レベッカ(1940)のレビュー・感想・評価
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ヒッチコックのアメリカ時代がここから始動
ヒッチコック監督のフィルモグラフィーの中で、本作ほど重要なターニングポイントとなった作品はない。というのも、これは彼がアメリカからの招聘を受けて初めて撮った記念すべき「アメリカ映画」だから。
序盤はコミカルなロマンス物を予感させ、身分の違う二人が惹かれあって開始30分で「結婚しよう!」と劇的展開を見せるさまに驚かされる。さらにそこから「ダウントン・アビー」ばりのお屋敷生活の中で用意周到に展開していくミステリーとサスペンスは、安心して身を委ねていられるほど重厚で高品質。なるほど、特定の人物に対し募っていく疑心暗鬼や(疑惑の影)、あるいは死んだ者の影響が身辺にずっとはびこってヒロインを得体の知れない運命へと導いていく(めまい)あたり、のちのヒッチコックの傑作に通じるエッセンスもひしひしと感じられる。ちなみに本作はこの年の作品賞オスカーを受賞。こうして彼のアメリカ時代は華々しく始まったのだ。
心理劇
非常によく練られた、心理ミステリーの一級品だ。
主人公の「わたし」は、ヨットの事故で先妻レベッカを亡くしたマキシム・ド・ウィンターと結婚する。屋敷の家政婦ダンヴァース夫人は、レベッカへの忠誠心から、「わたし」を病的なまでに、精神的に追い詰める。
レベッカの遺体発見後の展開も秀逸で、レベッカの従兄弟と名乗る男の関わりや、驚くべき真相が判明した後の、救いようの無い結末まで、全く目が離せない。
ヒッチコックの他の作品に比べると、派手さに欠けてるとは思う。しかし、これは、静かに、かつ、激しい心の動揺をもたらす、心理ミステリーの一級品だ。
ホラーや怪奇映画、ゴシック作品が持つ、不穏でおどろおどろしい雰囲気が全編に渡っているが、そうした作品とは全く別物だ。ミステリアスな魅力とスリルに満ちていて、観る者の感情を揺さぶる、極めてドラマティックな傑作サスペンスだ。
「見えない存在に怯える」その演出力は素晴らしい。
大好きな監督のアメリカ第1作目
監督得意の怖がらせは最高潮には達していないが
手をつくし主演女優や観客の心理を揺さぶる。
当時のスタッフは、まだ彼の演出は理解不能で
撮影の方法について行けないスタッフも居たはず。
「恐怖とは何か、考えてごらん」
「隣に座る人が犯罪者だったら…」
「突然罪をなすりつけられたら…」
そこから始まる”怖がらせの流儀”
ラブロマンスものに慣れた製作陣には難しい。
前妻の名前の刺繍に恐怖を覚えさせるにはー
美しいはずのランプの光も恐怖に変わるー
声のトーンもまた恐ろしい世界へ誘うこともある。
恋愛…、新婚…、お金持ち…、幸せ…のはずが、
小さな疑惑、大きな疑惑、実態のない闇が襲う。
ところどころアメリカ的だけど
それでも「ヒッチコックの映画」
と、言い切りたい。
※
佳作ですがヒッチらしさは希薄
古いモノクロ画面は辛いが、どんどん引きつけられる
まずはレベッカとはこういう映画だったのかと大いに感嘆。
これぞ正統派ミステリーという醍醐味を存分に味わうことができた。
正直言えば中盤までは画像の悪さも相俟って散漫という印象だったのが、レベッカという謎の女の核心部へ導く手法にまんまとしてやられ後半は目を離せなくなる。
ヒロインの「うぶな新妻から真の妻」への変化も目を瞠らされる要因であり、いずれにしろヒッチコックの論理構築性と映像・演出による感情操作の妙に見事にはめられたということだね。
ただ一点、前妻レベッカには忠実で新しい妻には冷淡意地悪だった女召使頭がなぜあれほどまでのことをしたのかという部分に関しては納得できていないので、そこは調べてみたい。
130分という長丁場だが映画レガシーの一つとして見た甲斐大ありでした。
エドガー・アラン・ポーの世界を彷彿とさせる世界観に取り込まれる。
フラグが一杯。
目くらましのフラグ。
一転目の事柄につながるフラグ。
ラストにつながるフラグ。
そのフラグも、結末を知らないで鑑賞するときと、知ってから鑑賞するときの意味付けが変わる。
「ほう、職人技だのぉ」と唸りたくなる。
最初はロマンスから始まる。
上流階級が集うゴージャスな世界。そこに紛れ込んだ庶民。
ゴージャスな世界への憧れと皮肉。庶民がいることで共感しやすくなる。
あれよあれよという間の、おとぎ話、ハーレクインロマンスの成就。
そして、重厚かつオドロオドロシイお屋敷。
女フランケンシュタインが牛耳る世界。
めでたしめでたしで終わったおとぎ話の続きが幕を開ける。
眼前に立ちはだかる前妻レベッカ。庶民のコンプレックスを煽り、追いつめられるヒロイン。
昼メロちっくな展開。
前妻VS新妻の構造は決して絵空事ではない。ステップファミリーでは必ず起こること。
ダンヴァース夫人を前妻の子や、姑等に置き換えれば、今全世界でも起こっていること。
だから、痛々しくて見るのが辛かった。
そんな日常的な関係性を、監督はひたすらゴシックモードを始め、あたかも怪奇もののように装飾する。
展開の早すぎるプロポーズ。しかも、ヒロインに身寄りがいないことを確かめた上で。
名家という話なのに、披露宴もせずに一枚の紙で済まそうとする結婚証明。
味方なのかそうでないのか判然としない使用人たちのふるまい、佇まい。
何か罠があるのではないかと勘繰りたくなる。
青髭、美女と野獣…幾多のおとぎ話が頭をかすめ・・・。
ダンヴァース夫人の狂気が際立ち始め・・・。
第3の幕が上がる。
夫の秘密を共有した新妻。
今にもボロを出しそうな夫。
好きだったあどけなさの消えた妻と夫の関係性。
味方になるのか、敵になるのかわからない人々。
ハラハラドキドキ。
そしてふたたびどんでん返し。うやむやにされるもう一つの事実。
そのどんでん返しが引き起こす悲劇で幕を閉じる。
一転、二転、三転…。フラグに振り回される。
よく練られた構成・脚本にも見えるが、振り回され感があまりよくないのでつい評価が下がってしまう。
シーンシーンも切貼のようにも見え、つい評価が下がってしまう。
それでも、レベッカの部屋の調度類等、そこにいないレベッカを、でもあたかもまだ存在する人のように印象付ける圧倒的な映像。
これから始まる物語へ導く冒頭(『市民ケーン』とよく似ている)。
映画から目が離せなくなる。
カタルシスはないのに、記憶に残る映画。
★ ★ ★
ローレンス・オリヴィエ氏が、坂上二郎氏に見えてしまってしょうがなかった。って私だけ?
ジョーン・フォンテインさんも、日本の若手女優でよく似た人いるなあ。特にしなの作り方と思うのだけれど、名前が思い出せない。若いころの沢口靖子さん?
ヒッチコック作品の中でも一二を争う名作!
富豪に見染められ結婚することとなった絶世の美女。しかし富豪の邸宅に...
前妻の影におびえる新妻
ローレンスオリヴィエ扮する英国紳士マキシムドウィンターは、モンテカルロでジョーンフォンティン扮するマリアンと出会い朝食を一緒にと誘った。マキシムは妻レベッカを水死で亡くしていた。マキシムは、過去を忘れさせてくれるマリアンをドライブやダンスに誘ったりした。マリアンは、急に街を出立する事になったが、マキシムに別れを告げに部屋へ行ったところ、マキシムから求婚されマリアンは受け入れた。ふたりは直ちに結婚しマリアンは幸せだった。ふたりが住む誰もが憧れるマンダレーに着いてマリアンはその大きさにびっくりした。ジュディスアンダーソン扮する前夫人と共にやって来たダンバース夫人が家事を取り仕切っていた。マリアンは広い家を見て歩いた。マキシムの姉からは、ダンバース夫人はレベッカを崇拝していたからマリアンには辛くあたるのではないかと言った。散歩していると海辺に古びた小屋があってレベッカの物がありマリアンが入るとマキシムは怒りだしたりした。マリアンは、使用人にもレベッカと比べられると感じていて不安になっていた。マキシムも独りよがりだったかなと言い始めた。レベッカのいとこが出入りしたりして、果たしてふたりの結婚生活はうまくいくのだろうか? 前妻の影におびえる新妻。格が違いを見せつけられる結婚はやっぱり幸せとは言えないね。仮装舞踏会を開いて健気に頑張るマリアンだが、さすがヒッチコック。背筋がゾッとする様な展開に恐れ入ったね。
ハリウッド進出作品にして、至高の一作
カタルシスを簡単には与えてくない映画
ジョーン・フォンテインが美しい
真っ直ぐで健気でいじらしい
前半は彼女がイジメ抜かれ、彼女のその控え目な性格を強調していく
その過程が彼女に感情移入しているだけに、劇中観ていて苦しくなる
特に仮装舞踏会のドレスのシーンは辛い
1年前に亡くなった前妻レベッカが、死していながらマキシム初め屋敷の全員を支配していることを延々と描写する
終盤になり法廷劇と化す
マキシムは実は殺人を犯している
それが露見してしまい証拠も上がるのだが、結局嫌疑は晴れてしまう
レベッカの呪縛は解けてしまうのだ
しかし、そのカタルシスはマキシムのもので主人公のものではないし、観客のものでもない
主人公のカタルシスは屋敷が燃え落ちる事によって彼女のレベッカの呪縛が解ける事によって訪れる
しかし、これもまた観客のものではない
火災の映像の迫力は白黒であることを忘れるほど
ラストシーンのレベッカを示すRの刺繍の入ったシーツが敷かれたベッドが火に包まれることでレベッカが遂に本当に死んだことを明らかにする
ここで初めて観客の私達にカタルシスを監督は与えてくれるのだ
そう映画の終わり、わずか数秒前で
つまり前半のレベッカの影に怯えて抑圧を受けていたのは実は主人公だけでは無く、観客たる私達達だったのだ
監督はカタルシスを最後の最後まで我々に与えず、他者に与えてお預けまでさせて渇望させてから初めてカタルシスを私達に投げ与えてくれるのだ
この焦らしかたは本当に嫌らしい
そしてまたヒッチコックらしい嫌らしさともいえるだろう
もちろんそれは誉め言葉だ
パワーバランス
今夜も石橋秋のヒッチコック祭りです!
今作で、4作目となるヒッチコック作品。少しずつ奥深くまで入っていきましょう!
今日のテーマはヒッチコックが描くキャラクターのパワーバランスを見ていきましょう。
パワーバランスというのは、映画の中でふたり、もしくはそれ以上のキャラクターのうち、誰がその場をコントロールしているかということです。これは、どのストーリーテリングでも大切とされていることですが、その理由は、我々現実世界では、パワーバランスを必然的に感じているからです。
パワーバランスをどの目線から視聴者に見せるかというところで、映画の方向が決まり、現実世界よりも一歩先に入った映画の世界を楽しむことができるんですね。
ヒッチコックがそのパワーバランスをどのように使っているのでしょうか?
今作を例にとって見ると、一番最初のシーンであっても、イーディス夫人の元に雇われていた主人公には、明らかにイーディス夫人とのパワーバランスがありました。しかし、一度大富豪のマキシムと出会い、婚約することになると、立場は逆転し、主人公がイーディス夫人の元から去ることになります。
この主人公とマキシムのキャラクターを紹介するような小さなシーンだとしても、視聴者はそのパワーバランスの逆転に爽快感と興奮、期待感を感じ取ることができます。
ヒッチコックはこのように、小さなものから、ストーリー全体にかかるような大きなものまで、数多くのパワーバランスの逆転をキャラクター間につくりあげています。それがあるから、サスペンスが生まれ、ドラマが生まれ、ロマンスが生まれる。
この数と、そのダイナミックさがヒッチコックの大きな特徴です。
パワーバランスがキャラクター間に存在すると、視聴者はどちらかの見方につきます。さらに、そのパワーバランスが逆転しそうでしなかったり、それが原因で大きく開いてしまったりすると、さらいにそのエンパシーは強くなっていきます。そして、それが思わぬタイミングで逆転した時、もしくは願ったり叶ったりのタイミングで逆転した時に、その話はクライマックスを迎えるのです。
Aプロット、Bプロット、Cプロット、、、、と映画の中には多くのストーリーが絡み合ってできているのですが、その全てのプロットにパワーバランスの構築と逆転、もしくは再逆転を描くことで、ここまで奥行きのあるストーリーが生まれてくるのです!
ヒッチコックの映画で、長いなーと感じてしまったことがある人は多いかもしれませんが、その理由はヒッチコックが作り上げたいくつかのプロットのパワーバランスを理解できていないからでしょう。それは、文化的な違いなどもあるかもしれませんが、その多くはただ単に人生経験が浅いからです。(断言)
これは、つまりは、今後1年後、5年後、もしくは10年後、はたまた50年後に見た時には、全く違った感情をヒッチコック映画から感じ取ることができるということです。
2度と同じ感情を得ることができないのがヒッチコック作品。
これこそまさに、視聴者がいてこその映画です。視聴者が自分から足を映画の世界に踏み入れるからこそ無限の世界を楽しむことができる。まさに、映画界の天才。偉人です。
ぜひ皆さんも、ヒッチコックの極上の映画を楽しんでみてはいかがでしょうか?
ヒッチコック史上最高に恐ろしい心理サスペンス
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