「この映画の存在理由を理解出来ていないと奇妙な指摘を招くことに」ウルトラマン(1967) アンディ・ロビンソンさんの映画レビュー(感想・評価)
この映画の存在理由を理解出来ていないと奇妙な指摘を招くことに
『長篇怪獣映画 ウルトラマン』と銘打たれた今作は、ウルトラシリーズの劇場用作品第一号である。
のみならず、恐らく事実上「世界初の長編カラー“巨大ヒーロー”映画」という称号さえある作品であったとも。
しかしなぜ、このような「TV放送済み作品の再編集版」の形でわざわざ制作してまで劇場上映を行ったのか?
単純に言えば、カラーTVの所有率の低さと、今風の“見逃し配信”的な役割に尽きるだろう。
しかも、『ウルトラQ』のときは白黒作品だった事で35mmフィルムで撮られていたが、『ウルトラマン』ではコストの関係から撮影こそ16mmに切り替えていたものの、合成だけは35mmで行ったりなど、作品のクオリティ自体は高かった。
もう一つは、この最初の『ウルトラマン』は、作れば作る程“赤字を生み出す”という、全く採算が見合わない状況下で制作されており、超絶的な視聴率であったにも関わらず“打ち切り”にせざるを得なくなったという事情も抱えていた。
要するにこうした劇場上映用作品化により、少しでもそうした事情への対策になればという部分もまた見えてくる。
また、そんな「いっぱいいっぱい」の状況下に於いては、“完全別撮りの劇場版新作”どころではなかったとも思う。
実際に、最初の放映中の後期には、『ウルトラマン ジャイアント作戦』と題された脚本が、劇場版の次回作として用意され、それが却下されて分割したもので4クール目の脚本とする案についても延長自体が上記の理由等により実現叶わず、幻の作品に終わったという経緯も明かされている。
本放送当時、リアルタイム世代は白黒テレビで観ていたにも関わらず、雑誌や各種メディア媒体、プラモデルやおもちゃのカラーリングやパッケージから作品世界の配色を理解しており、「さも、実際にカラーで観ていたが如く錯覚を起こした状態」の記憶になっていたりした。
後年、昭和50年代あたりになって、盛んにそれ以前の時代のTVマンガや特撮ヒーローのカラー作品の再放送が行われた時期があり、その際にはウルトラシリーズは勿論『怪奇大作戦』などの他の円谷作品、東映系、東京ムービー作品等を“再び目にすることとなった”が、その時に「まるで初めてその作品を観たかのような錯覚」を覚えた事があり、その時になって初めて「カラーで動いている実際の姿を見る事が初めてだったからなんだ」という事に気付かされた。
特に、良く分かっていた筈の“科学特捜隊の全身オレンジ色の隊員服”の「実際に動いている状態のその姿を初めて眼前に目にした」際には、その鮮やかさは最早衝撃的さえありかつ、妙に気恥ずかしいような感覚さえ覚えたことが忘れられない。
東宝作品『キングコングの逆襲』との併映上映用の劇場用作品としての、上映時間内に収める為の制約やテンポも考慮した作品収録話の選択と再編集を施さなければならない関係上、現時点に於いては指摘されてしまう「なんで?」とツッコミを入れられてしまい「納得が行かない」「理想的と思えない」ような部分がある事を論って、不当に厳しい指摘や現時点での基準に基づいた評価を当てはめるには当たらない、それは酷というものである。
「少しでも子供たちを楽しませたい」との金城哲夫氏の思い、願いをここから感じる事は無いだろうか?
参考までに、TV版の『ウルトラマン』の最終回は、後の『ウルトラセブン』の前後編にわたった最終話「史上最大の侵略」に比べると、ウルトラマンの死をもって迎える終焉としては随分唐突に感じられ、リアルタイムでそれに遭遇させられた子供達に衝撃をもたらす事となった。
当時の事情を明かすと、実はその「ウルトラマンが死ぬ」という話は直前にはリークして、私たちの耳に届いていたのだ。
しかし実際に我が目でそれを観るまでは「そんなの嘘だ、ウソ言いやがってっ!」と思って信じなかった。
というか、信じたくはなかった。
実際に観て、正に言葉を失ったというか、みな悲しみに暮れて、まさに涙で「夜空を見上げた」という感じの、最後の一話でいきなり唐突にその時はやって来た。
しかし、元の構想によればこの最終話に向けては“連作”の形が取られており、段階的に「ウルトラマン攻略計画」が進行していくというものだった。
その名残に、各話も関連付けを外した形で、そのストーリー自体はそのまま映像化がなされている。
元はメフィラスを筆頭とした「ウルトラマン攻撃対策会議」の席に於いて、「メフィラス星人」、「酋長怪獣ジェロニモン」、「ザラブ星人」、「ダダ」やその他の名称不明も含めた星人などが顔を揃えており、そこで「我こそが」と名乗りをあげてメフィラス、ジェロニモンと次々にウルトラマンに挑んではみなは敗退した後、そしてその最後に控え“その時”に向けてゼットンを育て続けていた「謎の宇宙人(=後にゼットン星人と命名)」がついに真打登場の如く、「その時が来たれり」とばかりの万を期しての“ウルトラマン攻略怪獣”を従えての挑戦の時を迎えた、といった流れで最終話に結びつく展開だった。
要するに、ウルトラマンの取り扱いには手を焼いた、地球攻略を狙う者たちによる、共通目的の合同の「ウルトラマン攻略計画」の末に送り込まれた最終兵器がゼットンだったという事で、「たまたまウルトラマンが苦手な所を突いてくる、相性の悪い強敵だった」のでは無かったというのが真相であり、要するに“ウルトラマンを殺す事を目的に研究し尽くした”末、その目的の為に育てられて差し向けられた“アサシン(暗殺者)”だったのである。
そう、「虚を突かれたからなどという理由だけで、あのウルトラマンがやられたりする筈なんか無かった」んだ。
ずっと後年にはなってそれを知った時、数十年に及んだ心の中で何だかモヤモヤが残り続けていたものが存在していて、それが突然に消え失せたように思えた。
この連作構想については、放映終了後に発表された事があるノベライズ『ウルトラマン絵物語』で確認することができる。
今作の「放送済みの数話を束ねた長編劇場版」と、「最終話に向けての壮大な連作構想を分割再構成話」という逆さな、対照的な関係には何とも皮肉を感じさせられる。
最後に、このシリーズとも既に半世紀超えの身としては、
「ただウルトラマン好きの、自身がおぼえた良し悪しだけ」で語るという行為を目にした時、そういうのってどうなんだろうか?、それが誰にも負けない愛情のつもりなんだろうか?、と違和感を覚えずにはいられない。
製作者の意図や当時の苦労を汲む事も出来ないことって、どうにも心が寂しくなります。