絶対の愛のレビュー・感想・評価
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喫茶店はいい迷惑だ
日本ではタブーに近い美容整形の話題。韓国では事情が全く違い、整形を受ける人はかなり多い。したがって、整形したことを堂々とカミングアウトする女優も多くなっているらしく、この映画の主演女優ソン・ヒョナも整形美人なのだ。
劇中何度も登場する喫茶店。痴話喧嘩や店員や客を怒鳴る大声ばかりで、コーヒーカップなんかが割られることも数知れず。主人公のセヒ(整形前・パク・チヨン)は恋人のジウ(ハ・ジョンウ)が他の女に声をかけたりするだけでイライラして、わがままな愛を貫こうとしている。この嫉妬深さは異常なもので、見ていても気持ちのいいものではないのですが、周りの者はジウに対して「愛されてるんだ」と諭すようになぐさめる。それはそうなんだろうけど、ちょっと違うような気もする・・・
「私の顔に飽きてきてるのね」と勝手な解釈をしたセヒは整形してジウの前から姿を消すのですが、こうした発想はキム・ギドクらしくて面白い。顔を変えて別人スェヒ(ソン・ヒョナ)としてジウに近づき、見事に彼の心を捉えてしまう。ところが、姿を消した恋人セヒをまだ愛しているということをジウから聞いてしまい、悩んでしまうスェヒ。絶対の愛を勝ち取るための策が脆くも崩れてしまったのです。
整形したのは顔だけのようだったし、どちらとも肉体関係を持ったのならばバレてもおかしくないはずなのに、それがわからないのなら愛がないんじゃないかと疑問をも持ってしまう。「普通、気づくだろ!」と思われる点はには目をつむっても、一体彼は彼女のどこを愛していたのであろうか。
整形病院での手術シーンは本物らしくて、妙に生々しく痛い映像でした。患者に最後の決断をさせるためにその映像を見せるというのも納得です。また、ペミクミ彫刻公園がとても印象的で、ぜひ訪れてみたい公園だ。過去の写真と現在の写真を対比させるなんて演出もなかなか面白い。ジウがとった行動もキム・ギドクらしい軽く驚きを与えてくれるストーリーだったのでよかったのですが、終盤の展開がくどくイライラさせられた。時系列を操ったエンディングも面白いけど、悲しすぎたからなぁ・・・
【2007年6月映画館にて】
キム・ギドクのどろどろ
キム・ギドクはこの作品で引退すると公言しているようだが、そんなこといったって、すぐ戻ってくるんだろ?って思ってしまった。映画がこの人を離さないように、彼もまた、映画を離せないだろう。それはさておき。
ストーリーは、付き合って二年目となりいささか倦怠期が漂い始めた男女の物語。ある日彼女セヒは、彼ジウの元から姿を消す。そして整形手術をし(どうでもいいがこの整形後の顔が松嶋菜々子そっくりで笑った)、まったくの別人スェヒとして彼のもとへ現れる。やがて付き合い始める二人。だがジウは、以前の「セヒ」が忘れられない。その姿に意外な感情--「セヒ」への嫉妬を抑えられなくなったスェヒはとうとう正体を明かしてしまう。事実に驚愕したジウはセヒに施術した整形外科医を呼び出しお願いをする。「僕にも整形手術を」。セヒにその事実を伝えた医師は「数ヵ月後に彼は現れるだろう」と告げる。あれがジウか?彼か?いやあっちの人?セヒはとうとうジウと同じカメラを持つ青年とめぐり合うが彼は「自分はジョンウである」と名乗り、ジウではないという。動揺したセヒは街で叫ぶ。「ジウはどこですか?」そのとき、一人の男が走り出す。追いかけるセヒ。急ブレーキの音と衝突音。駆けつけたセヒの前には血まみれの男の死体。顔はつぶれてわからない。彼女はふらふらとあの整形外科医の元へやってくる。「別な人になりたいですか?」そして円環は閉じられる。
冒頭で実際の整形出術の模様が流れて、こういうシーンに弱い私としては胃が裏返りそうになった。容赦ねえな韓国映画。その後、整形外科医の診療所からサングラス+デカマスクの女がふらりと現れる。この人が主人公かなと思いきや、彼女に体当たりをして手に持っていた写真たてを壊してしまう女のほうが主人公だった。ここでだいたいああ円環となるだなと予想はつく。正直中盤までは予想通りの展開だったが、女の整形に対して触発された男の行動のあとが予想外だった。よくある痴情のもつれを普遍的なアイデンティティの輪郭をめぐる話にまでよくもってこれたなと思う。(特に昔の自分に未練を持っている彼を見て、知らない女に対するように嫉妬心を燃やすあたりとか)顔が変わっても声が一緒ならわかるだろといった突っ込みもあることはあるんだけれども、鑑賞中はそんな瑣末なことを考えさせる余裕を与えないほど編集が見事である。顔を変えられただけで相手を見失ってしまうものなのか。自分を自分と決定しているのは顔か中身か。そこまで深く突っ込んでいるからこそ、この映画は見事にたっているといえる。(結局男女とも外見だけしか見てなかったというオチなんだろうか。男は整形外科医に「かわいい自然な顔をしていた」と怒り出す始末だし)同化しようとすれ違う男女を見ているとセックスが何の役にも立たず、ただ穴埋め作業に過ぎないのではないか、とすら思えてくる。
それにして、も。
整形へと走ってしまう女はエキセントリックだとしても、なんとなく理解できる気がする。男というのは、傍らに女がいれば、そこに安住しているほど、目は外に向くものだと私は思っている。当然、それを許せない気持ちもあるが、それはそういうものだ、と思わなければ、関係は維持できない。そんな私の諦めをあざ笑うかのように、彼女は抵抗する。潔癖なのか、激情なのか。少々ベティブルーを連想したけれども、あちらがフランス的個人主義の突き放した感があるとするならば、こちらは物語の中へ容赦なく他人を引きずり込もうとする。喫茶店内での怒鳴りあいといった「劇場化」させるプロセスが自然に見えるほど。愛しても愛しても相手の目がすり抜けていくのなら、違う自分になればいい。女の一途さを愚かだと笑うことは出来ても、どこか憧れを感じる。だがその一途さを「相手を試す」ことの一点突破で押し切る姿には、そのエネルギー量とともに正直辟易させられた。
辟易はしつつも見入ってしまうのはひとえに脚本のうまさと編集の思い切りの良さ(最近の邦画にはぜひ見習ってほしい)となんといっても絵作りのうまさによるものだろう。
以前見た「弓」のときも一枚絵としての魅力が十分に発揮されていたが、今回はそれとわからない形、つまり物語の支障をきたさない程度(男の服の地味さに比べて主人公の服装が漲る原色といったあたり)におさえられており、それがまたよい。そのあたりの足し算引き算が絶妙であるからキムギドクはキムギドク足りえているんだろうな。
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