「あまりにも昭和的な」蒲田行進曲 char1さんの映画レビュー(感想・評価)
あまりにも昭和的な
半端じゃない熱量で圧倒される映画だが、反面、様々な問題を抱えているので手放しで称賛してはいけない作品だと思う。
まずはとにかく「日本的」だなと感じた。日本の映画だからそれはそうだろって話かもしれないが、日本人はどの民族よりも「自己犠牲」ってものを尊敬し美化する、というような話を聞いたことがあり、それを体現したような映画だと思った。おそらく外国人がこれをみたとしたら、登場人物は変な人たちばっかりだなって思うだろうし、昭和から平成とんで令和の時代に初めて本作をみた日本人である自分としても、多少理解はあるにせよ、まあ変な人たちばっかりだなと思った。
現在になってみればむしろ、前時代特有の不健康でイビツな部分が際立って見えてしまった。「日本的」というか、「昭和的」と言ったほうが正しいのかもしれない。
「自己犠牲」を美化しているのがこの映画の一つの大きな問題点だと思う。ヤスは「銀ちゃんへの忠誠」と「小夏への憧れ」を基点として、妊娠中の小夏のために「コレがコレなもんで」というセリフを多用しつつ、自分の体を犠牲にしてお金を稼ぎ、最終的に周囲の反対を振り切って「階段落ち」という命を天秤にかけた犠牲を決行する。
小夏は小夏で、「銀ちゃんへの愛」と「子供を産む」ことを基点に、自分の幸せを顧みず、自己犠牲を繰り返すが、最終的にはヤスといることによって幸せを見出し、自己犠牲のループから抜け出す。しかし、そんな小夏の感情を踏みにじるようにして、ヤスは階段落ちを決行してしまう。この階段落ちも、「銀ちゃんへの忠誠」というのが基点であるので、ヤスは最後まで「自身と家庭の幸福」よりも「他者への忠誠と自己犠牲」を選んだことになる。
であるから、忠誠心とか自己犠牲をそれほど尊いものだと思っていない自分はクライマックスの階段落ちに感情移入ができず。家庭の幸福を差し置いて自分を犠牲にするほどのものでもないんじゃないの、と思ってしまった。ヤスが死んだところで、銀が一時的に助かって保険金が入るだけなので。「アルマゲドン」みたいに全人類が助かるのならわかるけど、命を賭けるほどの意味が見出せず。詰まるところ、「忠誠心」や「自己犠牲」が舵を握ってあまり意味のない行動をしているように感じてしまった。
最後、結局ヤスは一命を取り留め、子供も無事に生まれて、これからやっと家庭に幸福が訪れるのかな……と思わされたところで「カット」の声が響き、これまでの物語が全部「劇中劇」だったということが知らされる。
……なんじゃそりゃ。
この唐突な「カット」は正直理解ができず。「ただのハッピーエンドにはしないよ」というひねくれ心なのか、「人生もドラマだよ」っていうメッセージなのか、とにかく説明不足が過ぎる。
最後の最後で第四の壁破られても反応に困ってしまうので、特段伝えたいことがなければ、普通に映画の中で完結させてほしかった。
限りなく日本的・昭和的な映画だけど、ヤスの四畳半のボロ部屋にジェームスディーンのポスターが沢山貼ってあるのは印象に残った。この映画が公開されるずっと前にジェームズディーンは自動車事故で亡くなっているので、この時からヤスは「死」というものを意識していたであろうことが伺えた。また、映画のはじめの方で、銀ちゃん一味が撮影現場の例の階段を視察しに行った際、去り際に階段をなめるように観察したのがヤスなので、この時点で物語の結末はなんとなく予測がついた(最後は死ぬのかなと思っていた)。
ジェームスディーンのポスターといい、小物の使い方はすごく良かった。激昂した小夏が、鍋を木刀でぶっ叩いて、囲炉裏にこぼれた鍋が「ジャー」って凄い蒸気をあげるシーンも迫力があって最高に視覚的だった。
この映画の一番の問題とも言えるのが、登場人物の男尊女卑・女性差別的な振る舞いだと思う。描かれている世界の中ではそれが常態化してて、小夏が置かれた状況に「かわいそう」だとも思えず、「なぜそれを許す?」と思えるような度を越えた振る舞いが続く。結局、この時代の男が書いた話なので、全てを許容する小夏は「男の理想」でしかなく、そもそも物語の始まりは「妊娠した愛人を子分に押し付ける」っていうめちゃくちゃなものだし、途中の銀ちゃんのプロポーズのシーンなんかは本当に気持ち悪かったし害悪だとさえ思う。
映画としては熱量があって面白い。けど、女性差別をはじめ、さまざまな倫理的問題を抱えているので、手放しでこの映画を称賛してしまってはいけないと思う。「あまりに昭和的」な映画であるから、現代では通用しない(させてはいけない)価値観が多い。「古き良き時代」で済ませてはいけない問題だと思う。