「組織の犠牲になる人間の悲しい叫びと腐敗した闇に挑む復讐の鬼」悪い奴ほどよく眠る Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
組織の犠牲になる人間の悲しい叫びと腐敗した闇に挑む復讐の鬼
娯楽時代劇「隠し砦の三悪人」と「用心棒」の間に製作された黒澤監督50歳時の社会派サスペンスの復讐劇。戦後の高度経済成長期(1955年から1973年)における政官財に癒着する汚職を告発し、その犠牲になった父親の遺恨を晴らすために暗躍する一人の男の物語。先ず黒澤監督と久板栄二郎が中心となり計5名で書き上げた脚本のストーリーテリングの予測不可能な面白さが、150分の長尺を飽きさせません。主人公西幸一と日本未利用土地開発公団副総裁の一人娘岩淵佳子の結婚披露宴をプロローグに、公団新庁舎にまつわる大竜建設との汚職事件を取材する新聞記者の解説を挟むことで、分かり易い導入部になっています。そこから西幸一の正体を明かし、不正経理追求の巧妙かつ狡猾な復讐を紆余曲折展開させて、終盤拉致した公団管理部長から贈収賄汚職の証拠になる証言に辿りつき、その後の自首を覚悟するまで、悪徳追求の黒澤演出が冴え渡ります。主人公西の人間像が感情を抑えた三船敏郎の演技によって説得力があり、偽装結婚だった佳子に心を開き受け入れる男の恋愛心理まで演じているのも珍しく、興味深いストーリーでした。佳子がこの時代の貞淑と慎み深さを良しとするステレオタイプの女性像で、現代からみると陳腐ですが、幼少期の事故で足に障害を負った設定で不自然さはありません。この新妻のいじらしい欲求を清廉に演じる香川京子の存在が、硬派の社会派映画の紅一点の魅力になっています。しかし巨悪に対峙した正義の行動と親の仇討ちが未遂に終わる物語の結末には、正直肩透かしを食らいました。この映画本来としての流れは、西の復讐が完遂し公団汚職告発の記者会見をラストシーンにするべきでしょう。そして拘置所で西幸一と佳子が面会するカットで終わる。主人公西までも抹殺されるこの物語の閉塞感は、それだけ政官財の汚職の恐ろしさを再認識させることになりました。また、制作の裏事情を調べると、実際の汚職事件を連想させない配慮と、汚職構造を明かさない映画会社の指示があったという事です。公団副総裁岩淵がオフィスから何度も頭を下げて連絡を入れる相手は大物政治家でしょうし、物語後半では検察の捜査動向は描かれず、マスコミの追求もありません。これは製作された1960年の日本の社会状況と世論事情から考慮された結末と想像します。日米安全保障条約を強行した自由民主党の政権が不安定な時代に、それを扇動するような作品は作れなかった。その時代を知らない世代のあくまで推察です。しかし、これをアメリカ映画の例えばフランク・キャプラの「スミス都へ行く」(1939年)やロバート・ロッセンの「オール・ザ・キングスメン」(1949年)などと比較すると、表現の自由がない日本映画の特質に言及することになります。その規制の上で黒澤監督が創作した、出来うる限りの告発映画の力作であり、意欲作と評価しなければなりません。
それでも、その欲求不満を解消するに値するのは、各脇役の名優たちのキャラクター表現でした。公団契約課長補佐和田を演じた藤原鎌足の役柄とその演技が物語の不気味さを象徴します。自身の葬儀を見せられて上司に切り捨てられた事実を知り、トカゲの尻尾切りのわが身に目覚める。証拠隠滅の偽装自殺から、公団契約課長の白井の前に現れるところのシニカルなユーモアがいい。復讐を遂げるため仲間に引き入れた西の底知れぬ策略に和田が怯える車中カットの藤原鎌足の演技が見事です。その白井が幽霊の和田に怖れ慄き、貸金庫の隠し金の現金500万の紛失から着服の疑惑に苛まれる展開の面白さ。西が白井の鞄に500万の札束を戻す秘書室のシーンは、サスペンス映画の模範的演出です。副総裁岩淵と守山に懐柔されて更に疑心暗鬼になる白井が殺し屋に襲われるも西に助けられ車中で和田と対面するカットと、それに続く公団ビル7階で西と和田から追い詰められ死を覚悟させられるシーンの息詰まる演出と演技は、この映画の最も見所となる名場面です。白井役西村晃は急発性精神分裂症(急性一過性精神病性障害)の説得力ある錯乱状態を演じ切っています。そして後半、西と盟友の板倉に誘拐され廃墟の個室に監禁される志村喬の演技、貫禄はあるが隙もあって何処か憎めないも頑固な役柄を巧みに演じています。佐藤勝の軽快で楽しい音楽がこのシークエンスをユーモラスに味付けして、空腹でハムエッグに1500万請求される時の絶望感と、1650万の在り処を告白して食事に有り付くシーンの可笑しさ。遂に通帳の隠し場所を自白して食べ物をむさぼるところも面白く、謹厳実直な役者イメージの志村喬だから味わえるシーンになっていました。
最後は、岩淵が手配した殺し屋によって飲酒運転に見せかけた自動車事故で殺された西を哀れみ、慟哭する板倉の台詞で閉めます。“何もかも、恐ろしく簡単で醜悪だ” 政官財がその特権を悪用し、税金から裏金を作り、関わった人間で山分けする。それでも上は政治家のための巨額な政治資金から、下は公団職員の実行メンバーの年収の約10倍が報酬となる。しかし、発覚して責任を取られ、口封じに追い詰められるのは命令されて不正をした人間だけ。そこに警察やマスコミの関与があれば、汚職の全容を解明するのは不可能です。悪い奴ほどよく眠れるのは、捜査の手が自分に届かないことを確信しているからでしょう。このタイトルで連想するのは、エリオ・ペトリのイタリア映画「悪い奴ほど手が白い」(1967年、原題人それぞれ、英語タイトルは、私たちは未だ古いやり方で殺している)です。日本題名が、この黒澤作品から採用されたのは明白です。色んな国の映画を観て来て、特に政治犯罪映画において日本とイタリアには僅かながら共通点があるように学生時代から感じてきました。このエリオ・ペトリや「シシリーの黒い霧」(1962年)のフランチェスコ・ロージ、そしてコッポラの「ゴットファザー」を観ても、イタリアの古い因習から家族主義による独善的な政治支配と不正の連続には、他の国にない悪い意味で伝統があります。ホームドラマの名作がある一方、日本もイタリアにも暴力組織がある。森雅之が演じる副総裁の野心は、資金を潤沢にして政界に躍り出ることと、一人娘の幸せと放蕩息子を甘やかす財力を維持すための犯罪でした。動機が功名心だけではないところに、人間の功罪併せ持つ性と業を感じてしまいます。家族主義も、利己的になれば恐ろしく簡単で醜悪であることを、この黒澤映画が深刻に分かり易く描いています。これら色んな視点でも鑑賞するに値する黒澤作品でした。