「最も楽しい小津映画!? ーー戦後の新しい住宅街ネットワークと無駄話の効用」お早よう nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
最も楽しい小津映画!? ーー戦後の新しい住宅街ネットワークと無駄話の効用
1959年公開の小津安二郎のカラー映画での初期作品だ。公開当時のキネマ旬報年間ベストテンでは12位。トップ10入りを果たしていなかった。先日鑑賞した代表作の一つ「晩春」はなんだか緊張してみてしまったが、今回は気楽にみようと思った。上映時間94分と短めだし、子供が主人公の軽めのコメディでもある。
楽しい作品である。〝おなら〟という軽めの下ネタが繰り返され、なんども笑わされる。本作の舞台である、平屋のアパート群は、江戸の長屋のモダンなリメイクのようだ。そして〝長屋〟の住人同士のやり取りは古典落語のようで本当に楽しかった。
同時に、1959年(昭和34年)の東京という場所、そこで生きていた人の姿が保存された社会派ドキュメンタリーの側面も感じられた。楽しさの奥に、社会観察者としての小津のクールな眼差しと凄みを感じ、どんどん引き込まれてしまう。
休日にも関わらず、今回の特集上映の中でも客席は空いていた。しかし、ここまで「晩春」「東京暮色」「秋刀魚の味」と続けて鑑賞してきて、ここまでの3作同様、満点をつけるしかない大傑作だと思う。また次の機会があれば絶対に観たい作品だ。
公開時にはトレンディドラマ的なものだったのかもしれない。新しい住宅街を舞台に、急速に普及する新しい家電「三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)」の購入をめぐるドタバタ劇でもあるからだ。
しかし小津作品だから、時代の流行を取り入れたというだけではない。その時代に生きる人たちが、どんな行動原理で動いているのか…、その行動を引き起こす社会的圧力は何か…それらが描かれている。
小津監督は、社会学者・人類学者のような視点を持っている。柳田國男のような人でもあったのではないだろうか。本作は、当時の社会を家庭の内側から記録し、保存した作品となっている。時代が経てば経つほど、価値が増す貴重な記録になっているのだ。
ここに登場する人たちは、僕の父母でもあるーーそんな気持ちで、生まれる前の両親とその家族の生活を見るような思いで見させられた。実際、主人公の二人、佐田啓二演じる失業中の翻訳者の福井と、久我美子演じる会社勤めの節子は、僕の父母とそれほど年齢は離れていない。
彼らはどんな思いで生きていたのかを、当時の社会と結びつけて考察してみたい。
本作は、公開された1959年当時の現代劇であると思う。「もはや戦後ではない」という経済白書の宣言は1956年。神武景気から岩戸景気へと移行する高度成長の入り口の時期である。いわゆる消費社会の始まりの時期でもあるし、地方から東京に人が集まり、首都圏を形成し始めた。東京近郊に中流階級の人々が住んで、都心でホワイトカラーとして働く時代の始まりでもあった。
新しい住宅は、小さくて狭い。家族が集まる居間には、ちゃぶ台が中心にあって、夕食後m家族はそこで静かな時間を思い思いに過ごし、時折会話をしている。
この居間に「テレビが欲しい!」というのが今回のもう一方の主人公である子供たち、実と勇の切なる願いだ。この映画の後には、今の中心にテレビがある時間がやってくる。
テレビのない居間の、食後の夜の時間が印象的だった。静かに、それぞれ思い思いのことをしながら、ぽつりぽつりと喋ったりする。携帯やネットなどのメディアに囲まれて、空白の時間などほとんどない今の暮らしから見ると、瞑想の時間でもあり、本当の家族の団欒はこういうものかもしれないと感じた。家族が身を寄せ合って、テレビや携帯に意識を奪われずに時間を過ごした最後の時代でもあったのだ。
今回のテーマはタイトルでも示された挨拶や相槌の言葉だ。
無駄口ばかり叩いて「黙っていなさい」と言われた実と勇の二人が、絶対に喋らないと決意する。その小さな反抗が、家族からご近所、そして学校にまでどんどん波紋を広げていく。
人と人がつながっていた時代だ。実際、一人暮らし用の僕のマンションでは挨拶しない人の方が多い。会社でも、無言で自分の席につく人も少なくなかった。挨拶が大事だという当たり前のことを今更感じるし、そうやって共同体の秩序を大事に守っていた時代を、好ましくも感じるのである。
無駄話ばかりだと叱られた少年・実の、親への抗議のセリフが見事だ。
「おはよう、こんにちは、こんばんは、ごきげんよう。いい天気ですね。ああ、そうですね。何だよ、大人の方が、無駄話ばかりじゃないか」
確かにそうだ…と大人たちは考え始める。自分たちの無意識の挨拶や相槌には一体何の意味があるのだろうかーーと。
ここまで4作品見てきて、小津監督の映画の凄さは、人の無意識を描いていることだと感じている。人は自由意思で動いていると思いつつ、かなりの部分自動操縦で動いている。その場や相手に相応しい型を自動的に呼び出して、その型通りに考え行動する。状況に人は動かされているのだ。
個人を描いているようで、社会システムや人の無意識の規範を描き出してしまうのが小津監督だ。だから、人類学者や社会学者の視点を持っている人だと感じるのだ。
ご近所のおばちゃんたちは、近所を動き回って、情報を流通させることで、ご近所という社会の規範を守っている。会話が筒抜けだから、意図しなくても伝わってしまうことも多い。
どの家庭にどんな家電が導入されて、誰がいい人で、誰がケチか…。そんな情報を流通させることで、ご近所という社会を維持している。時にそれが軋轢を生むが、何らかの努力で解消される。
隣近所の距離が近すぎて、何だか面倒だなあと思う。実際、外国人とのカップルらしきハイカラな夫婦は、そのせいで引っ越していってしまう。テレビを見たがる子供たちを自由に自宅に出入りさせる好人物だが、異質な彼らをご近所は許容せず、子供を遠ざける。
この夫婦だけが持っていたテレビは、数ヶ月から半年分の給料を持っていかれる高額な買い物だ。1957年は7%程度の普及率が、この映画の翌年1960年には、45%と2軒に1軒は持っている状態になった。
この急速な普及を支えたのも、ご近所同士のネットワークの濃さが関係しているだろう。どの家庭には何があるかが話題の中心でもあり、それがこの時代の同調圧力として強力に作用したことが、この映画のご近所コミュニケーションから伝わってくる感じがする。
笠智衆演じるサラリーマンは、定年後やっと再就職先を見つけ、家電の訪問セールスマンになった東野英治郎演じるご近所の男から、テレビを購入する。
ご近所の〝お互い様〟の助け合いだ。同時に定年した先輩に未来の自分の姿を見たのだろう。もうすぐ自分にも訪れる定年への恐怖が描かれていたと思う。
当時は55歳定年である。急速に寿命が伸びて、定年後の暮らしというものに直面し始めた世代だ。しかし、国民年金はまだなかった(1961年が制度のスタートだ)。
そして、本作の主人公の佐田啓二と久我美子演じる20代の二人。この二人がリラックスした演技を見せていい感じである。彼らも当時の社会圧力を受けている。女性は25歳で行き遅れと言われ、結婚圧力が強かった。平均初婚年齢は、男が27歳、女性が24歳くらいの時代である。
この二人は、戦後の自由な空気をまとっているが、それでもそろそろ結婚ということを内心意識していて、その候補として相手を見ている。
久我美子の方が、佐田啓二に翻訳の仕事を依頼して支えているようでもあるし、それを口実に関係を深めるきっかけを作ろうとしているようでもある。
そして、佐田の方は、自分を社会の落ちこぼれだと自虐しつつ、母の勧めにその気になり始める。そして、本作のテーマである挨拶と無駄話を武器に関係を深める予感を抱かせて映画は終わる。
人と人との距離が近かった時代の、潤滑油としての挨拶と世間話の効用を描いた映画。これまで見た小津の映画の中でも、最も多幸感に溢れる楽しい映画であるけれど、その中にも社会システムに動かされる人の姿がきちっと描かれる。そうやって動かされている人それぞれが、戦後社会の倫理を身につけ、良き人として生きようとしていることに、なんか感動してしまうのである。
動かされているというのは、昔の人は、なんだかんだ同調圧力に屈していたとかいうのではない。昔のことだから、それが見えやすかっただけだ。今の僕たちだって変わりない。
現在では、宣伝広告はより巧妙にパーソナライズされるようになり、自分が欲しいから買っているのか、欲しいと思わされているのか、わからなくなってきている。そして、今後は生成AIに判断を任せるようになり、アルゴリズムに人生を乗っ取られるかもしれない…という時代になってきている。
もうそれは巻き込まれるしかない時代だけれど、それでも本作の登場人物たちのように善き人として生きていくしかない…そんなことを思わされる傑作であった。
今回、菊川Strangerでの小津安二郎集上映では、「東京物語」はじめとする有名な傑作を脇に置いて、本作のビジュアルがメインで使われていた。本作はプッシュしたい小津の佳作であるということではないだろうか。
そのおすすめ通りの大傑作だ。小津映画らしくない感じもあるけれど、相手を選ばずお勧めできる作品でもある。未見の人にも伝えていきたいと思ったし、僕自身もまた見返したいと思っている。
