雨月物語のレビュー・感想・評価
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溝口作品の傑作に触れる。祈りにも似た思いに触れる。
溝口作品でも評価の高い本作は、戦によって村人のささやかな幸せが無残に奪われていく様と、非常時に試される愛の形といった部分が際立った幻想譚だ。物語自体は江戸時代に執筆されたというが、1953年という製作年から考えると、観客の多くはこの戦争をつい数年前の「太平洋戦争」として受け止めたはず。家族と生き別れたり、死んだ妻と会いたいと思ったり、どうにかして生き残ろうと歯をくいしばる姿には、当時の人々の胸の内側が大いに反映されたことだろう。もちろん、湖に立ち込める不気味な霧に始まり、お屋敷にはびこる生き霊、そしてラストを飾る妻の逸話に至るまで、心の内側に隙間風が吹くような不可思議なエピソードとそれを見事にまとめ上げる演出には舌を巻くばかり。それら決して美の範疇で終わらせず、自宅に灯った明かりがもう二度と消えませんようにと、こちらを祈りにも似た気持ちにまで高める流れに、溝口作品の真骨頂を見た思いがした。
傑作
なんと妖艶な!さすが歴史的傑作、レベル違いの美しさでした。上田秋成の小説+モーパッサンの短編を元にした脚本は素晴らしく、ヒューマンドラマとしてのメッセージもバッチリです。観てよかった!時を超える名作とはこういう作品か。
教訓と伝奇
雨月物語とは上田秋成(1734~1809)という歌人が書いた読本だそうだ。
読本とは江戸時代後期に流行した伝奇小説集。南総里見八犬伝や本朝水滸伝など、勧善懲悪や因果応報の作風で構成された大衆娯楽で貸本屋を通じて流通した、という。
映画雨月物語は雨月物語のごく一部であり、かつ雨月物語とは異なる話になっている。
『上田秋成の読本『雨月物語』の「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編に、モーパッサンの『勲章』を加えて、川口松太郎と依田義賢が脚色した。』
(ウィキペディア「雨月物語(映画)」より)
二組の夫婦が出てくる。
源十郎は畑仕事の傍ら焼物(陶器)をつくって大金をえて味をしめる。
藤兵衛は侍になりたいという野望がある。
簡単に言うと、夫の利欲や不相応な野心によって妻に不幸がもたらされる──という話になっている。妻はいずれも、倹しくとも幸せに暮らせるならそれでいいと思っていて、じっさいに「あなたさえいてくだされば、あたしはもう何にもほしくはありません」という田中絹代の台詞もある。
ところが源十郎は欲をかいて焼物を売りに街へ出て、残してきた妻は落武者にころされてしまう。藤兵衛はにわか侍になったものの妻は遊女に成り下がる。
それら二組の夫婦の話をベースにしながら源十郎を幻惑する亡霊(京マチ子)の伝奇が絡んでくる。
市場で焼物を並べている源十郎のところへ明らかに高貴な出で立ちの女と女中がきて焼物を買い朽木屋敷へ届けるようことづける。
その段階では説明がないにもかかわらず京マチ子が演じていることによって亡魂にたぶらかされる源十郎という構図が見えてしまう。
つまり京マチ子の「明らかに現実的ではない妖艶」は彼女がこの世の者ではないことを最初から説き明かしてしまっていた。
羅生門と雨月物語には京マチ子の特別な女の感じ=不世出の女優の気配が濃厚にあったと思う。
源十郎は京マチ子演じる武家の亡魂に魅入られ朽木屋敷に入り浸って精気を吸われるが、神官に死相をさとられて呪文を身体に書いて難から逃れる。それは耳なし芳一のようだった。
やっと里へ帰って妻と子供に迎え入れられ束の間の幸福に浸る。が、それがアウルクリーク橋の出来事のような幻想落ちになっていて、実際には妻は亡くなり、子は村年寄が世話をしている。
一方藤兵衛の妻は「いくら言ってもおまえさんはばかだからじぶんで不幸せな目にあわなけりゃわからなかったんだね」と言ってふたりは再出発をする。
わかりやすい教訓に幻想が加わって映画の品位をあげている。加えて96分という尺に潔さがあった。
imdb8.2、RottenTomatoes100%と93%。
英題はUgetsuとなっていて海外でも絶賛されている。
『1953年にヴェネツィア国際映画祭に出品され、銀獅子賞を受賞した(金獅子賞は該当なしだったため実質的にはこの年の最優秀作となった)のを機に、1954年にアメリカ、1959年にフランスで公開されるなど海外でも上映され、フランスの映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』が発表した年間トップ10(英語版)では1位に選ばれるなど賞賛された。この作品もほかの溝口作品と同様に、ジャン=リュック・ゴダールやジャック・リヴェットなどのヌーヴェルヴァーグの映画人に大きな影響を与えた。
映画批評家のロジャー・イーバートはこの作品を「すべての映画の中でもっとも偉大な作品の一つ」と評しており、最高評価の星4つを与え、自身が選ぶ最高の映画のリストに加えている。マーティン・スコセッシはお気に入りの映画の1本にこの作品を選んでいる。BFIの映画雑誌『Sight & Sound』が10年毎に発表する史上最高の映画ベストテン(英語版)では1962年と1972年の2度のランキングでベストテンに選ばれた。また2012年のランキングでも批評家投票で50位、監督投票で67位に選ばれており、監督ではスコセッシ、マノエル・ド・オリヴェイラ、ミカ・カウリスマキらが投票した。2005年に『タイム』が発表した「史上最高の映画100本」にも選出されている。』
(ウィキペディア「雨月物語 (映画)」より)
映画は一家の主人が私欲や見栄で家族を蔑ろにしてはいけないと諫めている。あたりまえだとは思うし源十郎も藤兵衛も、おおげさに描かれているが、プリミティブな教訓にもかかわらず強い輪郭と説得力があった。今を生きるわたしたちは古い映画やそこにある教訓に対して解りきったことだ──という優越を持っているところがある。が、源十郎の欲や、藤兵衛の虚栄心はわたしたちが毎日ニュースや日常で見る俗物たちのカリカチュアになっていると思う。
『溝口健二監督作品『雨月物語』(1953年)、黒澤明監督作品『羅生門』(1950年)、衣笠貞之助監督作品『地獄門』(1953年)など、海外の映画祭で主演作が次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれる。1971年(昭和46年)の大映倒産以降はテレビドラマと舞台を中心に移し、活躍の幅を広げた。大映社長永田雅一との恋愛関係が憶測された時期もあったが、生涯独身を通す。1965年(昭和40年)には、日本で初めての「億ション」、コープオリンピア(東京・表参道)を購入して話題となった。』
(ウィキペディア「京マチ子」より)
地味な田中絹代と派手な京マチ子のコントラストが雨月物語の印象を決定づけている。亡霊だとしても京マチ子にたぶらかされるのも悪くない、と思える一方で、貧しくてもにひたむきに夫を思いやってころされてしまう田中絹代に憐憫が湧いてくる。その動静のような陰陽のような対比が世の空しさと儚さを表象していると思った。
amazon prime Videoで見た。
男は一旦の過ちで済むが、女はそうはいかない。
・『何だ。瀬戸物か!』って?『曜変天目茶碗!』
・夢殿の横でロケしているね。
・途中、京マチ子さんが踊る音楽は黒田節の編曲だと思う。
・小沢さんが槍で刺し殺す相手は右胸を刺されて絶命している。
・お金に執着しているが、この時期は米だったんじゃないかなぁ?
とまぁ、色々なおかしな部分はあるが、テーマは赤線地帯と同じ。また、戦後の日本社会に対するアンチテーゼだと思う。
最後 『大変な過ちをした。俺の心は歪んでしまった。』
『なにをいいます。さぞ、お疲れでしょう。』
『良い酒だ、戻った、戻った。』
しかし、酒の用意が出来ていて、酒のお燗まで用意されていれば、この時点分かるはずだ。この奥さんはそれを憂いている。つまり、戦後の平和な日本のようだが、まだ空気が読めているとは思えない。ここで終わっていれば、一等賞だったろう。同時に奥さんは着物を繕っているが、その着物が高価な着物と心を揺らしている。
「もう乱暴な兵隊もいません』小津監督も同じ事を語っている。
最後は要らない。とは感じるが、まだ、大和民族は絶滅していない必要あるのかなぁ。
よくよく、考えるとここに登場するすべての女性は不幸だよね。それは今も続いているって言う事を最初のテロップに書かれていた。「これは現代の話』って。傑作だと思う。
湖畔
霧立ち込める湖を一艘の舟が進む。美しい画角。ボロ屋に入ったかと思いきや、案外中は広いというか、結構なお屋敷に化ける。ラストのマジック。カメラが戻れば空気が変わる。何が空気を変えるのか?追求した者が体現できる映像美。カラーだったらどう表現したか興味も湧く。
男の野心と女の情念。妖気のないラストにおいても哀しみが漂う。現代的に更新してよいテーマ性であるが、それはそれとして楽しめる一本である。
欲と功名心を戒める
溝口健二監督の作品は初視聴。いくつかレビューを読んだが、なるほどって思わされた。金と立身出世のチャンスに目が眩んで、陶器を大量に焼いて都へ売りにでる兄弟。兄は、朽木屋敷の死霊に憑りつかれているうちに、女房は落ち武者に殺され子どもが残される。弟は、大将首をずる賢く挙げ、馬と家来を手に入れるも、娼婦となった女房とばったり会う。
冒頭、「分をわきまえて暮らさないと」という宮木のセリフが、最後まで効いている。太平洋戦争が終了して5年後位の作品。確かに、戦争の影響を受けているのだろう。「お前さんだけ無事で帰ってくれば、何もいらない」「お前さんは出世している間に、・・・毎晩違う女と寝ているよ」「人が偉くなるためには、誰かが犠牲にならなければ」辺りに、監督の思いが込められているのだろう。いつの世も戦争は、いつも男が始める。それに群がる数多の人々。現代だって同様。
溝口監督の画像は、構図、白黒のバランス、俯瞰と焦点化、風景や小道具を上手く使っていて、美と内面的なものを表現しているようだった。朽木屋敷のセットや若狭と右近の所作や歩き方、能の世界の幽玄を演出していた。それと、最後、宮木の亡霊の姿の部分が、現実と幽玄の世界の境界線を曖昧にしているストーリーだった。
自分は、この時代の作品、初見で溝口の作品を見慣れないこと、能的な幽玄の美をあまりわからないので、本当のよさがまだわかっていないかもしれない。
悩ましい
・妻のため、子供のため、自分のために貧しさから抜け出そうとお金への執着心が強まった夫と今のように貧しくても平穏でいたいという主人公の妻との葛藤が、とても悩ましい。もう一人は武士になって出世して暮らしを楽にしたいという夫と身の丈に合ってないことをやめなさいと止める妻(主人公の妹?)、こちらは武士になるのはやめた方が絶対いいじゃんと思うが、夢(と転換して解釈してしまう)を追おうとしているという意味で悩ましい。どちらも、現状から抜け出そうという前向きな理由だけど、観ている分にはとても不安な気持ちになる。成功しても失敗しても何だか不幸になるような予感が凄くて、映画としては面白かった。実際にその暮らしになったらストレスで耐え難そう。
・正確な歴史の流れはわからないけど、柴田藩?が攻め込んできて村へ襲いかかってきたのに一度大金を手にしたことによる夫の豹変ぶりが命より金っていう感じで怖かった。諦めたかと思った武士への憧れが残っていたのも怖かった。前向きな感情が不安の原因っていうのが凄いなぁと思った。
・既に廃墟と化していた貴族?の幽霊が夫と共に暮らそうとせがんでいたところで、流されてしまう感じや、着物を買うシーンでその前には妻のため、その次には幽霊の女のため、と演出が良かった。
・家族のためにと危険を承知で出た街で、商売は成功するも妻は殺されるし武士としての出世が叶うも妻は身を落としていて皮肉な結果となって切なさが凄かった。全体を通して、とにかく悩ましい。主人公たちは何をしたら幸せになれたのか、全然わからない決められた運命というものの引力というのか重力というのか、抜け出せない迫力を感じられた凄い作品だった。
・幽霊に憑りつかれてる人あるあるで除霊してくれる坊さんが必ず現れるけど、頭に茣蓙をほっかむりの上に乗せてて面白かった。体に梵字?の呪文が書いてあったけど、おばあさんはそんなに苦しくなさそうに触れたのが地味に謎だった。
・最後の主人公のナレーションに集約されているけど、人間、やってみての失敗がないと納得、変わる事ができない業を背負っているもので、都合よくうまくいかないのがとても面白かった。子供が母親の墓に昼食?を手を付けずにおいたのが泣きそうになった。
京マチ子の妖艶さがベネチア映画祭の男性審査員をも惑わしたか…
ここのところ、
少しまとめて溝口映画に接していたので、
録画していたこの作品も再鑑賞した。
最近の溝口映画鑑賞では、
長回し等の作風を意識していたが、
この作品では、その技法に関して、
あまり意識させられることは無かった。
テーマ的には、行き過ぎた金銭欲や出世欲を
戒める道徳論的な構成があからさま過ぎて、
作品の奥深さを感じることはなかったが、
この映画はむしろ映像美に浸るべき作品
なのかも知れないと思った。
壮大さはあったものの若干セット感のあった
「残菊物語」や「西鶴一代女」よりは、
リアリティ溢れる撮影・美術・演出による
映像美に進化した印象だった。
森雅之と京マチ子の組み合わせとしては、
黒澤の「羅生門」が思い出されるが、
相手の男性こそ
森と三船の違いはあるが、
彼らを惑わす女性は
京マチ子で共通しており、両作品に
金獅子賞と金獅子賞無しの年の銀獅子賞
をもたらしたのは、
ベネチア映画祭の男性審査員を惑わした
彼女の妖艶さではなかったか、
と想像もした。
けっこう面白い
名作映画と構えてみたのだけど分かりやすくて面白い。お化けが振られてかわいそうでもある。お化けだから当然付き合っていられないのだけど、それでもかわいそうだ。奥さんもお化けが相手では浮気が成立するのか微妙な感じもするが、それでも本人は完全に浮気のつもりでいっていたので怒られても仕方がない。散々だ。
映画文法を網羅した素晴らしい作品の理由。
内容は、江戸時代に記された話を元ネタに踏まえた、男3人女3人の人間模様愛憎劇。海外でも評価が高い理由が頷ける作品です。印象的な台詞は『人も物も所によってこうも値打ちが変わるのか?!』価値観の違いを戦争という時代に照らし合わせて表現した上手い台詞だと感じました。戦国時代の背景が第二次世界大戦後の日本を感じさせる様で印象に残りました。『死ななかった。死にきれなかった。。』この台詞も葛藤に苦しむ女性の性と願望が交差して非常に情念が伝わって苦しくなりました。印象的な場面は、最後の姫様(京マチ子)に鬼気迫る勢いで源十郎は、帰りを拒絶され『いいえ返しませぬ!』凍てつく様な白い吐息が、現実との乖離を表現していてとても怖かった。ありゃ夢に出るなぁ。印象的な状況は、戦争の後の無法地帯が上手く描かれていた事と、場面展開が緻密に計算され非常に見やすく映画文法に沿った基本をしっかり押さえあるので、台詞回し無しでもパントマイムの様に伝わる人間としての万国共通真実の片鱗を感じられる所が非常に秀逸で感動しました。流石日本を代表する三大映画監督だと勉強になりました。
やっぱり京マチ子、だよなあ…
この作品は、スクリーンで観なきゃダメな日本映画の筆頭だと思っていて、やっと観ることが出来たのだが…
う〜ん…
これは過大評価されすぎ。
期待していた幽玄な美は然程でも無かった。
昔、淀川長治も、その美意識の程を絶賛してはいたが、それほどでも無かったなあ。
あと4Kのリマスターも、思ってたほど解像度が上がってなかったような…
あれが、ほぼオリジナルの映像と言われれば、それまでの話なのだが。
ゴダールをはじめ、名だたる海外の監督たちは何処がそんなに良かったのか?
確かに素晴らしいシーンは幾つもあるが(特に舟漕ぎのシーン!)
メインのストーリーと並行していた立身出世の話の方は特に必要は無かったし(ああいう女が犠牲になって男が出世する話が、とにかく溝口健二は好きらしいけど)、もっと奇怪な世界観にどっぷりフォーカスして欲しかった。
特にオープニングは、あの舟漕ぎのシーンから始めるべきだったなあ。
あそこまでの話の流れは、主人公を含めた三人の会話の中に取り込んでしまえば、コンパクトにまとまったと思うし、瀕死の男を乗せた舟との遭遇によって、冒頭から不穏で不吉な雰囲気バッチリで、掴みもオッケーとなったはず。
あと、俳優陣も京マチ子以外はイマイチ…
溝口健二も当然ながら演技には厳しかったようだが、実際のところ本作では、黒澤明ほどの数ヶ月にも及ぶ執拗な演技指導(というか鬼のようなダメ出し)などは、脇役や子役も含め、然程やってなかったんでは?
リアルを追求してるのは分かるが、結果、見えてくるのは、リアルに見せようと努力している職業俳優に過ぎなかったりする。
森雅之も田中絹代も、ホントはもっと出来たと思うけどなあ。
その点、京マチ子は素晴らしい。
彼女の存在なしでは全く有り得ない。
ああいった役柄で、ああいう絶妙加減な芝居が出来る女優は、たぶん他にいなかったと思う。
山田五十鈴でも出来たかもだが、ちょっと怖さの方が妖艶さより強く出て来そうだ。
大映の女優限定という事情もあっただろうが、たぶん『羅生門』を観て、溝口健二の頭の中では、もう京マチ子しか有り得なかったのでは?と思う。
なので本当は、もっと妖艶なシーンを撮りたかったんじゃないかな?
てゆーか、そっちをもっと観たかったよ。
人の欲と愛情の果て
1953年公開と、70年も前の映画ですが
今も国内外の映画人に影響を与え
長きに渡り映画ファンを魅了してきました。
溝口健二の演出
宮川一夫のキャメラワーク
そして妖艶な京マチ子
それぞれが、静かで激しく
人間とは何か、家族とは何かを
問いかけてきます。
古い映画ですが
見せる、感じさせる映画で
日本の情緒を再発見できます。
※
日本映画の神髄。
まさに女の怪異である。
ゴダールはこれらの溝口作品を見て、彼の芸術的遺産を受け継いだ。
溝口の演出とモノクロのカメラワークの傑作である。
私の母国の映画であり、日本映画では『七人の侍』以上に好きな作品です。
主演の京マチ子は完璧で、天上界の妖精のような美しさです。
田中絹代に出会い直すことができた
この映画で私は初めて田中絹代さんを発見しました。今まで色々な監督の映画で見てきた女優さんです。山田五十鈴や京マチ子のような美女タイプではなく小柄で可愛らしいが、立派過ぎる台詞を言わされてる感じも強く、正直、あまりよくわからない女優さんでした。
そしてこの「雨月物語」で田中絹代に出会い直した。田中絹代は聖女で、清らかで優しくあたたかく限りなく優しい。すべてを包み込んでくれる。共に居るだけで自分も清められるようなそういう存在でした。何かあるとすぐに子どもを抱きかかえるその速さ。夫を慈しむ思いと言葉。夫の源十郎(森雅之)が家に戻ると誰も居ない。が、ふと見ると火のついた囲炉裏端に妻の宮木(田中絹代)が座り家事をしながら夫を待っていた。向こうには息子が眠っている。息子を抱きながら眠る源十郎。この世に居なくてもそういう想いで夫と息子をあの世から見守っている宮木。本当にあり得るんだと思わせる優しさとあたたかさを醸し出す田中絹代の演技は心から素晴らしいと思った。涙が出た。
都に向かう船のシーンは幻想的で、霧に包まれた湖の風景では(よくわかってないけれど)旅に出るオイディプスの神話を思い浮かべた。若狭(京マチ子)が住まう朽木屋敷は能舞台のような雰囲気で、若狭が纏うのも能の衣装、歩き方も能、化粧も能の面。その高貴な娘の顔が源十郎に正体を知られたことで恐ろしいような様相になるが鬼にはならない。ひたすら悲しい。オープニング・クレジットから能の鳴り物が響き、朽木屋敷では能管と謡曲が聞こえる。死者と生きている者が出会う能舞台。それがこの映画で自然に描かれている。
金や出世を求める男たち、愛する人と共に静かに生きていきたい女たち。この映画の女性に溝口監督はもう男性を告発させない。なぜなら女たちー若狭も宮木もーは既に死んでしまっているから。ローカルな日本の能の幽玄や死者への思いが、普遍的なものとして理解され感動を与えることができた希有な邦画、素晴らしい映画だと思う。
おまけ
京マチ子は29歳!には見えない大人で凄みのある絶品の演技。田中絹代は44歳!には見えない健気で包み込むあたたかさ溢れる絶品の演技。森雅之に内野聖陽は似てる。
ジャポニズム、そして戦後の鎮魂
映像に酔いしれる。
姫の、妖艶でいながら、ふとした拍子のあどけなさ。恋する乙女と、恋に縋りつく女の表情。そして怖さ、裏切られたことを知った時の切なさ。
右近の、慎み深さ。それでいて有無を言わさぬ押しの強さ。思いを遂げられないことを知った時の無念さ。
この二人が、滑っているかのように、土を踏んで歩いていないかのように、動く。
この二人が動くほどに、光と影が姿を変える。
生活感など、微塵も匂わせない佇まい。けれど、そこに”思念”ははっきりと伝わる。
息が白く見えるのでさえ、演出かと思ってしまうような幽玄の世界。
屋敷の調度とともに、ため息が出る。
田舎の鄙びた風景。基本、同じことの繰り返しが続く静的な日々。-雑兵さえ来なければ。
都会のエネルギッシュでダイナミックさ。-そのすぐそばにある落とし穴。
屋敷の、雅やかなものを愛でつつの、姫たちの心づくし、完璧な世界。-見失う現実。
その、田舎と、都会・屋敷を繋ぐ、びわ湖の、セット丸出しなのに、あの怖さ・不気味さ。
もう、これだけでお腹がいっぱいになる。
原作は、学校で名前だけは習う、読み継がれている江戸時代の作品・『雨月物語』の中からの脚色。
漫画とか、いろいろな媒体で脚色される『浅茅が宿』。
『木綿のハンカチーフ』にも通じる、都会の色に染まって勘違いした男が、都会にすべてを絞りとられて、故郷に帰ったら…という脚色の方が好き。
『蛇性の婬』は未読だけれど、『白蛇伝』の方が好き。
これまたいろいろな媒体で表現される『安珍清姫』『耳なし芳一』『牡丹灯篭』の方が壮絶。
この映画では、姫と右近も、男も、ちょっと中途半端。
正体がばれた時の演出は必見だけれども。
原作は、もっとシンプルな、どんな時代にも通ずる人間の業ーあさはかさや切なさーがあぶりだされるような、胸を締め付けられるような話。だからこそ、江戸時代の作品なのに、いまだに読み継がれる名作。
その二本をまとめた話に加えて、オリジナルの、もう一組の夫婦を描く。
夫の役目って何なのか。
立身出世や金儲けをして、妻や子に良い暮らしを与えること?
家族の安全を守ること?
こんな問いかけも、この映画は訴えてくる。
ちょっと、説教臭くなってしまった。
というか、全部戦さのせいになってしまった。
落ち武者や、雑兵のすさまじさよ。
彼らが傍若無人にふるまわなかったら、女たちの運命も違っただろうにと思わされるような筋。
「つわものどもが夢のあと」的な無常観を描きたかったのか。
豊臣が天下を取るまではまだこの地は戦乱に巻き込まれるだろうに、映画は、霊魂に見守られながら、平和な日常で終わる。
日本昔話的に収めたかったのか。
1950年代に制作された映画。まだ戦争の記憶も生々しいころ。
終戦直後は、家を焼かれ、家族を失い、生きるために、映画の落ち武者や雑兵のようなことをする輩もいたと聞く。
そんな時代を生きた人々への鎮魂のように見えてしまった。
男と女、戦争と人間の構図から浮かび上がる、男の愚かさを追求した溝口監督の映画美術
1952年の「西鶴一代女」からこの「雨月物語」、そして「祇園囃子」「山椒大夫」「噂の女」「近松物語」までの3年間の溝口監督晩年の成熟の頂きを呈する作品群は、日本映画における最重要な遺産と云わざるを得ない。国際映画祭においては黒澤明監督の「羅生門」に触発された溝口映画の3年連続ヴェネツィア銀獅子賞受賞の快挙と、ワン・シーン₌ワン・ショットの演出技巧に影響を受けた映画人が後にヌーベルバーグという映画革新を生む切っ掛けの素養になった。それは、ジャン=リュック・ゴダールやテオ・アンゲロプロスなどのヨーロッパ映画に引き継がれている。なかでも「雨月物語」は特別な存在です。後に公開された戦前の傑作「残菊物語」と「元禄忠臣蔵」や戦後の「近松物語」が日本的風習や価値観で西洋人に理解しきれないハンディキャップがあるのとは別格で、「雨月物語」が持つ広いヒューマニズムと日本的幽玄美が称賛をもって迎えられました。ただし、金獅子賞を狙っていた溝口監督は、惜しくも銀獅子賞に終わって後悔したといいます。それは最後の結末をもっとカラいものにしたかったのを、制作会社の大映の商業主義の介入で甘くせざるを得なかったというのです。その影響か、審査委員の評価では、筋を作り過ぎている点でグランプリの資格なしと言われました。しかし、その甘さ故に、映画的な感動があることもまた事実です。
日本的な怪奇譚の独特な味わいと幽玄美を極めた宮川一夫カメラの映像美。京マチ子の演じる死霊若狭の怪しげな美しさと恐ろしさ。幽霊屋敷の幻想的な雰囲気。源十郎がいる岩風呂に若狭が入るとお湯が溢れて池のカットに続く流麗な映像のイマジネーション。帰郷した藤十郎を温かく迎える妻宮木を映すカメラの一回転。その幻影から現実の世界に転化する映像演出の鮮やかさと美しさ。そこに描かれた田中絹代演じる宮木の夫と子を思う、妻として母としての無償の愛。これこそ文学や舞台では表現しきれない、映像が持っている表現の技術力であり、素晴らしさである。
地道な仕事に就く男兄弟が出世の欲と女性の色気に迷い、再び元に戻る男の愚かさを描いて、現世に想いを遺した妖艶な女性と献身的な女性の対比を巧みに加えた脚本の厚み。男と女の闘いを描いてきた溝口監督が辿り着いた一つの回答が、ここに見事に描かれている。また美術、撮影、音楽の三位一体となった様式美がその人物の構図を生かしている。その為、時代劇と認識しながらも、普遍的な男と女、戦争と人間の関係性に思いを馳せる世界観が構築されているのだ。
この映画が公開された昭和28年の日本映画は傑作揃い。小津安二郎の「東京物語」成瀬巳喜男の「あにいもうと」木下惠介の「日本の悲劇」がある。
1978年 7月19日 フィルムセンター
約40年前の感想にその後得た資料を追加してレビューしました。しかし、この「雨月物語」を語る上で、私個人の記憶に深く刻まれたことは、当日の上映が終わったフィルムセンターでの出来事です。20代半ばと見られるひとりの青年が周りに憚らず号泣し始め、男泣きしながら劇場を後にするのを間近で接しました。映画を観て感激しても、涙を少し流す程度の自分には衝撃でした。「道」のアンソニー・クインの嘆きとは比較にならない、その青年の止められない男泣きは、「雨月物語」に描かれた男の罪深さと償いのように感じられて、衝撃と冷静の入り混じった不思議な心境になりました。それはまた、人に感動を与える名作の素晴らしさを、改めて私に認識させてくれた貴重な体験でもあったのです。
人間の愚かしさと戦争の不毛さ
《お知らせ》
「星のナターシャ」です。
うっかり、自分のアカウントにログインできない状態にしていまいました。(バカ)
前のアカウントの削除や取り消しもできないので、
これからは「星のナターシャnova」
以前の投稿をポチポチ転記しますのでよろしくお願いいたします。
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日本の古典の中でも怪異話で有名な雨月物語の
代表的な短編をいくつか一つの話にして脚色した物語。
京マチ子映画祭で観て来ました。
京マチ子さんが、時には少女の様に恥じらい
時には般若のように怒りに狂って男を追い詰める。
変幻自在の豹変ぶりに目を奪われます。
で、月に8回程映画館に通う中途半端な映画好きとしては
京マチ子さんの演技も見ものでしたが
絡みは一切ないものの、
対照的な名も無い庶民の妻を演じた
田中絹代さんも、
貧しいながらも、本物の幸せを追い求める誠実な役柄で
京マチ子さんの役と対になる見事な存在感でした。
お話自体は溝口健二監督らしく
人間の愚かしさと戦争の不毛さを描いていますが
それだけでなく、昨年観た「近松物語」と同じ様に
白黒ながらもその陰影の美しさ〜
着物の柄の見事さで身分が差が解るほど伝わって来る!
モノクロ映画の最高峰かも。
@もう一度観るなら?
「こういう映画は映画館で集中して観ないと〜〜」
映画への価値観がひっくり返るくらいの素晴らしい作品
映画
『雨月物語』
の感想をブログに上げました。
『巨匠を観る』企画、11作目(全27作)の映画です。
監督:溝口健二
制作年:1953年
制作国:日本
ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞
【あらすじ】
室町時代末期、陶工の源十郎は戦乱の中で賑わう街で陶器を高く売る事を考える。
村に武士が略奪に来る中、妻と息子を残し、危険を冒しながら街に出ると陶器は十分な儲けとなった。
そんな中、纏め買いをした若い姫の家を訪れるが、姫に誘惑され、惚れ込んでしまい。。。
【感想】
個人的に映画への価値観がひっくり返るくらいの素晴らしい作品でした。
単純化した人物造形が作り出す暴力的で退廃的な人間の世界と、生前の世への恨みから霊となった姫の幽玄な世界が恐ろしいです。
そして、そんな世界の中でも失われない妻の愛情が泣けます。
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ブログの方では、ネタバレありで個人感想の詳細とネット上での評判等を纏めています。
興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
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普遍的主題と日本的美しさの見事な調和
傑作です。
世界中誰もが理解できるテーマを伝統的な日本文化の中に描いていて、日本映画を代表する作品だと思います。本作のテーマはイソップ寓話にも似て子供でも理解できるものであり、この映画を楽しむのに何の苦労もありません。しかしそれは日本の古典を題材として、日本の美術や音楽の中に溶け込んでおり、日本文化の粋を集めたものと言えると思います。幽玄の世界が描かれた若狭のシーンも物語の中にうまく溶け込んでいます。
京マチ子さんは子供の頃にたまにテレビで拝見して、失礼ながら普通のおばさんとしか見ていませんでした。しかし羅生門でその演技の凄さを知り、この作品でもそれを再認識しました。女の持つさまざまな側面をものの見事に演じられる女優です。
若狭の魔性、宮木の聖女、おはまのノーマルな女性像と、三者三様の女性像も見事に描かれ、演じられています。黒澤明は羅生門の主演女優を田中絹代にしたかったそうですが、京マチ子で正解だったと思います。
個人的に一番胸に染みたのは、源十郎夫婦や藤兵衛夫婦に対してではなく、女の幸せを知らずに無念の死を遂げて怨霊になって現れた若狭の悲しみでした。私の感性は少しゆがんでいるのでしょうか。
子供のセリフが一切ないのは意図されたものなのかたまたまなのかわかりませんが、喋るよりも遥かにこの物語の悲しさが伝わってきました。達者な子役ばかり見せられる現代日本ではとても新鮮でした(笑)。
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