「映像はルドンとセザンヌ」秋津温泉 Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
映像はルドンとセザンヌ
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まず映像の美しさに息を呑む。ルドンやセザンヌを思わせるる映像に、映画は芸術であることを改めて認知した。物語は数十年に及ぶ愛を描いているが、そこに「死」の概念をからめ、すれ違う「想い」のやるせなさ・・・。1人の男への愛に固執したための女の不幸が切ない。ヒロイン新子を演じる岡田茉莉子は、若い頃の溌剌とした美しさから、人生への希望を失い疲れ果てた中年の頃とを見事に演じ分けている。しかし、本作の一番のキーとなるのは、長門裕之演じる周作のキャラクターだろう。新子と初めて会った当初は結核に犯され、「死」の美学に取り付かれている。太宰よろしく、新子に心中を迫る。男にとっての「死」とは、単なるロマンチズムに過ぎないが、女にとっての「死」は苦痛からの開放だ。若く溌剌とした新子に「死」は遠い存在だ。大人になるにつれ周作は「死」の美学を忘れ出す。妻がありながら酒や女遊びにふけり、ろくな仕事もない。これがあのロマンティックな青年と同一人物だろうか?周作が俗悪な生活を送る一方、彼への想いを募らせていく新子。すれ違う心の寂しさ・・・。長年プラトニックな関係を続けていた2人が、初めて肉体的に結ばれた時、私は新子の幸せを願った。しかし、肉体的に結ばれたことで、周作の心がますます離れて行ってしまう・・・。女にとっては愛を確認する行為が、男にとっては、女を神秘的な存在から単なる肉の塊へと堕とす瞬間だ。周作は俗悪で情けないが、どこかしら憎めない。彼がどうしようもない男であればあるほど、新子は彼の愛に固執してしまう。悲しい女の性が、最終的に彼女を死に結び付けてしまう。愚かだが崇高な彼女の愛は、美しく悲しい・・・。
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