募集がなく、1951年に松竹大船撮影所に入ったのは有名な話です
「酔いどれ天使」は1948年4月公開
そして同年6月1日は東宝争議が最高潮に達していたから東宝は助監督の募集どころでは無かったのです
しかし本人にの政治的な志向は自身の出世作「豚と軍艦」に明確に示されています
彼の目からは70年安保に向かう左翼運動が、ひどく幼稚なものに見えていたのだと思います
だから彼女は知恵障害がある設定なのです
そしてこのような監督のメッセージも込められてあるのです
彼女が孕むのは技師の子供です
そして5年後には実はもう生きていないと事が暗示されるシーンが挿入されます
米国と迎合するな、子供は堕胎させろ
米国と寝るような女は生きていてはだめだ
米国は米国の思惑があるのだ
利用されるだけだ
ラストの場面は5年後です
クラゲ島には空港が完成しています
最後は海の向こうに何か赤い小さなものが浮かんでいるのをカメラが捉えて、エンドマークとなります
あれは制裁が加えられた男女が乗っていた小舟の赤い帆です
その帆柱には女が縄でくくりつけられたままになっているはずです
もちろんとうにミイラになっていることでしょう
成田国際空港が反対運動を押し切って、将来開港することがあっても、反対運動を暴力的に制圧した結果であることは、必ずや後々明らかになるであろうという意味です
大きな石が巨大な男性器の形をしています
それが終盤で20年かけて掘られた大穴に先端から落ち込みます
その様は男性器を挿入する性行為の大写しそのものです
そして、そのシーンは空港建設計画で竜区長から立ち退きを要請されたシーンの後にあるのです
すなわち「この○○○○野郎!」という監督の罵倒だったのです
そのように今村昌平監督は本作をもって、70年安保の騒然とした世情の中に自身の思いの丈を映画として公開したのだと思うのです
では題名の意味するものは?
神々とは?
島民達の信仰する神々のこと
島民は日本国民のメタファーなのだとしたら?
今村昌平監督の政治的立場から類推すれば自ずと分かるはずです
今は2023年です
本作から55年の年月が経ちました
すべては昔話
70年安保以降は大きな反対運動が起こる事もなくなり、そんな事を唱えること自体ナンセンスになりました
成田空港は本作の10年後の1978年に開港しています
これを廃止するなんて考えられもしませんし、21世紀生まれの人からすれば、なんで反対運動なんかしていたんだろう?と不思議に思われるほどでしょう
しかし今現在も本作当時のマインドセットのまま生きている人々はいるのです
成田空港のど真ん中にポツンといまものこる監視小屋のように
半世紀以上経って何もかも変わってしまったのに、当時のまま物事をみている人々です
団塊左翼老人と言われる人々の事です
彼らが本作を高く評価するのはそれが大きいと思います
21世紀の時代に生きる私たちが本作を観る意義は何でしょうか?
美しい映像もたしかに価値はあります
それよりもこのようなマインドセットで今も生きている人々がいるということを知ることだと思います
彼らに洗脳されて利用されないために
前任技師が腑抜けにされたように、新しく来た技師が腑抜けにされかけたように
そんなことにならないように気をつけないとなりません
蛇足
ある登場人物がこう言います
となりの島にはあくせく働かなくても良い島がきっとあると
その二人の男女は島を抜けだしてその島を目指すのです
自分達はそこで神になり子孫を増やすのだと
本作公開の1年半後に起きる1970年のよど号ハイジャック事件を予感させませんか?