「タイトルなし(ネタバレ)」鰯雲 KIDOLOHKENさんの映画レビュー(感想・評価)
タイトルなし(ネタバレ)
『鰯雲』は、戦後の農地改革によって田舎の価値観がひっくり返る過程を、静かだが鋭く描いた映画である。
海外の人にはあまり知られていないが、日本の敗戦は農民を解放した側面があった。小作人(農民)は、それまで地主の支配下に近い状態に置かれていたが、農地改革によって 非常に安い価格で土地を手に入れることができた。逆に地主たちは、ほとんどただ同然で土地を失い、それまでの権威も崩壊した。
さらに、高度経済成長期の入口で農業に機械化が進み、都市には仕事が溢れ、若者は“農村を捨てて都会へ行く”という新しい選択肢を得ていく。
映画が描くのは、
変化についていける人・ついていけない人、その狭間で苦しむ人間のもがきと闘いだ。
私たちは現代の視点から見るので、「ああ、この段階でこうすればよかったんだ」と答えを知った上で彼らを見ることになる。
しかし、それでも当時の人々の“切実な戦い”には強い興味を引かれる。
そして、とくに印象的なのが“不倫のシーン”である。
昔の男女はこうして口説いていたのか、と想像させるような、妙に生々しくて、どこかエロティックなやり取りが描かれている。成瀬巳喜男の映画は、派手な演出をせずとも情欲の温度がしっかり伝わる。その巧さがここでも際立っている。
ラストシーン――
彼女は最終的に“土とともに生きる道”を選ぶ。
耕す姿は、どこか人間というより動物に近い、原初的な生命力を帯びている。
このラストが力強いのか、儚いのか、観客は判断を委ねられる。
それこそが成瀬の美点であり、観る者の胸にじわっと残る余韻を生む。
現代の私たちは、その後の日本社会を知っているので、彼女がどんな未来を辿るのかある程度想像できる。が、当時の観客にとって、このラストは強烈な問題提起であり、大きな衝撃だったはずだ。
『鰯雲』は、
人間が“動物をやめていく過程”と、“まだ動物である部分を引きずる姿”
その境界を丹念に写し取った貴重な記録ともいえる。
戦後日本の生々しいリアルが、そのままフィルムに焼きついている作品だと思う。
