愛と死をみつめてのレビュー・感想・評価
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吉永小百合さん、儚い
こんな怖い病気があるものか⁉️
と思う。
17,8歳から発病、なんて⁉️
古いが番茶も出花(死語かな?)と昔言われたぐらい青春真っ只中、
容姿も人一倍気にするお年頃⁉️
なのに、
冒頭では眼帯、もうこの頃左目は?
話が進むにつれてガーゼが大きくなり
中盤頃には、左半分を覆うようにまで。
病気が再発して手術した結果。
鏡を見ることは到底できない。
演技と理解しつつも、
あまりの痛々しさに辛くなった。
二十歳前後の女性というより女の子が
背負うにはあまりに厳しい現実。
しかし、道子役の吉永小百合さん、
明るく素直で健気な道子を演じてられた。
恋人役の浜田光夫さんとも
羨ましくなるような
ステキな恋愛を育んでられた。
最期まで病に負けないと
懸命に生きた道子さんだけど、
あんなに強くいられるだろうか。
この映画は泣ける。 また、吉永小百合と、浜田光夫の演技も素晴らしい。
小生は、「愛と死をみつめて」は、①この1964.9月版と、②2006.3月版を観た。
書籍は、③愛と死をみつめてと、④若きいのちの日記、を読んだ。
書籍2冊を実話とし、それらを交えて、この映画の感想を述べてみます。
1.この1964年版は、仮名が多く、白黒なのは少し残念だが、
①年齢がピッタリ
(吉永小百合:1945.3生=19才、 浜田光夫:1943.10生=20才)
②相思相愛が感じられて良い。
→ミコは「無理かも」と思いつつ、マコとの結婚を夢見てる手紙多数あり
→①心の夫マコへ、②最愛のマコ、③心の妻ミコより、等の文言が
手紙の末文や日記に多数あり
2006年版は、実名が多く、カラーなのは良いが、
①実際のミコ・マコとの年齢差が大きい
(広末涼子:1980.7生=25才、 草彅剛:1974.7生=31才)
②ミコ役の広末から、マコへの愛情が少なく感じる。
→ 若くて死ぬのは可愛そうなので、泣ける映画ではあるが。
③2006年版の主役はマコ(草彅剛) → 少し残念
2.この1964年版の映画は1960.7.8~1963.8.7迄であるが、
1962.10.17にミコが手術を受ける同意をした時のマコの活躍が凄い。
(手術の成功率15~30%程度、左目を取り、顔の左半分傷つける)
それまで、担当医・両親が説得しても手術に同意しなかったミコ。
マコが上阪して対話。 翌日、マコ・父親・担当医の3人が
ミコを交えて対話、それでミコは手術に同意した。
10.20の日記=「もうマコの愛情なしでは生きていけない」の記述あり
3.マコからの手紙や電話や面会は、ミコの生きる力であり、
2人の交際は、医者・看護婦・両親・兄・妹2人が認める仲であった。
看護婦達も、ミコが手紙を楽しみにしているので、
「ラブレターよ」等、言って持ってきた。
個室だった時の、1962.10.16~21は、マコはミコの病室で宿泊してる。
通常、病院は、女の病室に親類以外の男の宿泊など許可しない。
マコには、許可された。 婚約者以上、内縁関係に近い。
→ 後日、ミコの手紙の数回に「10月の6日間は楽しかった」等の記述あり
1963.3.27、マコが上阪。(3.28帰京予定が、1日延期、3.29帰京となった)
3.28のミコの日記 →「夜、もう1日いるよう泣き落し戦術。みごと成功」
「次は5月の連休に来る」と言うので、3.30の手紙に、
「早く5月が来ればいい、4月はいらない」等書いてる。
ミコは、マコが5月に来るのを楽しみにしてたが、
実際は、5月は延期、6月も延期、次の上阪は、7.18だった。
4.小生は、本を読むまでは、親類でもない単なる文通の恋人程度の者が、
両親と一緒に医者から病状を聞くなど、「変だな」と思っていたが、
本を読んで認識が変わった。 → 本を読んで良かった。
5.手術は、11月2日に実施した。 手術後初の手紙は、11.8日
6.父親の後記:手術後、ガーゼの詰まった口で声も出ず、
左手のしぐさはメモを求めていた。 鉛筆を握らせると字を書くが読めない。
「何と書いたのか」と問うと、涙をため悔しがった。
何回も試みて読める様になった。 河野君へ送れと言う(意志表示)。
寝返りも出来ない状態、等の記述。
7.病院の外に、健康な日を3日下さい。
1日目、私は故郷に飛んで帰りましょう。 母と台所に立ちたい、等
2日目、私は、マコの所へ飛んで行きたい。 部屋掃除してあげたい、等
3日目、私は、1人ぽっちで思い出と遊びます。 そして静かに1日が過ぎたら、
3日間の健康ありがとうと笑って永遠の眠りにつくでしょう。
→ これは、1963.4.10のミコの日記
8.また、1963.4.20のミコの手紙に、
1度でいいからデートの打ち合わせがしたいですね。
3年前(1960.7.8~7.22)、その気になれば、
いくらでも遊びに行けたのに、写真も一緒に撮らなかった、の記述
→ 可哀そうだな。 勿体ないなあ。
9.なお、歌詞の1番「はかない命と知った日に・・・ 涙を拭いてくれたマコ」は、
1962.10月に会った時のこと → 手紙や電話では、涙を拭けない。
歌詞の2番「ふたりで夢見た信濃路を 背負って歩くと言ったマコ」は、
1963.5.1~9日頃の手紙にも記述あるが、「言った」なので、電話だな。
→ 電話も、手紙と同じく何度もしてる。
歌詞の3番は、1963.7.30~8.03にマコが見舞に行った時の事だな。
あれほど元気だったミコが、「マコ、元気になれず、ごめんね」
を繰り返し言ってた、とのこと。
10.母親の後記:1963.8.7、朝7時の検温にも異状なく、手持ちぶたさの私は、
眠り続ける娘の顔ばかり覗き込んで時を過ごしました。
11:20、振り絞るような声で「おかあちゃん」とかすかに呼ぶ声に
振り向くと、わずかに唇がびくびくと動いておりました。
「ああ、のどがかわいたのね」と言ってガーゼを湿しに行って
引き返しますと、はや、息を引き取っておりました。
11.放映時間や個人情報の関係で、仮名にしたり、設定を変えているのだろうが、
この映画は、良い映画だと思う。 2人の心情が伝わってくる。
吉永小百合と、浜田光夫の演技が素晴らしい。
泣けて、泣けて、泣けて。 可愛そうで、5日位、頭から離れなかった。
甘えてばかりでごめん
5年前から軟骨肉腫という難病に冒されていた道子。自殺未遂、手術をすると顔の左半分がつぶれてなくなると言う事実。手術を受けると心に決めて、「2年待つ間に自分のことを忘れることを願う」という悲しい願いに泣いてしまった。その他、泣き所が多すぎます。
電話越しに「禁じられた遊び」を聞かせる誠と、病院の廊下で涙を流しながらそれを聞く道子。このシーンが忘れられなくなりそうだ。難病ものの作品の原点とも言えるような映画だが、実話なのだから尚悲しい。まこ、甘えてばかりでごめんね・・・
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