「赤ちゃんのために(石坂洋次郎と石原裕次郎)。」乳母車 文字読みさんの映画レビュー(感想・評価)
赤ちゃんのために(石坂洋次郎と石原裕次郎)。
1956年。田坂具隆監督。父が若い女を囲っていると知った女子大生は、母もその事実を知りながら黙っていることにもやもやとしたものを感じ、若い女の家を訪ねる。すると、そこには女の弟と父と女の間に生まれた赤ちゃんがいた。女の弟と若い者同士の潔癖かつ率直な会話をした後、主人公は乳母車ごと赤ちゃんを一時的に連れ去ってしまう。それから、女や女の弟との関係、父と母との関係が少しずつ変わっていく、という話。
それぞれに事情を抱えている大人たちの関係をなんとかしようという若い二人だが、急進的にすべてを壊そうとはしない。惚れたはれたに理由はないこと、それでも社会的な折り合いをどうつけるかという問題は残ること、を冷静に会話で解決しようとしている。合言葉は「赤ちゃんのために」。
乳母車を奪うところで終わっている石坂洋次郎原作の短編がすばらしく、さらにそれを短篇集に入れた三浦雅士の評論「石坂洋次郎の逆襲」の内容に感じるものがあったので、購入して鑑賞。石坂洋次郎の小説もその映画作品も極めて入手しにくいが、この映画は石原裕次郎が出演していたからかろうじて入手できた。そういえば、石坂洋次郎と石原裕次郎はゴロが似ている。ともに慶應出身だし。
三浦によると、映画作品での追加部分の構想には石坂が絡んでいるだろうということで、中盤以降の展開(母の家出、父と女の別れ、赤ちゃんのために)の論理展開はおもしろい。みんなそろって会議をする場面の論理展開で「女が男に頼っていてはいけない」というのは確かに石坂っぽいし、父が場をまとめるように最後に感慨を述べておわるところなど、現状の道徳(年長者への経緯とか男の責任とか)を合理的だが理念的な概念だけで否定しないという石坂っぽいところが現れているようにみえる(つまり微温的。父だけ座布団に座っているのが象徴的)。上部構造と下部構造でいえば、若者たち、妻、女が生活や仕事(下部構造)の問題を指摘するのに対して、父だけが自分に都合のよいことだと反省しながらも、心情問題(上部構造)にこだわっているように見える。
DVDと一緒についてきた付録によると、この映画には「太陽族映画」でデビューした石原裕次郎のイメージ(反逆する若者)を変えるために作られたという文脈もあるようだ。石坂洋次郎の作品が反逆とか抵抗とは程遠い現状肯定につながる性質をもっているからだろう。もちろん、三浦がいうように、一見現状肯定にみえる石坂の作品には恐るべき女性尊重の論理が隠されているのだが、最終的には現状の道徳観念を壊してはけない、人間は観念だけでは変わらない、というところにたどり着いている。赤ちゃんの存在によって「すべてよし!」となっていくところにそれが現れているだろう。