酔いどれ詩人になるまえに : 映画評論・批評
2007年8月14日更新
2007年8月18日より銀座テアトルシネマ,シネセゾン渋谷にてロードショー
野卑なのに知的、ぶっきらぼうなのに愛おしい
人はドラマを見るモノサシとしてリアルという言葉を多用するが、本当にありのままの生き様という奴は、かなり醜悪でみっともない。剥き出しの人間を書き綴って伝説となった米国文学の無頼派チャールズ・ブコウスキーの作品は、活字でこそ成立しても映像化には不安もよぎった。荒ぶる魂には共鳴するが、社会に背を向けた呑んだくれの日常を見せられても、たいてい目を覆うばかりだから。しかし、元アウトサイダーな中年男マット・ディロンの無骨な身体と暴発寸前の演技が、愛すべき佳作へと導いてくれた。
ブコウスキーが肉体労働しながら放浪していた日々をモチーフにした本作は、組織に耐えられず仕事を放り出し、金が底をつくまで酒と女とギャンブルの日々に溺れることの繰り返し。世の中に向かって心の底で「くそったれっ!」と叫びながら、ただ、自ら定めた表現の道“書くこと”だけは投げ出さない。自分の可能性を信じつつ、自堕落に生きるパンクな魂に惚れぼれする。野卑なのに知的、ぶっきらぼうなのに愛おしいのだ。
彼のどん底人生を見て、社会不適応者として眉をひそめるか、人生を諦めなかった荒くれ者としてリスペクトするか、観る者の価値観が問われている。常識に染まらず、自己を保ちながら、絶望だけはしない前向きな現実逃避の日々。やってられない格差社会の荒波を積極的に生き抜く上でも、ブコウスキー・イズムは素晴らしき手本になるだろう。
(清水節)