「純粋な女性の強さ」わが青春に悔なし Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
純粋な女性の強さ
太平洋戦争終結の翌年に放映されている。昭和21年。反戦活動のため獄死した男に憧れて妻になった女性を原節子が演じている。もともとお転婆で明るい芯の強い性格が、決して安心できない反戦活動で獄に入ったことのある、当時の世間でよく思われないだろう結婚を、女性のほうからアプローチしてしたような、気持ちに忠実な女性であった。また逮捕されて獄死したのを知った後で、その女性は亡き夫の実家の極貧の両親のもとを訪ねて、村の人たちにもスパイの家だと嫌がらせを受けていた。女性は裕福な家の出身であり、夫の母親は身分も違うし、やめなさいと言っても女性は聞かずに、妻なのだから、一緒に暮らしをさせてくれと土下座をして頼む。きっとこのシーンは現代人というか、現在の人にとっては理解しがたいだろうと思う。どうして夫が亡くなったのに、その両親の家に行くのかと。配偶者が亡くなったら離婚する人たちがいるのが現在なのだが、原節子演ずるその女性は、都会風の服を着ていたのに、野良着の母親と一緒に鍬を振るい、農作業を始めるのである。若い人生を無駄にしているのではないのか。どうして亡き夫から離れて再婚でもしないのかと今の人はそうとしか思えないだろう。だが、その女性は、私は妻なのだと語り、悔いることなく、毎日鍬を振るうのである。監督の黒沢明は、同じ格好で鍬を振るうシーンをつなぎ合わせて、女性の着ているものや雰囲気だけが変わっていき、そして鍬を振るう格好が上手になっている。近所の5歳前後の子供たちが、スパイスパイと女性に声をかけている。これは子供という純粋性の裏返しの恐怖を映していたのか。周囲の農民たちも怪訝な顔をして戸を閉めたり、噂をしている中を、女性は強い目をして、農作業をする。重い篭を背負って、周囲の嫌らしい目の中を、ひたむきに農作物の運搬を続ける。ここら辺のシーンは周囲の農村の人々をかなり醜く描き、女性の辛さを引き立てているが、亡き夫の母親が泣きながら篭を背負ってやる。そして、日々、嫁と姑は並んで鍬を振るう。70年前のこうした精神性があったのを、現在の人たちはわからなくなっているだろう。そこに映画という記録がある。他の映画の雰囲気では、原節子はお高い感じがする外見で重い感じがしていたが、この汗をかきながら農作業を続けている表情はかなりの美しさであった。機械化されていない時代の代掻きや田植えのシーンの頃、女性の疲労は蓄積され、ひどく咳き込むが、熱を出しながら農作業をしていたのだ。そして姑の優しさが感じられる。杉村春子が演じているが、他の映画では癖のある役が多いイメージだが、この作品では、純粋に良い人を味わい深く演じ、反対に善人のイメージの志村喬が特高の悪役である。若い女性は疲労の極致だが、姑があんたとこんなに田植えしたぞと高笑いをする。強い母親だ。強い日本の女性だ。かなり反時代的だと思われるかも知れないが、本当は、こうした昔の映画を観ることで、現在に漂っている雰囲気と違う思考が出現するのではないだろうか。終戦直後の農村の疲弊は想像できないほどだったらしい。そしてスパイの家だという周囲のいじめがひどすぎる。それに怒る原節子の表情がすごい。せっかく植えた苗の田んぼを滅茶苦茶に荒らして、スパイ出ていけというような立札が立ててあったのだ。女性たちに比べて老いた父親はしょげていたが、怒って振るえる手で、苗を植えなおす。そして嫁と姑で力強くその父親を見渡すのだ。戦争未亡人になって再婚をせず、死んだ夫の両親などの家族と生涯を過ごしたという事例は実際に多くあったらしいが、この精神が、現在の人には無い。私がそうした立場だったら真似できなかっただろう。そして三角関係に破れたかなり検事として出世した男も挿話として出てくる。憧れていた女性が農婦になっている。女性は亡き夫への墓参りをしないでくれと検事に言い、検事は肩を落として帰る。こんな昔が実際にあり、そうした人たちが実際にいたのに、それから70年の間に、極貧の農業は機械化され、家族で高度成長期を乗り切ってきたが、またその立場が下落していき、集約化されてきている。私自身、この社会の変遷をどうすることもできず、こうして書きたいこともうまく書けないながら、なんとなく記すことしか出来ない。1週間前に偶然観たのが、2007年の『恋空』で、この映画も愛する異性が死んでしまうのだが、似ているようで似ていないようで、『わが青春に悔なし』の精神性と比較すると『恋空』は自由奔放な時代性ゆえか霞んでしまうくらいなのだが、愛する異性を亡くす話はそれでも繰り返されている。ただ、愛する人が生きていた時に一緒に過ごした事が、心の支えであり、その後の事の楽をしたい人生よりも捨てられずにある。そしていつの間にか女性には農村の仲間ができていて、リーダーシップを発揮するまでになり、仲間とトラックに乗ってまだ舗装されてもいない農道を煙を立てながら微笑むながら進んで終える。ハリウッド映画や今の映画のような激しいベッドシーンなどない。お姫様だっこだけである。黒沢明という映画監督が誇りとして残るのもこうしたところなのかも知れない。自由と豊かすぎる事は、映像作品を限定させてしまった面もあるというのを感じさせる映画だと思う。今が豊かゆえの貧困というなら、ひねくれているだろうか。今を有難く思うしかない。なんだか自分が情けないのではあるが。