父親たちの星条旗のレビュー・感想・評価
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【”戦争に英雄なし。されど命懸けで戦った者たちには敬意を。”今作は第二次世界大戦下の硫黄島の激戦中に、摺鉢山山頂に星条旗を掲げた”6人”の男の戦中と戦後の生き様を描いた逸品である。】
■太平洋戦争末期、硫黄島に上陸した米軍は塹壕に潜みゲリラ戦を行う日本軍に苦戦しつつも、圧倒的な戦力で”戦中に”戦意高揚のため擂鉢山の頂上に星条旗を立てる。 その写真は米国の勝利のシンボルとなり、旗を立てた6人のうち3人ジョン・“ドク”・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)、レイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)、アイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)、は帰国後に英雄となり、国債を国民に買ってもらうツアーに引き出される。 ◆感想<Caution!内容に触れています。> ・冒頭は、帝国陸軍の栗林硫黄島総司令官の指示により、水際作戦ではなく塹壕戦を取った日本軍からの一斉射撃に”全滅したのか?”と呟きつつ上陸し、前進していく米兵たちが次々に銃弾に斃れる姿が映し出される。 緊迫感が尋常ではない。 ー アメリカ側の視点で、硫黄島の戦いを描いた今作の軸は、摺鉢山に星条旗を立てた6人のうち、生き残った3人の兵士が、戸惑いつつ”英雄”として国債を国民に買って貰うツアーに引き出される過程で、”戦争には英雄はいない。されど命懸けで戦った者たちには敬意を。”というクリント・イーストウッド監督のメッセージが込められている点であるが、戦争シーンも手抜きなく苛烈に描かれているのである。 そして、結果的に硫黄島を陥落させた米軍兵士たちの死に様を、敢えて描くことで、強烈な反戦映画にしているのである。- ・旗を立てた6人のうちの3人ジョン・“ドク”・ブラッドリー、レイニー・ギャグノン、アイラ・ヘイズが、米国に戻り国債を国民に買って貰うツアーのシーンが、今作では秀逸である。 息子が戦死した母親たちが”これは息子よね。”と言いながら3人に抱き着き涙するシーンは”真実”を知っている彼らにとっては辛かったであろうし、逆のパターンも辛かったであろう。 特にネイティブ・アメリカンのアイラ・ヘイズが、精神的に参って行きアルコールに頼って行く様や、彼の非業の最期のシーンなどは、正に”戦争に英雄なし”という言葉を雄弁に物語っていると思う。 <物語の作りも、衛生兵ジョン・“ドク”・ブラッドリーが、老いてからも、PDSDに悩まされる姿や、彼が息子ジェームズに硫黄島の真実を語る設定とジェームズのモノローグが、この作品に余韻を与えていると思う。 ラストシーンの、現在の硫黄島の山頂から見下ろした、米軍兵たちが上陸し、星条旗を掲げた後に子供のように波と戯れた海岸を映すショットも見事である。 そして、改めて思うのは、クリント・イーストウッド監督が、如何に早撮りで有名とは言え、一年間に硫黄島の戦いを米軍側、日本軍側の視点で2本も、それも夫々秀逸なる作品を作り上げた事には、驚嘆するのである。矢張り、現代の世界の映画界の名匠である。>
英雄という虚像
作中で財務省の役人が発言していたように、当時のアメリカの財政は、膨大な軍事費の支出によって逼迫していた。硫黄島の戦い以前に国債を発行した際は、全く売れず、紙幣を増刷することになりインフレを招いたというのは知らなかった。第二次世界大戦末期で連合国軍の勝利は目前だったが、もう少しで終戦の条件において日本に譲歩することになりそうだったのは意外だった。 だからこそ、硫黄島で星条旗を掲げる写真にたまたま写った3人の兵士を、政府は英雄に祭り上げた。国債の購入促進のための広告塔にするためだ。政府の切実な事情は理解できる。しかし、芸能人でも無いのに、政府の都合で広告として利用される兵士にとっては虚しい気持ちにしかならない。 インディアンのアイラが人種を理由に入店拒否されたことからも分かるように、大衆は彼ら自身を見ていない。政府によって作られた英雄という虚像を見ているに過ぎない。そして、戦争が終われば過去の英雄として忘れ去られてしまう。そんな虚しさを描いた作品。
太平洋戦争の激戦地の一つである硫黄島の戦いを日米双方の視点から描...
太平洋戦争の激戦地の一つである硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた2部作(日本視点:硫黄島からの手紙)の戦争映画の一つ。 こちらは米兵目線で描かれている。『硫黄島からの手紙』と対をなすとのことで、硫黄島の上陸戦そのものにfocusしているのかと思ったが、こちらは1枚の写真(硫黄島の星条旗:硫黄島での戦闘初頭時の2月23日に摺鉢山頂上に星条旗を立てる姿を撮影したもの)を政治利用し、戦地から帰還した兵士を英雄に祭り上げ、戦時国債発行促進政策に協力させる歴史的事実にspotを当てている。 戦場とパティ―会場がクロス・フラッシュバックする手法を取っており、 『硫黄島からの手紙』で感じたような没入感・臨場感が薄れてしまっていて視聴中に長さを感じてしまった・・・。また丁寧に人物描写してはいるものの、ヒーローに祭り上げられて喜んでいたり、そこにアメリカ先住民の人種問題要素も入れてしまっていたり、登場人物への共感がしにくい構成となってしまっているのも残念。 ちなみに米兵が戦う理由は『戦友の為に戦い、死ぬ。死んだ者がヒーローで、ヒーローになりたいから戦うのではない。』との解釈で説明がなされている。硫黄島との対でなければ☆2評価。
政府の茶番をクリント・イーストウッドが描く。 経験者の回想で臨場感...
政府の茶番をクリント・イーストウッドが描く。 経験者の回想で臨場感のある戦争シーンを見せてくれる。さすが勝戦国、資料が豊富で信憑性もある。当時のアメリカ政府を批判するような内容で面白い。 クリント・イーストウッドが興味を持ったという舞台となった硫黄島についての蘊蓄を少し書かせてもらう。硫黄島を制圧したあとの米軍の滑走路の下の謎、硫黄島で約一万人の行方不明者がいまだ発見されていない謎、硫黄島で回収された大量の手紙についても、結局、対になるもうひとつの作品『硫黄島からの手紙』でもほとんど取り上げなかった。 今作『父親たちの星条旗』は、何度視聴しても飽きない良さがある。
凄まじい
硫黄島からの手紙を見てからの本作。 wowowで録画視聴。 硫黄島に最初に星条旗を掲げた兵士。 果たして英雄なのだろうか。 戦後生まれの私は当然戦争なんか知らない。 ベトナム戦争を題材にした映画はそこそこ観たが 二次大戦時の攻防戦は初めて観た。 悲惨。 戦後78年?かな? この映画は後世まで残さなければいけない作品だと思う。
英雄はいない
戦場の惨たらしさ、戦争というものの不条理さを、事実に基づいて描いた作品。
海兵隊一等兵のアイラが、「 英雄はいない 」と嗚咽する姿が胸に迫る。
NHKドキュメンタリーで見た、ロシア軍の攻撃で片脚を失ったウクライナの負傷兵が、ゼレンスキー大統領から授与された勲章を手に、「 勲章より脚が欲しかった。 」と語る姿を思い起こした。
ー戦場の実態というのは、想像を絶するほど残酷なものだ
BS-12を録画にて鑑賞 (字幕版)
戦闘シーンは凄まじい
硫黄島に上陸した米軍が、摺鉢山に立てた星条旗を巡る話になっている。 私も知っているあの写真を、戦時国債の販促キャンペーンに使おうとアメリカ政府は考え、写っていて生きている三人を呼び戻す。 戦闘シーンは凄まじく、正しく地獄絵だ。
「硫黄島からの手紙」とこの映画を観て感じたこと。
2週間程前に「硫黄島からの手紙」を観ました。 私には「硫黄島からの手紙」の方が、クリントン・イーストウッド監督が、 日本人のこの戦争を俯瞰からみて好意的に公平に描いているように思えました。 日本兵は米軍の戦艦100隻位に海を占領され、何万人かの米兵が上陸してきて 人海戦術でかかって来た。 洞窟から機関銃を撃つ日本兵は脅威でしたが、米軍は洞窟に火炎放射器を撃ち込み、 日本兵は生きたまま焼かれたのです。 その描写もちゃんとあります。 そして米兵はたった一人顔が分かる人物として、捕虜になったサムが重要な役を 演じています。 日本人衛生兵はなけなしのモルヒネをサムに投与します。 それでも死んでしまったサムが身につけていた母親からの手紙。 それは息子の無事を祈る愛情溢れる手紙で、読んだ日本兵はアメリカ人も日本人も、 母親が息子を思う情に少しも違いはない・・・そう思うのでした。 とてもクリントン監督は日本人に公平で優しいです。 翻って「父親たちの星条旗」はアメリカ軍・上層部の醜さを晒しているかのようです。 硫黄島の摺鉢山の頂上に若き米兵6人が立てた「硫黄島の星条旗」 この写真は新聞で報道されて、第二次世界大戦を象徴する有名な写真になりました。 そして米軍の広報官は旗を立てた3人の米兵を「軍事国債を庶民に売るキャンペーン」の、 広告塔にしたのです。 そして米軍の3人は騒ぎ立てる報道の過熱に翻弄されます。 しかし、息子が戦死した母親にとって、「硫黄島の星条旗」を掲げた一人が息子だった・・・その事実が母親にとって《支えになった》慰められた・・・ と聞くと、複雑な気持ちになりますね。 せめて息子は英雄だったと信じたい。 しかし、レイニーが別人を間違って報告して、さらに混迷してしまう。 この「父親たちの星条旗」は「勲章」「戦争の英雄」「勝利の旗を掲げた一枚の写真」 それらの裏側を描いていてアメリカ人には皮肉な映画なのではないでしょうか? 2作を観て、英雄と呼ばれても浮かばれない。 戦争に駆り立てられ戦死した若者たちが日米問わずに尊い命だったし、 イチ兵士にとって、「敵兵」は便宜的にそう呼ばれるだけで、なんの罪もない 「ただの若者」に過ぎなかった。 戦争の犠牲者はいつの時代も、罪なき兵士たち。
アメリカ側の視点から描いた硫黄島での戦い。 戦争を続けるために国債...
アメリカ側の視点から描いた硫黄島での戦い。 戦争を続けるために国債を勧めるとか、アメリカもギリギリだったのだなと思った。 そのために英雄とされた兵士。けれども、行なっていたことは英雄に値しないと、英雄として扱われることに苦悩する日々。 戦争を正当化することはなく描かれていた点では良かったと思う。
ラスト1分にすべてが詰まっている
この作品は、主に硫黄島での戦闘シーンと本土帰還後の祝勝会シーンを交互に組み合わせて構成されている。 戦場から突然パーティ会場に場面が切り替わった時、観ているこっちの気持ちは戦場にいるので「今それどころじゃないんだけど??」とイラッとしてしまう。 でもこのギャップこそがイーストウッドの描きたかったものなのではないかと私は思う。 戦場を知らない者に勲章を貰うこと、それよりも、自分がどう生き、どう命を散らしていったかを理解し、その生きざまを心にとどめてくれる者がいるということの方が救いとなり得るのだ。 この映画のラストに人生を、とりわけ実話をもとにした作品の見方を変えられたという人も少なくないだろう。私もその一人だ。 一つの事実を知るとき、私たちの想像力のその先に彼らはいる。 できるだけ多くの人の姿を心の中に留めていたいものだ
英雄として翻弄された若者たち
戦争によって失われた命、戦友たち
若者が次々と死んでいく姿に
また味方からの攻撃を受けたり
戦争が意味の無いことに気づいた
そして星条旗を掲げた事によって
いつの間にか…英雄として称えられてしまう
死んでいった仲間に申し訳なく思う
英雄をアピールする訳は
国民に国債を買ってもらう為の国の策略
それによって精神を病む者も
戦場に行った体験者は家族に戦争のことは
話したりしないと聞いています
悲惨な現状が余りに酷くて語れるものでない
思い出したくないと言います
心の傷が修復できず心の奥底に閉じ込めて
勝った負けたからということではなくて
どちらの若者も青春を奪い命を奪われる戦争に
意味はないんだと
日本版〈硫黄島からの手紙〉とは同じ戦争
を描いていますが見える視点が違う
戦争に勝ったからいいんだよということではなかった
戦争に英雄はいらない
戦って国のために命を落とした人を敬う
…イーストウッドの反戦映画の様に思えた
見方が難しい
見方が難しい。 戦場の臨場感とかで観る作品でもなさそうだし。 ちょっとテーマが大掴みすぎて簡単には感想が出てこない。勝者とは誰か、本当の英雄は誰なのか、そもそも戦争にそれらは存在し得るか。。たぶん答えないですからね、これって。その深淵に頭突っ込んで観る必要がありそうだけど、それはかなりしんどい作業ではある。。 それにしてもキャストの印象が残らないのはなんなのか。戦争映画は戦場での異常なテンションと極限の状況での精神性の擬似体験が個人的に重要だと勝手に思っていて、これはあんまりない。イーストウッドでもアメリカンスナイパーとかはある。シンレッドラインとかはそれがすごい。ま、そういう映画じゃないんだろうけど、もう片方も観てみないとなんとも言えないので観てからだな。。ラストはさすがにうまい。
英雄
もし自分が、星条旗を立てていたとしたら。 英雄に仕立て上げられたとしたら。 何も語らずに死んでいく方がいい。 そう思うかもしれない。 アルコールで全てを忘れ去ろうとするかもしれない。 でも、それは死ぬまで忘れることはない。 「英雄」に仕立て上げられた者が背負わざるをえないもの。 恐怖、悲しみ、怒り、惨めさ、失望、罪悪感。 英雄はずっと「何か」から 逃げて生きていかなければならない。 英雄に武勇伝を語らせようとするのは、 とても残虐なことなんだろう。 それでも死ぬ前に、 あの日のあの笑顔のことを思い出し語れたのなら、 生き延びてよかった、報われたような気持ちになった。 本当に、お疲れ様と言いたい。
硫黄島の戦いの実像と、帰還後の英雄としての活動の苦痛、戦争の真実を伝える映画の役割
戦争そのものの狂気を描いた硫黄島からの手紙の米国版ということで、少し予想外であったが、戦争映画というよりも、戦争の体験、実像をどう捉えどう伝えるかという映画の様であった。少なくとも、硫黄島の戦いで英雄とされた3人の主人公達だが、戦争の実態とはかけ離れた虚構。国債を広く買ってもらうための広告塔、模像的なヒーローであることを知らされた。
イメージとは異なりあの写真にある星条旗は、山上に立てた最初の旗を高級将校が欲しがったため、その後に交換するための星条旗ということなのだ。
死んでいった仲間たちも、味方の誤爆でやられてしまったりしてて、決してお国のためにと思って勇敢に死んだ訳ではない。ただ皆、仲間たちを大事に思い、仲間たちの迷惑にならない様に役割を必死に努めたことは疑いの無い事実で、言わば硫黄島に行った全員が英雄と訴えている様に思えた。
星条旗を掲げて生き残った主人公達、英雄扱いされた3名、特にアダム・ビーチ演ずるインディアンのアイラ・ヘイズはヒーロー扱いに苦しみ酒浸りとなり戰後行き倒れ的に死亡。ライアン・フィリップによる衛生兵ジョン・ドク・ブラッドリーも戦争の悪夢にずっと苦しめられる。ジェシー・ブラッドフォードによる伝令レイニー・ギャグノンは広告塔を積極的にこなし多くの知人を得たが、戰後の職探しでは全く役立たず。ということで、戦争体験が個人的には全く役に立たず、ブラッドリーは家族にも戦争の話を一切していなかった。
なお、映画とは直接無関係だが、ドク・ブラッドリーが実は星条旗掲げた6名ではなかったことを、2016年米国海兵隊が認めたとのことで驚かされた。彼はそれを知っていた上で英雄演ずる国債キャンペーン活動をしたのだろうか?
回想的に挿入される幾つかの戦闘シーンは相当の迫力。生き残ったのは単に運が良かったとしか思えない縦横無尽に銃弾が飛び交う世界で、みじかな仲間たちが呆気なくやられてしまう世界。敵に見るも無惨にされてしまう世界。こんな恐ろしい戦場で良く行動が取れるものだと感心させられる映像であった。
英雄扱いせず、戦争反対と括らず、静かに淡々とだが、戦場における彼らの闘いの真実の姿そのものを、今生きている人間はきちんと記録・記憶しておくべきとクリント・イーストウッド監督は主張している様に思えた。本映画が有するその知的で俯瞰的な視点に静かな感動を覚えた。
両方観なきゃダメでしょ
父親と手紙、両方でワンセットですから両方観ましょう。 一旦戦場に出てしまえば、大義名分や建前は消滅して、ひたすら目の前の敵を倒す、仲間がやられたら悲しい、自分は死にたくない、の一心に集中され、弾に当たったら誰でも死ぬ、という意味では「米兵も日本兵も同じ」と言ったイースト君はその確信通り、どちらにも肩入れせず、善いも悪いも語らず、反戦も声高に叫ばず淡々と凄惨な戦闘風景の描写に努めたんでしょう。 その意味で、二作は表裏ではなく、同じ方向を向いた並列作品です。 敢えて比較すれば、父親は戦闘以降の話、手紙は戦闘以前の話に焦点をあてています。物語としては、父親が旗を掲げた六人は誰だ問題に終始しているのに対して、手紙は様々な階級の軍人の硫黄島に至るまでの人生が丁寧に描かれていてドラマチックです。手紙の方がオスカー候補になったのはよくわかります。 私も手紙は五点、父親は四点です。父親だけなら五点だったかも。 ただ、手紙の方はさすがのイースト君も日本語のニュアンスは演出できなかったと思うので、セリフのトーンがバラバラのきらいがありました。まあ、それは小さいことです。
戦争遂行者の余裕が小憎らしい良作
「硫黄島からの手紙」をさきに観てしまったので激しい硫黄島戦を米国側からがっつりと、と思ったらそうでもない。 かといってタイトルのような父子の関係性や、戦争を挟んだ世代間ギャップも主題ではないようである。 「硫黄島からの手紙」とセットで描きたかったのはおそらく立場の違いからくる戦争への関わり方の大いなるギャップ。とくに本作では、ひょんなことから突然最前線から本土へ帰され極めて政治的なショーへの関与を余儀なくされ翻弄されることになった兵士の目線から見た銃後の偽善ややるせなさが余すところなく浮きぼりになる。 最終的に本土も焦土となった日本と違い、米国本土で戦争を遂行する者と最前線で落命する者との差は最後まで激烈だ。
ブッシュ大統領にもよくよく見ていただきたい
戦中の硫黄島とアメリカ本土、そして現代という3つが同時に進行していくのが少しキツイ。
結構集中してないと、わからなくなるかも。
メディアが発達した時代においては、たった一枚の写真で英雄が作られ、国策にのっとって利用される。
でも、現場にいた彼らは、戦争を続けくなんかなかったんじゃないのか。
単に、あの地獄が早く終わり、みんなで生きて帰れることだけを願ったのではないのか。
戦争なんて、結局は自分が現地に赴かない政治家たちがはじめるもの。
実際に前線にいる人たちが目にするのは、ただただ悲惨な世界。
戦闘シーンはリアルすぎてえぐい(体は千切れ、内臓飛び出す)。
それをはっきりと見せ、あくまでも「戦争=悲惨なもの」として描ききり、「英雄なんかいない」と言い切っただけで、この映画は価値があると思う。
硫黄島の激闘(アメリカ目線)
イーストウッド監督×スピルバーグプロデュースによる硫黄島2部作のアメリカ目線編。 戦地の英雄に祭り上げられた青年たちの苦悩を描く。 戦争の悲惨さを思い知らせてくれる作品のひとつ。ストーリーは、回想形式になってるので、時間が行ったり来たりで、若干解りづらい… それにしても、アメリカも結構ギリギリだったのね… ポール・ウォーカーも出演してるけど、全然目立ってなかったなぁ~
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